76話 故郷への帰還(1)
「ふーむ。ま、そろそろ卒業ってことでよかろう」
ミナヅキがそんなことを口にしたのは、俺が一八の年の春だった。
「……いきなりなうえに、ずいぶん軽くね?」
俺は木剣を振る手を止めて、眉をひそめる。
「大げさな感慨を持つほどのことでもないさ。私がつきっきりで教える必要がなくなったというだけで、強さを求めるならこの先の行住坐臥すべてが修行だ。臆さず、倦まず、されど焦らず、逸らず、心を中庸に保って励め。お前の人生はまだまだ長いのだからな」
それに、とミナヅキは続ける。
「私も少々ここに長居してしまったからな。そろそろ新しい土地を見てみたい」
「旅に出るのか?」
「そうだ。寂しいか?」
「別に」
反射的にそう答えたものの、本当の所は自分でも自信がなかった。
「無理をする必要は無いぞ? 私の方はなかなか寂しく思っているのだから。とはいえ、旅は私の生き方そのものだから、止めるわけにもいかないがな。――ほれ」
俺は無造作に放られた物体を、慌てて受け止める。
ミナヅキが普段から身につけていた刀だった。
「独り立ちする弟子への餞別だ。東方で鍛えられた特注品。勁との相性抜群だから、使い方は色々工夫してみるといい」
ミナヅキは出会ったころと同じ若々しい顔に、笑みを浮かべる。
そういえば年齢は最後まで教えてもらえなかったな、と俺は思った。
師匠がいなくなった後、俺は国境付近まで出かけて単身で竜を狩りつつ、腕を磨いた。
やがてエルラ皇国主導の大規模な開拓事業が始まり、街の若者の多くが森林の伐採や荒れ地の開墾に駆り出されるようになった。
両親は剣を携え毎日ふらふらとどこかへ出かける長男に対し、お前もそこに参加しろと繰り返し言った。
将来は田畑を手に入れて安定した生活を送ってほしいと考えていたようだ。
だが、俺はさらに強くなることしか頭になかった。
なるほど、大地を耕し作物を育てるのは確かに立派なことだろう。
だが、土地や人々を護ることだって大切なはずだ。
俺にとって家族は大事な存在だった。幼い日、自分の浅はかな考えから弟妹を危険に晒したことを心から後悔していた。
だからこそ、護り手になりたかったのだ。
そんなある日、いつものように山へ出かけ竜を退治した帰路のこと。
陽はすでに沈んでいた。なのに、前方の空が異常なほど明るかった。
俺は見晴らしの良い場所に駆け上がり、眼下の景色を眺めた。
――故郷の街が、燃えていた。
◆◇◆◇◆
「……ひっでえ光景だったな、あれは」
雨上がりの夜空を見上げ、俺は呟く。
開拓と並行し、皇国軍は定期的に山で竜狩りを行っていた。
同時期、イスカーチェ側でも竜退治に力を入れていたと聞く。
あるいは……俺の『修行』も何らかの影響は与えていたのかもしれない。
いずれにせよ、カツィカは猛り狂う竜の群れに襲われ焼き払われ、そこからエルラ皇国と竜との戦争が本格化することになった。
あの日、街を見下ろした丘もその後必死に駆け下りた峠道も、この野営地のすぐ近くである。
丘陵と森林に遮られてカツィカの街は見えないが、距離も方角もはっきりとわかる。かつては庭のように駆け回っていた地域なのだから。
俺は小さくため息をついて、中央のひときわ大きい天幕の中に入った。
「――エッダに呼ばれてきた。用件は?」
「まずは、お掛けください」
中にはイレーネが一人で待っていた。
夫の行方不明を知り憔悴した顔ではあるが、自失はしていない。
そういえば差し向かいで話すのは初めてだな。
「お話の前に、一言お断りを。この場ではあなた様を夫の客人ではなく、高名な竜殺しの英雄、リーンハルト・イェリング様として、ご相談させていただきたく存じます」
まあ、そんなことだろうと思った。
「腹の探り合いに時間を使わずに済むから、単刀直入なのはむしろありがてえよ。面倒な建前は取っ払ってくれ」
「そう、ならそうさせてもらうわね」
あっさりと口調を切り替えるイレーネ。
「……決断が早いな。俺から勧めといて何だが」」
「臨機応変が身上なの。それにこっちの方が性に合ってるから」
マイヤから聞いたとおりの性格である。
「本題に入るわ。ディトマールの決めた方針について、あなたはどう思う?」
村の調査から野営地に戻ったのちカツィカへ使者を送ったのだが、門前払いされたそうだ。かつてこの街を滅ぶに任せた無能な皇国軍には、一切立ち入ってほしくないとのこと。
隊長のディトマールは事態を重大視し、皇都へ援軍の要請を送ることにした。
到着まではおそらく数日。
ゲルトの行方については可能な限り情報を集めるが、カツィカへの手出しはせず、援軍が来るまではここで待つというのが当座の方針である。
「個人的には手ぬるく感じる。カツィカが怪しいなら、全力で攻め込んでゲルトを探して欲しい。でも多分、今あたしは感情的になっていて、冷静な判断はできていないとも思う。だから、誰かの意見を聞きたかったの」
「消極的ではあるが、妥当っちゃ妥当な判断だと思うぞ。相手に獣人隊を殲滅できるだけの戦力があるなら、今の護衛隊では勝負にならない。強硬策は無理がある。なので、まずは戦力が整うのを待つしかない」
イレーネは肩を落としたが、反論はないようだった。
「……なんのために、ゲルトは浚われたのかしらね」
「単純な可能性としては、身代金。その場合は相手から連絡があるだろう」
「複雑な可能性としては?」
「他国、おそらくイスカーチェの工作」
屋敷にまで間者が入り込んでいたことを考えると、その可能性が高い。
ゲルトは皇国復興のカギを握る要人。
他国にとっても利用しがいのある存在だ。
最悪、消してしまうだけでも、皇国の立ち直りを遅らせることができるだろう。
「つまり、ゲルトはすでにイスカーチェ国へ連れ去られた?」
「とは限らない。万一この段階で国としての関与が公になると、おおごとになるからな」
イスカーチェとしてもそこまで性急ではないだろう。
「そっか、だから緩衝材の意味でも皇国側に傀儡が必要なのね。イスカーチェがカツィカの街に資金を投入し、事実上の拠点としていると考えるなら……この先、色々と利用できるわけか」
イレーネはぶつぶつと呟いた。
「やりようはいくらでもあるわね。ゲルトを脅してイスカーチェに有利な取引をさせる。イスカーチェ軍がゲルトを救出したことにして恩を売る。こちらが援軍を得てカツィカに攻め込むなら、民を虐げる皇国軍を正義のイスカーチェが止めるという図式にして火種を作る……」
飲み込みが早いな。
ゲルトが望んだように、奥に引っ込めて大切に飾っておくのは少々もったい人材なのかもしれない。
しばらく思案した後、イレーネは顔を上げてこちらを見た。
「竜殺しの英雄に依頼があるんだけど、受けてもらえる?」
「内容によるな」
「現状で戦力が足りないなら、あなたにそれを埋めてほしい。援軍到着前に少人数の速攻で自警団を無力化できれば、イスカーチェ軍に介入の隙を与えずに済むと思うの」
つまり俺が獣人隊を壊滅させた『怪物』を引き受け、その間に護衛隊が自警団を攻めるわけか。
戦術としては、そう間違っちゃいない。しかし――
「無理だ」
「……相手があなたより強いから?」
「まだそれを判断できるほどの材料はねえよ」
もし敵が師匠なら俺より強いかもしれない。
師匠でなくとも、俺に匹敵するような達人は世の中に存在するだろう。
もっとも、問題はそれ以前のところにある。
「俺の体はぶっ壊れかけてる。どこで完全にぶっ壊れるかわからないから、計算できる戦力にはなれねえ。俺をあてにして作戦を立てるってことは、俺がしくじったら全滅するってことになる」
それは極めて危険な賭けだ。
「そもそも他人に命を懸けさせる対価は何だ? お前にそれが支払えるのか?」
「……払えない、かもしれない」
イレーネは、ぐっと唇を噛んだ。
「お互いに納得できなければ、取引は成立しないから。お金やお金で買えるものなら大抵は用意できるけど、それでもあなたが満足しないなら不成立。だからあたしは、あたしの持っているものなら何でも差し出すつもり。それしか言えない」
「何でも差し出す、ねえ」
言う奴は多いが、出来る奴は少ない。
ただ、この女は出来る側の人間なのだろう。
金どころか、体も命も張る覚悟を決めた目をしている。
「……そこまでして、ゲルトを助けたいか?」
「愚問だわ。今さら訊く?」
「まあ、確かに」
俺は思わず苦笑した。
「気を悪くしないでほしいんだが、少し興味を覚えたんだ」
俺にはもう護るべき家族はいないから。
「ゲルトに聞いたが、行き倒れてたあいつを拾ったのはお前なんだろう? そのぶん、思い入れがあるってことか?」
「出会い方は大した問題じゃないわ。出会ったって事実が重要なだけで」
そして記憶をさらうように少し視線を動かし、イレーネは続けた。
「こういう家業なもんだから、親が忙しくてなかなか構ってくれなくてね。育児放棄ってほどじゃないけど、小さいころから放置され気味の環境だったのよ、あたし。そんななか、ゲルトはことあるごとに声を掛けてくれた」
「だから気に入った?」
「もちろん、それはあるけど……ちょっと大きくなったとき、思ったのよね」
拾われる前のゲルトは農奴のような生活を送っており、当然、読み書きも算術も身につけてはいなかった。
ところがこれらは商いに必須の技能である。
日々の仕事に加え、彼はほとんど毎日夜を徹するくらいの勢いで学び努力を重ね、それらを身につけなければならなかった。
「でも、だとしたら……ぐずり続けるあたしをあやしたり、延々とおままごとに付き合ったりしてた時間は、どこから来たんだろうって。他人に構ってる余裕なんてなかったはずなのに」
感情と言葉を整理するようにイレーネは間を取る。
俺は口を挟まず続きを待った。
「んで今、人竜戦争の後始末やってるよね。正直うちも楽ではないのよ。市場がぐちゃぐちゃで利益が計算できないのに、出て行くものはしっかり出て行くから。組織の整理と人員整理が必要なくらい。――でも、ゲルトは被災した人たちをできるだけ雇って、仕事を与えようとするの」
悲惨な経験をして心が折れかけた人には、家と食べ物の他に『為すべきこと』が必要なんだよ。それはきっと、再び生きる意味を見いだすことに繋がるから。
そうゲルトは言ったという。おそらく自身の経験も踏まえて。
グンターやエッダはそれで救われたわけだ。
「上手く伝わるかどうかわからないけど……つまり、あいつは『限界だ』と思われている枠を、自分の努力でちょっとだけ広げようとするのね。で、その広げた部分を他人のために使う人間なのよ。それに気付いたとき、あたしは、ああ、素敵だなって思って……この人を護りたいって――」
そこで不意に言葉が途切れる。
そしてイレーネは、あーもう!と声を上げ、真っ赤になった顔を両手で覆った。
「なに必死に語っちゃてんだ、あたし。恥ずかしさで死ねる……」
別に恥じ入るようなことでもないと思うが。
むしろ微笑ましいというか。
「まあ、少し意外ではあったがな。ゲルトを婿に定めたのは父親なんだろう? もう少し醒めた関係を想像してた」
「それはあたしの意思を軽く見すぎ。結婚相手を決めたのは父様だけど、結婚することを決めたのはあたしだから」
……なるほど。確かにその通り。
俺は一つ息を吐いて口を開いた。
「――さっきの話だが、条件付きで手を貸してもいい」




