81話 内通者(2)
「ロイさん……ほんとに裏切ってたのですね」
腹が立つというよりは、むしろ悲しい気分でマイヤは言いました。
「それはちょっと認識が違うかなあ」
ロイさんは小さく片頬を吊り上げるように笑います。
「裏切りじゃない。僕は最初からこちら側の人間なんだ。こういうとき働くために、エルラ皇国軍に十年も潜伏してたんだよ」
「じゅ……」
マイヤは思わず声を詰まらせました。
そんなに長い間、周囲の人たちを騙し続けていたのでしょうか。
ロイさんはイレーネ様を盾にしたまま、天幕を離れじりじりと野営地脇の森の方へ移動していきます。
リーン様のように勁の刃を飛ばし、武器を握ったロイさんの手を攻撃すれば――いえ、マイヤはまだ未熟なのです。一歩間違えば、イレーネ様に当たって大けがをさせてしまいかねません。
「エッダさんはここに隠れていてください、です!」
そう言うと、マイヤは短刀を片手に後を追います。
周囲に兵士さんの姿はありません。あらかじめ命令して遠ざけていたのでしょう。
「しかしさっきの、すごい反応速度と動体視力だったね。獣人だから? それとも竜殺しの英雄に仕込まれたからかな?」
気安い口調で、しかし隙を見せずにロイさんは言います。
「だんな様のこと、知ってたのですね」
「まったく、最大の誤算だったよ」
ロイさんの唇が皮肉っぽく歪みました。
「まさか名高き英雄様が同行してるとはね。本来なら集団で隊商を襲撃して終わりの予定だったのに、こんなまわりくどいことをする羽目になった。竜を殺せる人間が相手じゃ、何人死人が出るかわからないからなあ」
ちなみに、と笑みを消してロイさんは続けます。
「次点の誤算がお前の鼻だよ、獣のガキ。ディトマールの無能がお前に村の調査をさせるなんて言い出したときに、殺しても止めるべきだった」
「…………」
少し傷つきます。でも、おかげで気持ちの整理がつきました。
この人は、間違いなく敵なのです。
マイヤとイレーネ様を抱えたロイさんは等距離を保ったまま、じりじりと森の奥に進んで行きます。
「ところでさ、リーンさんはどこに行ったのかなあ?」
以前の口調と表情に戻って、ロイさんは尋ねました。
「やりあう機会がなかったから、少し残念ではあるんだよね。僕もかなりの腕前だと自負してるんだ。少なくともロラントなんかよりは数段強いよ?」
無駄口を叩きながらも、ロイさんはイレーネ様をしっかり押さえています。
脱出のための人質というわけではないのですね。
リーン様の心配通り、イレーネ様の身柄そのものが狙いなのでしょう。
どうやって取り返そう、と考えたとき、リーン様の声が頭の中でよみがえりました。
――もっと観察し、もっと考えろ。
――とにかく周囲から少しでも多くの情報を読み取ろうとし続けろ。
「だんな様は、ロイさんなんかよりずっと強いのですよ」
答えながら、それとなく周囲に視線を走らせます。森の中。たくさんの木々。
……樹木は勁を通す、でしたよね。
「自信があるならこんなひきょうなことをせず、正面からリーン様と勝負してみればいいのではないですか?」
「物事には優先順位ってものがあってね。目的がある以上、余計な――」
その言葉の途中で、マイヤは目の前の木に思い切りてのひらを叩きつけました。
勁は幹を伝い、地面を網の目のように覆っている根を通り――ロイさんとイレーネ様の足元から強烈な衝撃となって、体内へ浸透します。
小さな苦鳴とともに、短刀の刃先がぶれました。
その隙を逃さず、一気に距離を詰めます。
ロイさんは舌打ちを漏らして人質を突き離し、大きく後退。
気を失って地面にくずおれるイレーネ様を背中に庇い、マイヤはロイさんと向き合いました。
もうしわけないですけど、今は介抱している余裕はありません。
「イレーネ様は取り戻したですよ!」
マイヤは宣言します。ロイさんの企みは失敗に終わったのです。
しかし――ためらう素振りも見せずロイさんは腰から長剣を抜き、恐ろしい勢いで斬りつけてきました。
どうにかよけましたが、マイヤの髪が数本宙に舞います。
「……ああ、痛え。くっそ、なんだ今のは。意識が一瞬飛んだよ。英雄直伝かい?」
「…………」
「ん? なに顔を強張らせてるの? 奪われたら奪い返すだけじゃないか。むしろ、この方が両手使えていい。君を殺しやすくなった」
マイヤは全身にじっとりと汗がにじむのを感じました。
先ほどの一撃――あんなに殺気のこもった攻撃を受けたのは、初めてのことでした。
「緊張してるねえ。僕が人質を手放した程度で気を緩めたことといい、君、あんまり殺し合いの経験がないんだろ? それじゃあ、僕には勝てない」
ロイさんはマイヤをじっと見つめ、鳥肌の立つような微笑を浮かべました。
人殺しなんて、口に出して自慢するようなことではないと思うです。
が……悔しいことに、マイヤは気圧されて思わず半歩さがっていました。
その瞬間、ロイさんの剣がぬるりと伸びます。
かろうじて、手に持った短刀で弾くマイヤ。
しかし間髪をいれず、二撃め、三撃めが繰り出されます。
長い手足を器用に使って虚実をおりまぜた、幻惑するような剣さばきです。
本人が言うように、強いのは確かでしょう。
でも速さや技の正確さで言えば、マイヤももっといい勝負ができるはずなのです。
毎日、あのリーン様とお稽古しているのですから。
リーン様とロイさんの違いは、一振り一振りに込められた、強烈な悪意。
竜の激怒ともまた異なる、理性に裏打ちされた『殺してやる』という意志。
焦れば焦るほど体が重くなり、一方的に押され続けます。
対抗するには、マイヤも命を奪うつもりで刃を振るわなければならないのでしょうか?
「まさかとは思うけど……君、殺す覚悟も殺される覚悟ななしで、なんとかできると思ってたのかなあ!?」
「…………!」
自分の覚悟の甘さを自覚した瞬間、一気に怯えが襲い掛かってきました。
手足がおもりを付けられた様に動かなくなります。
ロイさんの剣がマイヤの体を捉え始め、腕や肩から血が飛び散りました。
もはや反撃の意思すら保てず、マイヤは逃げるように後退し続けます。
刻一刻と恐怖が膨れ上がります。
おそらく、あとわずかでマイヤはこらえきれず無防備に背中を晒して逃げ出してしまうでしょう。それがわかっていながら、打つ手が見つかりません。
心が悲鳴を上げています。もう限界です。そのとき――
「あ……」
マイヤは何かに足を取られ、転んでしまいました。
慌てて跳ね起きようとし、それと目が合います。
土気色の顔。濁った瞳。鼻を突く血のにおい。
――大きく喉元を切り裂かれた、護衛隊隊長ディトマールさんのなきがらでした。
「おや、邪魔だったね。片付けておけばよかったかな」
ロイさんは何でもないことのように言いました。
「もう察してるとは思うけど、自警団とのやりとりを目撃されたのは僕の方だ。どうも隊長には目を付けられてたらしく、あとをつけられ問い詰められて、で、この通り」
一転、嘲るようにその唇が吊り上がります。
「降伏勧告はしたんだよ。でも腕の差があるのをわかっても退かなくてね。彼曰く『弱さが任務放棄の理由になると思うのか?』だってさ。仕事人間の無様な最期ってわけだ。もう少しすれば、マイヤさんもこうなるかなあ?」
「…………」
わかってきました。ロイさんは舌にも剣を持つ人です。
言葉、目つき、表情まで活用し、身体だけでなく心をも潰す戦い方をするのですね。
この相手をなぶるような無駄口も、マイヤをさらに怯えさせるためのものでしょう。
先ほどまでだったなら、狙い通り心を挫かれていたかもしれません。
しかし――マイヤは後退しかけた足を止めて、顔を上げました。
「……任務をいっしょうけんめい果たそうとするのは、無様なのです?」
「うん?」
「命がけで責任をまっとうするのは、笑われなければならないことなのですか?」
多分、マイヤは怒っていたのだと思います。
マイヤにとって、リーン様から与えられたお仕事は大切で神聖なものです。
すべてを賭けて果たすべきものです。
だからマイヤは他の方のお仕事にも敬意を払いますし、それを見下すことに良い感情は持てません。
「ディトマールさんが任務を放棄しなかったから、ロイさんは斬らなければいけなくなりました。斬ってしまったから、ロイさんはマイヤを騙さなければいけなくなりました」
確実にマイヤは血のにおいに気付きます。
なので、わざわざディトマールさんが内通者だったという作り話をして、返り血にウソの意味付けをする必要が生じてしまったのです。
「でも、余計なウソをついたためにマイヤはロイさんを疑い、結果としてロイさんはこうしてイレーネ様の誘拐を邪魔されてしまいました。これ、元はと言えば、ディトマールさんが最期まで抵抗したためですよね?」
「…………」
「ロイさんは……結局、自分がバカにしたディトマールさんに、しっかり一本取られているのではないですか?」
ディトマールさんがそこまで意図していたのか、知る方法はもうありません。
マイヤはディトマールさんのことが、怖くて苦手でした。
ただ、あの村での調査を振り返ると、マイヤの能力を軽んじたりせず、ちゃんと信頼してくださる方だったとは思うのです。
「口の減らないガキだな」
ロイさんは忌々しそうに舌打ちしました。
「適当にからかって時間稼ぎすれば、こっちの勝ちなんだが……気が変わった。きっちり殺してから、奥方をさらっていくとするよ」
「殺されませんです。マイヤはリーン様の弟子なのですから」
恐怖はもうありません。
呼吸が整い、勁力が体を巡ります。
ディトマールさんと同じく、マイヤにも任務があるのです。
イレーネ様をお護りするという、リーン様に任された大切なものが。
それを、果たします。
今度はマイヤから動きました。一歩踏み出すと同時に、短刀を投げつけます。
ロイさんは体を開いてそれをかわし、同時に刺突を繰り出しました。
マイヤの狙いは――その伸ばした右腕。
頬の皮一枚切らせながら刃を避けると、手首をつかんで思い切り引っ張ります。
そのまま懐に入り込んで、お腹に肘。続けて肩でみぞおちを跳ね上げ――
「やあああああああああぁッ!!」
宙に浮いた相手の体に全力で背中をぶつけ、大木の幹に叩き付けました。
かは、という音と共に、ロイさんの口から空気が吐き出されます。
うまくできました。
これで動けなくなるくらいのダメージを与えたはず――と思った瞬間。
「――――っ!」
足に灼けるような痛みを感じ、マイヤは飛びのいていました。
「……は、は、やるねえ、すごいすごい。ほんと大した才能だ」
少し苦しそうな呼吸を漏らしながら、ロイさんは立ち上がります。
気絶しなかったどころか、とっさに剣を手放して短刀で反撃したのです。
「でも、やっぱり無意識のうちに殺しは忌避してるんだねえ。だから技がちょっとずつ甘くなる」
「…………」
立ってくるなら、立ち上がれなくなるまで何度でも繰り返すだけです。
しかしロイさんは両手をだらりと下げ、近寄ってくる様子を見せませんでした。
油断なく身構えるマイヤを見て、にいっと笑います。
「時間稼ぎすれば、こっちの勝ちだって言っただろう?」
マイヤは眉をひそめ、ややあって気付きました。
森の向こうから足音が近づいてきたのです。それも複数。
ロイさんに気を取られていて、警戒がおろそかになっていました。
「僕一人で奥方を運ぶのは骨が折れるからね。当然応援が来る手はずになっているわけだ。さあて、英雄の弟子は何人相手までなら生き延びる自信がある?」
とってもよろしくない事態です。
大勢を相手に気絶しているイレーネ様を護り通すのは難しいでしょう。
一か八かで、抱え上げて逃げるべきでしょうか?
――と、そこまで考えて。
「あ……」
マイヤはふう、と安堵の息を吐きました
逃げる必要など、どこにもないことを理解したのです。
「……チビ相手に人数集めて勝ち誇るとか、ちっと情けなくねえか? 副隊長さんよ」
聞き慣れた声。
やがて木々の間から、ゆっくりとリーン様とファリンさんが姿を現しました。