79話 故郷への帰還(4)
竜殺しの英雄。
先の人竜戦争で活躍した、単独で竜を屠ることができる超人。
俺もその称号を与えられた一人ではあるが――今彼らの話題になっている『英雄』は、もちろん俺ではない。
「つまり、私たち獣人隊がやり合った、あの怪物のことでしょうね」
ファリンは硬い表情で言った。
「竜殺しの英雄同士って、お知り合いなのですか?」
「いや、基本的には見知らぬ他人。徒党を組んで戦ってたわけじゃないしな。お前、そいつをもう一度目にしたら、すぐにわかるか?」
「むろんです。忘れようがありません」
見張りたちの会話はそこで終わったらしい。
食事を運んできた男は立ち去り、見張りが退屈そうにあくびをする。
「できれば俺もその英雄様の顔を拝んでおきたいが、そう都合よくもいかねえか。どうする? とりあえず捕虜の居場所がわかったところで、一度引き上げるか?」
しばらく考え、ファリンは口を開いた。
「可能なら、捕虜の中に兄たちがいるかどうか確かめたいです」
「方策はあるのか?」
「はい。あそこにあるの、おそらく地下牢の窓ですよね?」
地面すれすれのところに、鉄格子のはまった方形の穴が見える。
換気と採光のための窓だな。
牢の中から見れば、手の届かない天井近くに位置しているのだろう。
「あの近くまで行くことができれば、においで確認できると思います。上手くいけば会話して、中の様子を聞き出せるかもしれません」
ファリンは目を伏せ、さらに続けた。
「私情なのは百も承知、本来許されない公私混同だとも思います。力添えをお願いできる筋のことではないので、イェリング様とはここで――にゃッ!?」
妙に可愛らしい悲鳴を上げ、ファリンは驚いた猫のような顔で俺を見た。
鼻先を軽く指で弾いてやったのである。
「リーンだ。いい加減覚えろ。あと、つまらん議論で時間を無駄にする気はねえからな」
そして思案を巡らせる。
「ありきたりだが、騒ぎをおこしてそちらに注意を引き、警備の隙を作るってのがいいだろうな。そっちは俺がやろう」
「あ、ありがとうございま――」
「ただし、だ」
俺は声を強めて付け加えた。
「警備が緩まなかったら諦めろ。せめて少しでも会話を、とか絶対考えんな。安全が最優先だ。ここで捕まったら、捕虜助けるどころじゃねえからな」
「……肝に銘じます」
ファリンは神妙にうなずいた。
その後、軽く打ち合わせを済ませて、俺たちは二手に分かれた。
段取りは単純だ。まず、俺が詰所の近くに火をつけて騒ぎを起こす。
ファリンは牢の見える位置で待機し、見張りが持ち場を離れるようなら牢へ接近を試みる。
「騒ぎといえば、火事が定番だが……ああ、この辺が手ごろかな」
俺は詰所の裏手に壊れた厩舎を発見した。
居住区からは離れているし、周囲に人家はないから延焼の心配もない。
人が集まってきても、牢屋側は死角になっていて見えないだろう。
よく燃えそうな枝や枯葉を集めて火をつけ、煙が立ち炎が生まれるのを確認してからその場を離れた。
そして何年かぶりの木登りを敢行し、詰所の周囲を一望できる大樹の上に陣取る。
ほどなく火災は発覚し、詰所に燃え移るのを防ぐため可能な限りの人員を集めて消火活動が行われるはずだ。
ただし牢の見張りがどう動くかは未知数。どうせ錠前がかかっているのだから、と、持ち場を離れて消火に加勢してくれれば理想なのだが。
やがて、にわかに詰所が慌ただしくなってきた。
焦った様子で人が出てきて、もうもうと煙の上っている建物の裏手へと走っていく。
(さて、牢のほうは、と)
ファリンは詰所の敷地のすぐ外側に伏せて機会をうかがっているようだ。
一人で牢の見張りを務めていた男は騒ぎを聞きつけて迷っている様子だったが、やがて小走りに火事の方へと向かった。
それを確認してファリンが動き出し、牢の窓へと近づく。
うまくいきそうだな――と思ったそのときだった。
(あれは……)
ローブをまとった人影が詰所から姿を現したのだ。あわただしく周囲の男たちが話しかけるのを片手で制し、ゆったりと燃え盛る厩舎に歩を進める。
次の瞬間、俺は思わず自分の目を疑った。
火が、消滅した。
鎮火したとか消し止められたとか、そういうことではない。
くいとローブ姿が指を動かしただけで、炎が消え失せたのである。
まるで主の命令で、自死を選んだかのように。
続いてローブ姿はぐるりと周囲を見回した。
そして視線が東側の一点――ちょうどファリンの居るあたりで止まる。
俺は舌打ちをして木から飛び降り、地面を蹴って走り出した。
ファリンの姿が俺の視界に入ると同時、弧を描いて飛来した火炎の礫が彼女を襲った。
脚に勁を集中。俺はファリンに飛びついて、そのまま転がる。
火炎弾は地面をえぐり、熱風と砂利を俺たちの顔に浴びせかけた。
「退くぞ! 走れ!」
ファリンが全力で駆け出したのを確認し、抜刀。逃走者の背に向けて撃ち出された火炎弾の第二波を、俺は勁を込めた刃で全て打ち落とした。
建物の陰からゆっくりお出ましになったローブ姿と視線が合う。
フードを深く被り、さらに布を巻いて顔を隠している。
唯一のぞいているのはその双眸。右が茶色、左が金色の色違い。
睨み合いは長く続かなかった。他の連中もこちらに気付いたのだ。
俺は視線をそらし、そのまま逃走に移る。
ファリンと共に街中を走り抜け、馬を繋いだ森に駆け込みすぐに騎乗、しばらく駆けて追手が来ないのを確信し、ようやく手綱を緩めた。
「……冷や汗かいたな」
俺は息を吐いた。どうにか振り切ったか。
「申し訳ありません」
ファリンは力なく言った。
表情は動かさないものの、かなり落ち込んでいるようだ。
「お前のミスじゃねえよ。相手が悪かった」
ファリンは焦らずしっかり見張りの動きを確認していたし、少なくとも火事で騒いでいる自警団員たちから見える位置にもいなかったはず。しかし、あのローブ姿は何をどうやったのか、ファリンの存在を間違いなく感知していた。
「魔術師、でしょうか」
「多分な」
そういえば竜殺しの英雄の中に、確か火炎術を得意とする魔術師がいると聞いたことがある。二つ名は確か〝炎獄の王〟。あれがそうなのだろうか?
(いずれにせよ、師匠じゃなかったのは確かだな)
全身を隠していたが、身長や体の厚みがミナヅキとは全然違う。
もちろんあの特徴的な目も。
もっとも、ある程度予想はしていた。
獣人隊との戦闘の跡を調べたとき、木の切断面が焦げていたのだ。
高温の、おそらくは魔術による刃で焼き切った痕跡である。
勁を使ったのならああはならない。
噂に聞いた『竜を殺す女』があいつのことなら、ここまでやってきたのは丸々無駄足だったということになるが……まあ、落胆するのはまた後日でいいだろう。
「申し遅れましたが、庇っていただいてありがとうございました。でも、あなたは大丈夫ですか? 勁とかいう力は、使いすぎると命にかかわるとマイヤから聞いていますが」
「ギリギリ大丈夫、かな」
死にかけてからは、自分の限界をできるだけ正確に把握しようと努めている。
脚力を強化した際と火炎弾をはじく際に勁を使用したが、いずれもごく短時間だ。おそらく、発作には至らない。
とはいえ、もしローブ姿が殺すつもりで攻撃を仕掛けていたら、こちらも命懸けの全力で応じなければならなかっただろうが。
「で、そっちはどうだった? 兄貴たちが捕まってるのは確認できたのか?」
「はい。……といっても、会話する余裕などありませんでしたから、においだけですけど。二人とも、牢に居るのは間違いない、です」
急にファリンの声が弱々しくなり、俺は眉をひそめた。
よく見ると、額に脂汗が浮いている。
「あとは、どうにか解放する算段を立てて――」
「馬を止めて下りろ。怪我してるだろ、お前。先日の傷が開いたのか? それとも、さっきあの魔術師にやられたか?」
強がるべきかどうかわずかの時間逡巡し、結局ファリンは観念したように息を吐いた。
「……さっきです。一発横腹をかすめました。大したことないと思ったのですが」
「痛みはあとから来るんだよ。鎧と服脱げ。見せろ」
鎧の隙間から火炎弾に脇腹をえぐられたようだ。出血は多くないが、火傷になっている。命にかかわるほどではないものの、しばらくは痛むだろう。
俺は近くの小川から水をくみ傷口を洗う。
油を塗り込んで手当てをしていると、ファリンがぽつりと言った。
「私は……無力ですね。役立たずもいいところです」
「焦るこたねえだろ。まだ若いんだから」
「その若い私にも、期待してくれてる人が居るんです。マイヤや、獣人隊の兵士たち……。期待は前に進む勇気をくれます。でも、それだけじゃ足りない。肝心の力が全然追いつかない。がんばってもがんばっても、理想には全然届きません。この怪我だって……攻撃はちゃんと見えてたし避けられたはずなんです。でも、体がすくんでしまって思うように動かなかった」
その声が震えているのは自分への怒りのためか、魔術師への恐怖のせいか。
少し考え、俺は軽い口調を作って言った。
「まあそう気を落とすな。脱がしてみると、案外いい体してるしな、お前」
ファリンはきっと俺を睨んだ。
「それは、女としてという意味ですか? 私の価値は、そこにしかないと?」
「違う。筋肉の付き方の話。重そうな槍斧振り回すための腕や肩、軸のぶれない体幹、地面を踏みしめて土台となる脚――はっきり目的を持って鍛え上げた体をしてる」
ファリンの表情が戸惑ったものに変化する。
「兄貴たちとは前に少しやりあったけど、お前、あいつらより数段強いだろ?」
「……全力を出して戦ったことはありませんが、おそらくは」
「何か目標なり理由があって、そこまで強くなったんだよな? だったら焦るな。自分の努力を信じ続けろ。可能性を疑った瞬間に成長は止まり、積み重ねも無になんぞ」
結果を最優先に求めることは、時として遠回りになる。
段階を踏め、と俺もよく師匠に言われた。
濡らした布で傷口を覆い、その上から包帯で押さえる。
しばらく沈黙していたファリンは、やがて幾分落ち着いた声で話し始めた。
「……私たちと同じく獣人兵だった母親に、言われたことがあるんです。『あなたはしっかりしているから、お兄ちゃんたちを頼むね』って。両親が人竜戦争に駆り出され、戦場へと向かう直前のことでした。そして、そのまま二人は戻ってきませんでした」
「その遺言を守りたくて、鍛えて強くなったのか?」
「違うとは言いませんが、そこまではっきりと言い表せる動機でもありませんよ」
珍しく苦笑らしき表情を浮かべ、少女は続ける。
「色々鬱屈した感情を、強くなることで紛らそうとしたんです。両親に対して何もしてあげられなかった後悔とか、両親と共に戦えなかったという無力感とか、あと英雄たち、特に〝千竜殺〟に対する怒りとか……」
竜殺しの英雄〝千竜殺〟リーンハルト・イェリング。すなわち、俺のことだ。
「私はあなたが嫌いでした。いえ、おそらくは、今も」
「いやまあ……そんな気はしてたけど」
初対面のとき『作られた英雄』とか言われたしな。
「獣人隊の犠牲を踏み台にして、賞賛と栄光を独占したからか?」
「それもあります。でも一番大きいのは、もっと理不尽で正当性の欠片もなくて、他の方が聞いたらまったく理解できないバカバカしい理由ですよ。――両親が戦死したのは、あなたがブラウヒッチの領地を救いに来る前日でした」
ああ、なるほど。その瞬間に俺は理解した。
「戦場にやってきたあなたの姿を見たとき、私は思いました。どうして――」
「どうして、あとほんの少しだけ早く到着して父さんと母さんを救ってくれなかったのだろう、か?」
俺が言うと、ファリンは驚いたように眉を上げた。
「言いがかりや八つ当たりであることがわかっていても、消せない気持ちだったんだろう? まったく筋が通っていなかったとしても、この感情が薄れると大切な人の価値までも薄れてしまう気がして、怖く思っただろう?」
「わ、わかったようなことを――」
「わかるんだよ」
俺は肩をすくめた。
「俺もまったく同じだったからな。言ってなかったっけか、俺はカツィカの出身なんだ」
「…………!」
ファリンは目を見張り、言葉を失った。
「俺の家は、お前が死者を悼んで祈ってくれたあの瓦礫の山。父と母と弟と妹が夕食を食いながら竜に焼き殺された。で、軍が到着したのは、全てが終わってからだった」
俺は指揮官の胸ぐらを掴み、食ってかかった。
なぜ竜が襲ってくる前に来なかったんだ。民を護るのがお前らの仕事じゃないのか。
俺と変わらない年ごろの若い指揮官は、一言も反論しなかった。
そして理不尽な俺の怒りを聞き終えると、彼は真摯な声で短く言った。
力及ばず申し訳なかった、と。
それがレオポルトとかいう皇国の第三皇子だと知るのは、少しあとの話だ。
「嫌われていた理由が腑に落ちて、すっきりしたよ。そういう人間がマイヤを引き取ったりしたわけだから、そりゃ複雑な気持ちにもなるだろうな。――よし、手当て終わり。服を着ていいぞ。出発しよう」
西の空が茜色から漆黒に変わろうとしている。
商隊の野営地はもうすぐそこだ。急げば暗くなる前に戻れるだろう。
しばらく無言で馬を進めていたが、やがてファリンはぽつりと言った。
「なぜ、なのですか?」
「あん?」
「なぜ、お怒りにならないのですか? 私の態度が身勝手で不快だと、自分だけが悲劇の主人公だと思っていると、非難できたはずです」
俺は小さくため息をつく。あらゆる物事を真剣に捉えすぎだな、こいつは。
「第一に俺自身も通った道だから、非難する資格はない。第二に、そこまで客観視できてるんなら、俺が偉そうに説教する必要なんてない」
そもそもマイヤがやって来て殻をぶちこわしてくれるまで、世を拗ねて引きこもっていた俺に比べりゃ十分大人だよ、お前は。
「これから首尾良く兄貴たちを助けて、それでもまだ自分の弱さが嫌だってんなら、またうちに来いよ。マイヤとまとめて稽古くらいは付けてやるさ」
「でも、私にはあなたに助力していただく理由がありません。それに、ご厚情に返せるものもありません」
「ほんと、面倒くさい奴だな……。あのな、お前に助けられる理由はなくても、俺の方にお前を助ける大事な理由があるんだよ」
「え……?」
「一度しか言わないから良く聞け。俺は――」
と、そこで俺は口をつぐむ。ファリンも一瞬遅れてそれに気付いた。
――行く手に複数の気配がある。