75話 よくないこと(5)
「疲労と心労が大きかったんだろうな。ま、命の心配はなさそうだ」
天幕の中で毛布に包まれて横たわっているファリンさんを見ながら、リーン様はおっしゃいました。
「とはいえ、無傷ってわけじゃねえ。手当てはしたが痛みは残るし、発熱もあるだろう。看病は、お前が引き受けるんだよな?」
「はい、お任せください!」
マイヤは力強くお返事します。
「なら、一任するから、ゆっくり休ませてやれ。一晩二晩は目を離さない方が良いだろ。疲れたらエッダも代わると言っていたから、必要なら手を借りろ」
そう言い残して、リーン様は天幕を出て行かれました。
ディトマールさんやイレーネさんと、今後について相談をするとのこと。
どんな結論が出てもマイヤはリーン様に従うのみですけど……
「……ほんとにどうなってしまうのでしょうね、この旅は」
思わずため息が漏れました。
現在、マイヤたちは商隊の野営地に戻ってきています。
やはりというか一番重傷だったのはクアンさんで、駆けつけた治癒術士の方にその場で施術されたのち、野営地に運び込みさらに治療中。
気が緩んだのかファリンさんも倒れてしまい、こうして天幕を一つ借りて寝かせています。
「さて、ファリンさんのお食事はどうするですかね。目が覚めたらお腹がすいているでしょうし。病人ですから、柔らかいもののほうがいいのかな?」
とうもろこしとか麦のおかゆあたりなら、ご用意できるでしょうか。
と、そのとき、下から声が聞こえました。
「……肉が食べたい」
「わ、び、びっくりした……。起きていたのですね」
ファリンさんがうっすらと目を開け、こちらを見上げていました。
「少し前にね。体力も血もかなり消耗してしまったから、しっかり食べて補わないと。――クアン兄さんの容態は?」
「一命は取り留めたとうかがってるですよ。今は別の天幕で、治癒術士さんが付きっきりになって治療されてます」
ファリンさんも診てもらえると良かったのですが、治癒術を使える方は希少で、護衛隊にも一人しかいないのです。
重傷の方優先なのは仕方ないことでしょう。
そう、とファリンさんは表情を変えないまま、しかし安堵したように小さく息を吐きました。
しかし、そのまま起き上がろうとしたので、マイヤはあわてて押しとどめます。
「もう平気よ」
「ダーメーでーすー。お熱があるのですよ? そうでなくても大変な思いをされたのですから、少し休まないと」
あの村の空き家でファリンさんから聞いたこと――彼女が出会ったという『怪物』のお話を、マイヤは改めて思い出しました。
◆◇◆◇◆
「――その夜、私たちの野営地から少し離れたところに、武装した自警団の面々が姿を現しました」
とはいえ、別に奇襲をしかけるという意図もないらしく、彼らはゆっくりとファリンさんたちの方へ歩み寄ってきたそうです。
そして先頭に立っていたローブ姿の人影が口を開きました。
『降伏すれば、命までは取らない』と。
「フードを深くかぶっていたので、顔はわかりません。ただ声は女性のものだったと思います」
もちろん獣人隊の兵士さんたちは、笑い飛ばしました。
マイヤもかつて見習い兵をしていたのでその気風はよく知っていますが、戦と強さを愛する彼らにとって、戦わずに負けを認めろなどというのは、ありえないほど最悪な冗談なのです。
戦闘が始まりました。
そして――それはすぐに一方的な蹂躙へと移行しました。
そのローブ姿の女性の強さは、あまりにも異常でした。
腕を軽く振るだけで岩が割れ、地面が裂け、大木が何本もまとめて切り倒されたのです。
「これは物語のような比喩表現ではありません。本当にそういう現象が、私たちの目の前で起こっていました」
ファリンさんは感情を殺すように淡々と語ります。
話を聞きながら、マイヤはちらりとリーン様の顔に視線を走らせました。
リーン様はかつて、間合いのはるか外にいるはずの竜の首を、剣の一振りで斬り落としたことがあります。
それと似たような技なのでしょうか?
「当然ながら、そいつは木や岩だけでなく、獣人兵を真っ二つにすることも簡単にやってのけました。真っ先に襲いかかった幾人かは触れることすらできず返り討ちにされ、他の者も浮き足だったところを自警団に囲まれて、一人一人潰されていきました」
もはや一度退いて立て直すような余裕すらなく、ローブの怪物の標的にならないよう散り散りに逃げろ、と指示するのが精一杯だったそうです。
◆◇◆◇◆
「――あれとやり合うくらいなら、一人で竜を狩ってこいと言われた方がまだマシだと思ったわ」
ファリンさんはそう言うと、眉間にしわを寄せました。
傷が痛むのでしょうか。
それとも、怖ろしい記憶がよみがえったせいでしょうか。
「でも、こちらはこちらで大変なことになってたのね。この商隊を率いている商人が、さらわれたのですって?」
「そうなのです……」
もう何が何だかわからん、とディトマールさんがぼやいていました。
本来なら護衛役をファリンさんたちと交代して、お仕事は終わりのはずだったですからね。
村人が消える。ゲルトさんが誘拐される。ファリンさんたちが襲われる。
色々なことが一度に起こりすぎなのです。
「そういえば聞き損ねていたけど……イェリング様とマイヤは、どうしてこんなところにいるの?」
「あ、えっとですね」
マイヤは少し考えてから、続けます。
「リーン様が行方知れずのお知り合いを捜しておられるのです。で、こちらの地方に手がかりになりそうなうわさ話があったので、ちょうど行き先が同じだったこの商隊に同行させていただきました」
捜しているのはリーン様のお師匠様で、女性で、多分とっても強くて、リーン様と似たような技を使われるのだということ。
そして一人で竜を殺してしまうほど強い女の人のうわさを聞いたから確かめに来たのだということ。
これらは、今は伏せておきましょう。
まだファリンさんの出会った『怪物』に関係あると決まったわけではありませんし、嫌なことを思い出させたくもありませんから。
「マイヤたちがこれからどうするかは、リーン様しだいなのですけど……まだ何もうかがってません。多分、ディトマールさんたちとお話し合いをして、それから決められるのではないかと思うのです」
そう、とファリンさんは小さくうなずきました。
そこで話題が途切れ、沈黙がおります。
眠るつもりはないようで、じっと宙の一点を見つめているファリンさん。
表情はいつもと変わらないように見えますけど、心の中はどうなのでしょうか。
マイヤは迷ったのち、思い切って尋ねることにしました。
「あの……あとのお二人、ルアンさんとクオンさんは、どうされたのですか?」
ファリンさんは四人兄妹。
クアンさんの他にも二人お兄さんがいて、皆ブラウヒッチ家の獣人隊に所属しているはずなのです。
お兄さんたちとマイヤはそれほど仲が良かったわけではありませんが、顔見知りなのは確かですし、やはり安否は気にかかります。
「二人とも生きてたわね。少なくとも最後に見たときは」
「…………」
「その後はどうだかわからない。私はこうして逃げてきてしまったから」
気休めを言うこともできず、マイヤは絶句しました。
「そう、私はみっともなく逃げたの。たまたま一番近くに居たクアン兄さん以外、誰一人助けられずに」
「で、でも」
どうにか口を開きます。
「でも、そんな恐ろしい相手がいたなら、どうしようもなかったのでは? それにファリンさんのお話がなかったら、こちらの護衛隊もうっかりカツィカに踏み込んで、ひどいことになっていたかもしれません。ディトマールさんたちだって、きっとありがとうと思っているはずなのです」
「……感謝されるいわれなんてない」
相変わらず何もない空中に視線を向けたまま、ファリンさんは言いました。
「生き延びて情報を伝えるなんてのは、最低限の成果でしかないから。逆に言うと、私は兵士たちを大勢犠牲にしながら、最低限のことしかなしえなかった無能なの。隊の指揮を任されていたのに。ほんと、心の底から自分が許せなくなるわね」
「そ、そんな言い方をしなくても……」
マイヤの言葉に、ファリンさんは少しだけ口元をゆるめます。
普段は無表情だけど、たまに微笑むとすごく優しく見える。
それがマイヤの知るファリンさんでした。
でも……これは違います。
まるで泣き出すのをこらえているかのような顔ではないですか。
「もちろん、マイヤならきっと私を責めないって計算した上で、こんなことを口にしてるのよ。私は狡い人間だから。……死ねばいいのにね」
ああ、ダメです。
自分が嫌いで、でもそれを口に出さずにはいられなくて、その自分の言葉でさらに自分が嫌いになるという悪循環です。
「ファリンさん!」
マイヤは居住まいを正し、強い口調で名前を呼びました。
ファリンさんの顔がゆっくりとこちらを向きます。
「ルアンさんクオンさんの行方がわからなくなっていること、また亡くなられた他の兵士さんたちのことを、マイヤは残念に思います」
それは本心です。
「でも、それとは別に、クアンさんと、何よりファリンさんが生きていてくれたことが、とっても嬉しいのです」
「……それ、慰めてるつもりなの?」
「違うですよ」
はっきりと否定します。
「これはお願いです。マイヤがそう思っていることを、どうか覚えておいてほしいという、お願いなのです。他にどんな悲しい事実があったとしても、マイヤはファリンさんが大好きで、こうして生きて会えたことが嬉しいというのは、動かしようがないのですから」
小さいころから、マイヤはファリンさんにたくさん助けてもらいました。
頼れるお姉さんのように思っていました。
強くてかっこよくて、憧れていました。
それは前のお家を離れてリーン様のメイドとなった今でも、変わりません。
でも、マイヤは学びました。
多分、どんなに強く見える人も、弱さや狡さを抱えているのです。
心がぽきりと折れてしまうことだってあって、でもそれはきっと、特別なことでも何でもないのです。
あのリーン様だって、一度は生きる努力を投げ出してしまったのですから。
「一瞬で心をいやして慰めることができるような、そんな魔法の言葉をマイヤは知りません。いえ、その場にいなかったマイヤが何を言ったって、今のファリンさんには届かないのかも、と思います」
「…………」
「でも、明日か、明後日か、もしかしたらもっと先かもしれませんけど……ファリンさんがまた立ち上がろうと思えるようになったとき、『大好きで大切だと言われた』記憶は、絶対に背中を押してくれる。マイヤはそう信じます」
消えてしまいたいほど自分が嫌いになっている人には、誰かが『あなたは大切な存在だよ』と教えてあげなければいけません。
世界で一番弱くて無力でダメなゴミクズ。
それがマイヤの自己評価でした。
しかし、それは違うとリーン様に教えていただきました。
だからリーン様が生を諦めようとしたなら、マイヤは全力で怒ります。
落ち込んでいるファリンさんには、『大好きです』と伝えます。
こういう人たちは、自分が愛されていることをもっともっと知らなければいけないからです。
長い沈黙を挟んで、やがてファリンさんはぽつりと口を開きました。
「……生意気なこと言うようになったのね」
「え!?」
な、生意気だったですか!?
「あるいは大人なことを、と言うべきかしらね。イェリング様の教育のたまものなのでしょうけど、少し――」
妬けるわね、と言って、ファリンさんは小さく笑いました。
それはマイヤの好きなあの微笑みでした。
よかった。少し元気が出たみたいですね。
「そろそろご飯ですから、おなかいっぱい食べてゆっくり眠るといいのですよ。今、お夕食をもらってき――んにゃ!?」
と、そこでマイヤは声を上げました。
ファリンさんに手をつかまれ、毛布の中に引っ張り込まれたのです。
そのまま、ぎゅっと抱きしめられます。
「ファ、ファリンさん!?」
「覚えてるかしら。小さいころ、よくこうやって二人で寝たわよね。マイヤ、昔はすごく怖がりで、雷が鳴ってたりすると一人じゃ眠れなくて」
「……もちろん、覚えてるですよ」
マイヤをしっかり護ってくれたファリンさんの腕の心強さも、温かさも。
いえ、雷は今でも怖いのですけどね。
ファリンさんは呟くように続けます。
「心配いらないわ。私はすぐに立ち直れる。まだ何も終わっていないし、やるべき事も残っているから。でも……今は、今だけは私のために、少しの間、こうしていてくれる?」
もちろんなのですよ。ただ――
「だとしたら、逆ですね。――えい」
「あ……」
マイヤは手を伸ばして、ファリンさんの頭を胸に抱え込みます。
大切な、壊れやすいものを護るように。
「少し休みましょう。マイヤはここにいるですから」
「……ん」
小さな声で返事。
やがて、腕の下から安らかな寝息が聞こえてきました。
(たくさんの人にとって、大変な一日になったですね……)
でも、ファリンさんが言ったように、まだ何も終わっていないのです。
マイヤは誰かが傷ついたり悲しんだりする結末を、見たくありません。
ゲルト様を探し出して助ける。
ファリンさんのお兄さんたちの安否を確かめる。
そのために、マイヤにできることはあるでしょうか?
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