78話 故郷への帰還(3)
声と同時に、屋根の端からにゅっと顔がのぞいた。
若い女だ。おそらく、二〇歳に届くかどうかという年頃。
まずったな、と思いつつ、俺は感情を押し隠して問い掛けた。
「何してんだ、そんな所で」
「昼寝。陽当たりいいから、ここ」
そして女は少しのあいだ考え込み、再度口を開く。
「朝なのに昼寝、おかしい?」
「知らねえよ」
「どっちにしても、そろそろお仕事。残念」
会話になってるんだかなってないんだか良くわからないことを言うと、彼女は顔を引っ込め、立てかけたはしごからゆっくりと地上に降りてきた。
細い体に、ところどころ糸のほつれた粗末な服。
視線を遮るように伸ばした前髪の隙間から、右目だけが覗いている。
顔立ちそのものはきれいなのだと思うが、着飾ろうとする意思は希薄なようで全体的にみすぼらしい印象だ。
「で、あなた、だれ?」
彼女はぼそぼそとした口調で尋ねた。
「旅人だよ。といっても元々ここの住人だけどな。数年ぶりに帰ってきたら、なんか武装した奴らが正門に陣取ってたもんで、街に何かあったのかなと思って覗きに来た」
「そう」
納得したのか、それとも最初からさほど興味などなかったのか、彼女はぼんやりした顔のままうなずき、立ち去ろうとした。
「あ、ちょっと待ってくれ」
呼び止めると、ゆっくりと振り返る。
「お前、カツィカの人間なのか? この街、今、どうなってるんだ?」
「わたしは少し前に外から連れてこられただけ。お仕事があるって言われて。街がどうなってるって……うーん、物騒?」
「というと?」
「戦でも始めそうな感じ。街の周りに柵を立てたり、堀を掘ったり、武器をいっぱい運び込んだり。外からも大勢の人が来て、働いてる。わたしも、これからお仕事の時間」
そのとき俺は彼女の服からのぞく首筋や手首に、鱗が浮き出ていることに気付いた。
人間族ではない、ようだ。
労役のために連れてこられた獣人奴隷か何かなのだろうか。
俺の視線に気付き、彼女は小さく首を傾げた。
「気になるの? もっと見る?」
「あー、いや、いい。失礼な視線を向けて悪かった」
慌てて言ったのは、彼女が自分の服をまくり上げようとしたからだ。
そう、と呟いて彼女は手を下ろす。
怒っているのか気にしていないのか、何か考えがあってのことなのか何も考えていないのか、その表情からは読み取れなかった。
「じゃあ、わたし、行く。――長居は、すすめないよ」
そんな言葉を残すと、彼女は気怠そうな足取りでゆっくりと遠ざかっていった。
「……よくわからん奴だったな」
まあ多少なりとも情報は得られたし、収穫がないではなかったが。
次は自分の目で確かめる番だ。
ファリンを呼びに行き、今度は見咎められないよう慎重に周囲を確認して、俺たちは街中へと入り込んでいった。
「どちらから見て回りますか?」
「まあ、とりあえずは一回りだな。こっちから行こう」
ファリンに言って、俺はゆっくりと道を歩き始めた。
かつては民家が建ち並んでいた地区だ。付近に人影は見当たらない。
焼け焦げた家の柱。崩れた石壁。瓦礫の山。
さすがに死体は処理しただろうが、その他はまだ当時のままだろう。
印象としては、予想していたより良くもないし悪くもないというものだった。
やがて俺は一軒の家の前で足を止めた。
壁の九割が倒壊し、屋根の消失しているものを家と呼んでよければ、だが。
あのときは竜のブレスによって一帯が災に包まれており、とても立ち入れるような状態ではなかった。
だから、こうなった『ここ』――愛しの我が家を直接目で見るのは始めてだ。
「……ひっでえもんだな」
ため息が漏れる。
今さら竜に対する憎悪や復讐の狂熱が蘇ってきたりはしない。
ただ、ああ、これじゃ中の人間はどうやったって助からなかっただろうな、という奇妙な納得があった。
「本当に大変な災禍だったのですね」
ファリンが静かな、しかし真摯な声で言った。
「どうか亡くなられた方に、永遠の安息がありますように」
「…………」
「? イェリングさ――いえ、リーン、どうかしましたか?」
「ああ、いや、何でもない」
俺はファリンの顔から視線を逸らした。
悼んでくれる奴がいるってのは、存外救いになるもんだな、と思っただけだ。
少しだけ口元をゆるめ、そして再び歩き出す。
いつまでもここで足を止めているべき理由は、今の俺にはない。
「そういやファリン、お前、カツィカについてはどのくらい知ってる?」
「人竜戦争のごく初期に竜の標的になった街、ですよね。それ以前は、ごく平凡な田舎街だったかと」
「そう。周辺の村と協調して農業は盛んだったが、突出した生産量を誇っていたわけじゃない。イスカーチェとの国境に近いが、地理上の要所でもない」
だからこそ、復興も後回しになったわけだ。
「そんな場所が国の干渉を排除して自治都市のように振る舞うことに、いったいどういう意味と目的があるのか――」
と、そこで俺は言葉を切った。
前方から武装した五人ほどの集団が近づいてきたのである。
「お前たち、何者だ? 何をしている? ここは立ち入り禁止だ」
「おや、それは知らなかった。すまねえな。旅をしてきて先日この街に着いたばかりなんだ。あ、こっちは俺の奥さん」
ファリンが無言で小さく頭を下げた。
俺は打ち合わせていた通り、架空の事情を語った。
かつてこの街に住んでいたこと。人竜戦争で他の街に移住していたが、結婚を期に一度故郷に戻ってみようと考えたこと。
「ひょっとしたら知り合いに会えるかもと思って、昔住んでたあたりをぶらついてみたんだが……」
「さっき言った通り、この辺りは立ち入り禁止区域で無人となっている」
隊長らしき男が煩わしそうに言った。
とりあえず、疑われた様子はない。
「壊れかけた建物が多く危険だし、家無しがやってきて勝手に住み着いても困るから、こうして巡回しているのだ」
居住区は街の西側。訪ねるくらいならいいが、新たな住人を受け入れる余裕はないので、早急に街から立ち去れとのこと。
「なるほど、どうも。――あんたたちは、領主様のところの兵士さん? ずいぶんものものしい格好をしてるけど」
隊の五人全員がそろいの鎧を身に着けている。
隊長の腰にある剣は、形や意匠から判断してイスカーチェ産のものか。
「この辺りの領主は人竜戦争で戦死し、今は空位となっている。我々は有志によって組織されたカツィカの自警団。今、街の秩序を護っているのは我々だ」
「はああ、そりゃご苦労様で。ああ、もし何か事件に巻き込まれて、あんたたちに助けて欲しいときは、どこに行けば?」
「役所の建物を詰め所として利用している」
ありがとうと礼を言って俺たちは男と別れた。
十分に遠ざかったのを確認し、ファリンが口を開く。
「イェリング様は、あの自警団、どう見ますか?」
「リーンだ。普段から呼び癖を付けておけ。――お前が言っていたように、装備が妙に豪華だな」
自主的に作られた街の自警団なら、武具は自前で用意しなければならない。
普通は統一感のない、いかにも寄せ集めの一団という雰囲気になる。
しかし今の奴らは、明らかに違っていた。
そのまま居住区へと向かう。
比較的無傷で残っている建物が多いようだが、この辺りも俺の知っている景色とは、かなり変わっていた。
雑な建て増しや、秩序無くそこかしこに張られた天幕が目につく。
人を無理矢理詰め込んでいるような印象を覚えた。
ここでも旅人を装って、情報を集める。
元々のカツィカ住民はほとんど見られず、余所から連れてこられた難民が多いようだった。
あの妙な女に聞いたとおりである。
「瓦礫の片付けとか、あと、何か土木作業とか、仕事をくれるって言うんでな。他に行き場所もないし、まあいいかってところだ。それに――皇都の方では難民が多すぎるもんで、軍が殺して間引きしてるっていうじゃねえか。わざわざそんな方へ行きたくはねえよ」
そんなことを話してくれた男がいた。
「……事実でしょうか?」
ファリンが小声で言う。
「俺は聞いたことねえな、そんな話」
少なくともレオならやらないだろう。
あいつなら殺すよりも生かして効率よく利用する方を選ぶ。
(となると、中央との分断を意図して流言を広めている存在がいる、のか?)
「……あー、くそ、想像がどんどん嫌な方に向かってくな」
俺はため息をついた。
こういう陰謀だの権謀だのはレオの担当分野だ。俺には向いてない。
一通り話を聞いて、次は自警団を調べることにする。
役所は街の中心部にある。衛兵の詰め所も併設されていたはずだから、そこをそのまま利用しているのだろう。
通りかかる振りをして、俺たちは自警団員たちの出入りを観察した。
「全員ではないにしろ、大半は本職の兵士だな、ありゃ。動きや体格が本格的に鍛えてる奴のものだ」
「……やはりそうでしたか」
総数は不明。少なくないのは確かである。
あるいは獣人隊と一戦交え、さらに戦闘が予想されることで増援があったのか。
ゲルトが監禁されているとしたら、どの辺だろう。
自警団の詰所か、あるいは――
「警備の配置から推測して、領主別邸かね」
今は亡きこの地方の領主が、街に滞在するときのために建てさせた屋敷である。
遠目に見たところ、さほど大きな損傷もなくそのまま残っているようだ。
敵側にしてもゲルトを殺すよりは、生かしてその経済力を利用したいところだろうし、こういうところで丁重に扱われていても不自然ではない。
もう少し近づきたいところだが、これ以上は危険か。
探るなら、潜入方法を慎重に検討してからだ。
「じゃ、次はファリンの用事だ。衛兵詰所の敷地内には半地下の牢屋があったはず。お前の兄貴たちが捕まってるとしたら、そこだな。ちょっと見に行くか」
「…………」
と、ファリンが困惑したようにこちらを見ているのに気付く。
「何だよ」
「あの……リーンの目的はゲルト様では? 獣人隊のことについては、私一人で調べるべきかと思っていたので」
「助力は不要だったか?」
「いえ、私一人だと馬を借りられたかどうかわかりませんし、怪しまれず街に潜入することもできなかったでしょう。感謝しています。ただ、これ以上の借りはさすがに大きすぎて、お返しできそうにありません」
真面目というか、融通が利かない奴だな、こいつも。
ああ、いや、もしかして単に俺が嫌われてるだけなのか?
お前に借りなんか作るか! って感じで。
心当たりはなくもないし、以前からちょくちょく対応がキツかったしな。
ま、嫌われてるんだったら、こっちも気を遣うことはないだろう。
俺はファリンの意見を無視することに決めた。
「兄貴たちを助けたいんだろ?」
「それは……はい」
「じゃ、従え。反論は認めない」
そのまま詰所外周の道を歩き出す。
ファリンは何か言いたそうに口を開きかけたが、結局黙ってついてきた。
俺の父親は領主に仕える下級騎士で、街の警備を担当していた。
幼い頃は勤務中に詰所へ遊びに行ったこともある。
そんなことをしても誰も咎めないほど、のどかな街だったのだ。
「地下牢は確か、東側に出入口が――といっても、さすがに見張りがいるか」
鉄柵越しに中をうかがうと、下り階段の前に一人の男が立っていた。
敷地内に入ると確実に咎められるだろうし、さて、どうしたものかな。
と、そのとき、ファリンが耳をぴくりと動かした。
「誰か出てきました」
少し置いて、ゆっくりと地下牢から上がってくる人影。
大鍋を抱えているところを見ると、食事係だろうか。
そのまま彼はのんきな表情で見張りと会話を交わし始める。
「何を話してるのか、拾えるか?」
やってみます、とファリンは聞こえてくる声に耳を傾け、俺に伝えた。
――どうだった? 獣人どもの様子は。
――おとなしいもんだよ。エサにはがっついてたけどな。
――さすが、獣だな。本能に忠実だ。
二人の男は、顔を見合わせて笑う。
どうやら、当たりらしい。
会話はまだ続く。
――しかし、獣人兵をよくもあんな大量に捕獲できたもんだな。
――まともにやり合ったらそりゃ、殺されるさ。でも、圧倒的な力の差に戦意喪失してたからなあ。
――あの方のおかげで?
――そうそう。まさに……
そこでファリンは、一瞬硬直し、言葉を失った。
「どうした?」
「いえ……」
軽く頭を振り、気を取り直したように続ける。
「こう聞こえました。――『まさに、竜殺しの英雄様々だなあ』と」