88話 〝英雄〟対〝英雄〟(2)
ミルシュカさんがゲルト様の監禁部屋を立ち去ってしばらくすると、にわかに街の中が騒がしくなってきました。
自警団の人たちが慌ただしく街路を行き来し、やがて遠くから戦闘の気配が響いてきます。
リーン様たちが、再び戦いを仕掛けたのでしょう。
(これからどうするべきでしょうか……)
どんなに相手が強くても、リーン様が負けるとは思いません。
きっとゲルト様とマイヤのために、ここまで来て下さるはずです。
でも、マイヤはリーン様のお体に負担を掛けることを望みません。
それに……ただ助けていただくだけではなく、リーン様のお役に立ちたいのです。
しばらく考え、そしてマイヤは言いました。
「――逃げましょう、ゲルト様」
マイヤたちが自力で逃げ出すことができれば、救出作戦に回るはずだった兵士さんたちを他の場所で使えるはず。
勝算はありました。
自警団が浮き足立っている今なら、混乱を利用できそうなこと。
そして、もう一つ、部屋に残されていた小さな刃。
ミルシュカさんがパンを切るのに使ったナイフです。
もしかしたら、わざと置いていったのかも……あ、いえ、それは今考えても仕方ないですね。
とにかく、これがあれば色々とできることが広がるのです。
まずマイヤはカーテンやベッドのシーツ、毛布をナイフで裂き、それをより合わせて丈夫な縄を作りました。
固定されたベッドの脚にしっかりと結わえ、十分な長さがあることを確認します。
そしてさらにもう一本。
そのときゲルト様が少し引きつったお顔で口を開きました。
「あの……逃げるというのは、それを伝って地面まで降りるということですよね?」
「はい。建物の中は見張りがいるでしょうから」
「私の記憶が確かなら、ここは三階だったと思いますが」
ええ、そのくらいの高さですね。
「その、私、高いところが苦手で……変な落ち方をすれば命にかかわりそうですけど、大丈夫ですかねえ?」
「変な落ち方をしなければ大丈夫なのです」
と、そこでマイヤは気付きます。
「あ、ご安心を。ゲルト様が縄を伝っていただく必要はないのですよ。マイヤが背負って地面までお運びしますから、ご心配なく」
「背負う……」
しかし、ゲルト様は心配にさらに心配が重なったような表情になりました。
「わ、私、意外に重いと思うのですが……」
「? いえ、ぜんぜん意外ではないのですよ? イレーネ様も、最近ゲルト様が太ったとおっしゃってたですし」
窓から自警団員の一隊が正門の方へ駆けていくのが見えました。
あまりのんびりしていられないですね。
「ではマイヤの肩にしっかりしがみ付いてください、です」
まだ何か言いたげなゲルト様とマイヤをぎゅっと縄で結んで固定。
窓はゲルト様が通れるほど大きくなかったので、ナイフを使って壁を四角く切り取り、外に縄を垂らします。
「ま、待ってください、ほ、ほ、ほんとにこんな高さから――」
「では、行っくですよー!」
マイヤはナイフを口にくわえ、綱を両手でつかむと、床を蹴りました。
降りるのではなく、勢いを殺しながら落ちる感覚。
三つ数えるほどの時間で、マイヤたちは無事地面に到着します。
勁で覆って保護していたとはいえ手のひらが少しヒリヒリしますけど、この程度は何でもありません。
ゲルト様は青い顔でひゅーひゅーと窒息しそうな呼吸音を立てていますが、意識は保っているようです。大丈夫ですね。
「走りましょう!」
ナイフで綱を切り、マイヤはゲルト様の手を引いて駆け出しました。
ミルシュカさんが人質に興味を持っていなかったのは本当らしく、マイヤが鉄柵や門扉を切ってしまえること、二、三人くらいの兵士さんならどうにかできてしまうことは、まったく伝達されていないようでした。
首尾よくお屋敷の裏庭から街路に抜け、マイヤたちは脱出に成功しました。
「やった……。ゲルト様、このまま街を出るですよ!」
ただし、うまく行ったのはここまででした。
正門は戦場になっているだろうという予測のもと、外周寄りを移動して適当なところで街の外に抜けようとしたのですが……そこで自警団の兵士さんたちに見つかってしまったのです。
こちらでは別働隊との戦闘が行われていたのですね。
マイヤたちは慌てて森の中に逃げ込みました。
すぐに五人ほどの兵士さんが後を追ってきます。
必死に脚を進めますが、山に入ったのか道はすぐに急な上り坂となり、ゲルト様の速度ががくんと落ちました。
ダメです。これは逃げ切れなさそう。
「――えいやっ!」
マイヤはくるんと振り向くと追っ手の一人の足を払って転ばせ、跳び上がってさらに一人のあごを蹴りつけました。
しかし、足止めできる人数には限りがあります。
「男の方を押さえろ! 絶対逃がすな!」
地面に倒れたままの兵士さんから指示が飛びました。
二人の兵士さんがマイヤの脇をすり抜けて、ゲルト様に迫るのが見えました。
余裕を失っているのか、剣を抜き背中に切りかかろうとしています。
まずい、です。止めに入るのが間に合いません。
しかしそのとき――
「――――ッ!」
マイヤの背筋にぞくりとするような感覚が走りました。
同時にその場から大きく飛び退きます。
「黒嵐襲!」
声が響きました。
次の瞬間、勁の風が兵士を捉え、巻き込み、吹き飛ばしていました。
いえ、風というよりは、強烈な嵐というか暴風というか――見えない巨大な拳で殴り飛ばされたようなものだったのでしょう。
鎧がへこみ兜がひしゃげ、敵は全員、白目を剥いて伸びてしまいました。
マイヤとゲルト様があっけにとられたまま荒い息をついていると、森の奥から刀を提げた男の人がゆっくりと姿を現し、こちらへ歩いてきます。
マイヤは、そのまま地面にへたり込みたいほどの安堵に襲われました。
じわりと目に涙が浮かびます。
「だ、だんな様ぁ……」
「こんなところで何やってんだ、お前ら」
呆れたようなほっとしたような表情で眉を寄せ、リーン様はおっしゃいました。




