9話 マイヤ、だんな様のお役に立ちますです!(4)
厨房の場所はすでに知っています。
一階の奥へと向かい――その入口でマイヤは足を止めました。
そして、一回、二回と深呼吸。
「…………えーい!」
覚悟を決め、足を踏み入れます。
前のお家でこんなことをすれば、それはもう考えるのも恐ろしいことになったでしょうけど……少なくともここでは、怒鳴り声やゲンコツやムチが飛んできたりすることはないようでした。
「でも……ほんとにマイヤがお食事作っても、いいのですかね?」
呟き、マイヤはふうと息を吐きます。
――ブラウヒッチ家で学んだことの一つに、『自分の分をわきまえる』ということがあります。
マイヤは獣人であり、未熟な見習い兵。
やってはいけないこと、許されないことがたくさんたくさんありました。
その中には一人でお屋敷の中をうろついたり、厨房に入ったりすることも含まれていました。
けど……リーン様はどうもマイヤにそういう制限をかける気が無いように思われるのです。
つまり、どういうわけか、マイヤは獣人なのに獣人扱いされないのです。
……混乱しますですね。
(いったい何をお考えで、どういう基準をお持ちなのですか……?)
これまで厳しくしつけられてきた常識が通用しない――これはある意味、とても怖いことです。
何をしたらリーン様が不快に思われるのか、見当もつかないわけですから。
……嫌われたくないですし。
「――あ、いえ、自分のことは後ですね」
今考えるべきなのは、リーン様のお食事。
雑念を払い食事の支度に集中しましょう。
マイヤはまず、必要な道具や食材がそろっているか確かめることにしました。
鍋や包丁、金串など、調理用具は一通りあるようです。
あと、塩、コショウや油なんかも。
全体的にあまり整頓はされておらず、ごちゃごちゃっとしています。
専属の料理人さんが居るという感じではないですね。
――ということは、普段はリーン様が自らお料理をされてるのでしょうか?
お隣の食料庫の方に入ると、ひやりとした冷気が身体をつつみました。
薄暗いですが、マイヤは夜目も鼻も利くのでこのくらいなら確認するのに支障はありません。
様々な食材が置いてありました。
「薫製のお肉や魚の干物、野菜類、チーズ――あ、パンもあるですね」
しかもマイヤが普段食べていた黒くて平たくて堅いのではなく、白くて丸っこくてふわっとしたのです。
……は。
よだれが垂れていました。いけないいけない。
これはマイヤのではなく、リーン様のものです。
手を出さないのは当然として、食べてみたいなんて思うことがすでに罪です。
悪です。
許されません。
…………。
……どうにか誘惑との戦いに勝利しました。
接戦でした。
いずれにしても、リーン様の一食分を作るには十分な量でしょうね。
器具も調味料も、特に不足はなし。
となれば、次は『何を作るべきか』という問題です。
「うーん……煮るだけとか、焼くだけとかなら、大失敗はないです、よね?」
『よね?』とか尋ねてみたところで、答えてくれる人はいないわけですが。
自信が持てなくても、命じられた以上はやるしかないのです。
とりあえずお湯を沸かし、その間に材料を切って――
と考え、そこで動きが止まりました。
「ええ……何ですか、これ……」
この厨房の調理台周辺は、マイヤの知るものとあまりにも異なっていたのです。
まず、火をくべるべきかまどがありません。
鍋を吊るす鎖がありません。
水を蓄えておく水瓶もありません。
「んー……お水は一回一回、外の井戸から汲んでくるのです?」
途方に暮れていると、厨房の入口から声がしました。
「お前の右手に金属管があるだろ?」
リーン様です。腕を組んでこちらを見ておられます。
……えっと、もしかして、独り言とか全部聞かれていたですか?
「その上の紋様に触れてみろ」
「は、はい。え……わっ!?」
マイヤは目を丸くして固まります。
なんと金属管から水が迸り出ました! な、なんですか、これ!
「水量はその紋様を左右になぞることで調節できる。かまどはそっちの石台。左の紋様に触れると点火、もう一度触れると消火。右の横長の紋様で火力の調節」
言われた通りかまどの紋様に触れると、ゴッという音がして火がつきました。
次に右の紋様にも触れてみます。
「え、なに、すごいです。本当に火の大きさが操作できる……」
感嘆のため息が漏れました。
普通は火をおこすのにも一苦労ですし、熱の通り具合はいちいち鍋を炎から近づけたり遠ざけたりして調節するものなのですが。
「こんな便利なかまど、マイヤ、初めて見るです。あ、もしかして……魔術器具、なのですか?」
「そうらしいな。設備一式もらいものなんで、俺も詳しくは知らねえが」
見習い兵時代に魔術についての一般知識を習ったことがあります。
そのときに『腕のいい魔術師になると、魔術を道具に込めることもできる』と聞きました。
もっとも魔術師自体かなり希少な存在ですし……日常生活にそういう道具を利用するというのは、一般庶民はもちろん、大貴族でさえそうそうできない贅沢なのではないかと思います。
実際、ブラウヒッチ家のお屋敷でも、魔術器具なんて見ませんでしたから。
そこでマイヤは気付きました。
「あ、あの……これって、すごく、こ、ここ、高価なものでは……?」
いえ、もしかしなくても、とんでもなく高価ですよね!?
万が一壊してしまった場合、マイヤが百回くらい生まれてから死ぬまで働き続けたとしても、全然弁償できなさそうです。
あ、そう思うと、突然膝が震えてきました。
「心配すんな。そうそう壊れやしないし、壊れたから死ぬわけでもねえ」
でも、何かあったら命を捧げても取り返せないようなお仕事を任されるのは、死ぬのと同じくらい怖いですよ?
……言えませんけど。
「便利には違いないから、あるなら利用しなきゃ損だ。大して難しいもんでもない。使い方覚えとけよ」
「は、はい……」
緊張がさらに高まるのを感じながら、マイヤはお料理に取りかかりました。
確かに操作は簡単ですし、すぐに覚えられるのですけど……マイヤの命より高いものを動揺せずに使うのは、ちょっと難しいですね。
結局、作るのは具だくさんのスープにしました。
一口大に切った肉と野菜を一緒くたにして鍋で煮込みます。
味付けは塩のみ。
そして、湯気を当てて温めたパンを添える。
手際は良くなかったと思いますが、時間はさほどかかりませんでした。
(ついでに魔術器具のかまどが壊れることもなく。よかったです……)
しかし――果たしてリーンの様のお口に合うでしょうか?
マイヤにとってはすごいご馳走ですけど、お金持ちの方にお出しするお料理としてはあまりに簡素でしょうし。
いえ、今さら悩んでも仕方ないのですけどね。
「あの、お夕飯……できました、です」
いくらかビクビクしながらも、マイヤはリーン様にそうお伝えしました。