70話 故郷への旅路(5)
雨や雪や強風に悩まされることなく、盗賊や獣の類いに襲われることもなく、ほとんど事件らしい事件も起こらないまま、旅はこれ以上ないほど順調に進んだ。
統率役のゲルトは運搬中の品々に破損や欠品が出ないよう確認したり、従業員や使用人たちの労働環境に気を配ったりと忙しくしてるようだが、客分として同行している俺には特になすべき仕事もない。
ときどきマイヤやエッダのお喋りの相手を務める以外は、馬車の中か天幕でだらだらと過ごすという、怠惰と安寧を信奉する人間にとっては、何の不満もない環境だった。
今のところ発作は出ておらず、健康状態も比較的安定している。
マイヤの方はイレーネのところへ行って帳簿の付け方や計算式を習ったり、エッダの雑用を手伝ったりと、それなりに充実した日々を送っている模様。
日に数回、俺の元に顔を出し、その日あったことを嬉しそうに報告してくる。
こちらも楽しそうで何よりだ。
そのマイヤが手紙を携えて俺の天幕にやってきたのは、ペリファニアの街を出立してから八日目の朝のことだった。
「招待状?」
手紙の表書きを読み、俺は目をまたたかせた。
「俺宛にか?」
「はい、ゲルト様がだんな様にお渡ししてほしいと。できればお返事をいただけると嬉しい、とのことなのです」
俺は文面を確認した。
目指すカツィカはもう目の前である。
ついては今夜、慰労もかねてささやかな酒宴を催したいと思う。
よければイェリング様とマイヤ様お二人で、私の天幕までお越しを。
――と、いうようなことが書かれていた。
「兵士さんや商会の皆さんにも、お酒とお料理がふるまわれるのです。マイヤとエッダさんも、夕方まで準備をお手伝いするのですよー」
「ふん、到着の前祝いってやつか」
街に入ってからだと、この人数を集めて大宴会ってのは難しいだろうしな。
「あと、ここからは護衛の兵士さんたちが交代するので、ありがとうの意味もあるのだとか」
カツィカ周辺から街中での警護は、この地方の警備隊が担当するそうだ。
今その任に就いている兵士たちは、先にペリファニアの街へと戻ることになる。
「それで、あの……」
「ああ、返事か。――んー、そうだな、顔を出すと伝えておいてくれ。もちろんお前も一緒に」
「はい!」
マイヤは元気よく返事し、顔をほころばせた。
◆◇◆◇◆
その夜、一行は少し早めに足を止め、野営の準備に入った。
各所で普段より大きなかがり火が焚かれ、旅に同行しているあらゆる身分の人間が酒を酌み交わし始める。
ゲルトの天幕の周囲には主立った立場の者たちが集い、他より一段階上質な酒と料理が振る舞われていた。
俺は少し人混みから外れたところで、ふと視線を上げる。
あの何とかいう護衛隊の隊長と副隊長の姿が見えた。
役目があるのでさすがに兵士たち全員が宴に参加しているわけではないものの、交代で飲酒する許可は出ているそうだ。
「――や、イェリング様、楽しんでおられますかな?」
多少の所在なさを覚えながらぶらついていると、酒杯を手にしたゲルトに声を掛けられた。
「酒も料理も十分に用意してありますので、気兼ねなく召し上がってください。そういえば、イェリング様はお酒は嗜まれるほうですか?」
「ああ――」
と、うなずきかけて、なぜかマイヤの心配そうな顔が脳裏に思い浮かぶ。
「……いや、このところはずっと禁酒だ。体調が少々不安なもんでね。そのかわり、飯はちゃんと食わせてもらった。美味かったよ」
「それはよかった。残念ながら、私の方は存分に飲み食いできないのが悲しいところですが。主催ですし、明日の朝から大事な商談が控えていますし」
そう言って、ゲルトは肩をすくめた。
「商談? 街道の真ん中でか?」
「いえ、私の方が少し商隊を離れ、カツィカ近郊の小さな村を訪ねます。もうここから徒歩でも行けるくらいの距離ですね」
市を開くのはカツィカだが、できればその近くに商会の拠点が欲しい。
大量の商品を保管したり人員を宿泊させたりするために、一定以上の広さを持った土地が必要なのである。
――そうゲルトは説明した。
「とはいえ、街中に広大な場所を確保するのは難しい。幸いちょうど良い位置に集落があったので、有償で協力を依頼できないか村長と交渉中なのです」
「つまりは、村一つ丸ごと買い上げようってか。金持ちは発想が豪快だな」
「いえいえ、投資をケチるとかえって失敗すると知っているだけですよ。本来は貧乏性な小心者ですから、大金を動かすたびに心臓がばくばくして困ります」
あっはっはと大げさに笑い、そしてゲルトは表情を改めた。
「さて、そこで一つイェリング様へご提案なのですが……よろしければ、明日、私と一緒にいらっしゃいませんか?」
「……理由は?」
「お求めの情報をお渡しできるかもしれません」
目を細め、俺は無言で続きを促す。
「商談のついでに、件の村で商会の情報収集担当の者と落ち合い、報告を受け取ることになっているのです。このあたりの情勢や地方領主の動向、作物、金銀の値動き、そして、イェリング様の探し人のことも」
探し人。
ミナヅキ。我が師。
勁の過剰使用によりまともに稼働しなくなった俺の体を、何とかできるかもしれない、唯一の人間。
「報告内容はまだ私も存じませんから、確実に収穫があると保証できるわけではありませんが……有益な情報があった場合、すぐに行動を起こせるでしょう?」
確かにそうだ。
さして多くもない荷物をまとめ、マイヤを伴っていけば、その場で商会の一行と別れて自由に動くことができる。
俺は少し思案し、尋ねた。
「明朝、あんたに同行せずこの商隊に留まった場合、どういう日程になる?」
「そうですな……朝のうちに護衛の交代部隊が到着するはずですし、引き継ぎを済ませた後、彼らに先導されてカツィカへと出発。遅くとも日暮れ前には到着という感じでしょうか。村での商談次第ですが、私も翌日か翌々日にはカツィカに入りますから、そこで合流ということになります」
ということは、一日二日遅れる程度で、どのみちミナヅキについての情報は入手できるわけか。
大差ないといえば大差ない。
少し遠くに目を遣ると、一番大きなかがり火の近くでエッダとイレーネに捕まっているマイヤの姿が見えた。
どうやら料理を口にするたびいちいち驚き、喜び、表情がくるくる変わるのが面白いようで、二人から色々と食わされている。
俺自身は人の輪に加わろうとは思わないが、マイヤを眺めているのはそれなりに楽しい。
あの自己否定だけで構成されていたような少女が周囲に溶け込み、笑顔を見せているという光景にはなかなかに感慨深いものがあるしな。
「ふむ、そうですな」
隣のゲルトがうなずいた。
「どうせ一日二日の差でしかないなら、この楽しい旅の時間をもう少しだけ引き延ばすという選択も十分有りでしょう」
「……まだ俺は何も言ってねえんだが」
眉をひそめてゲルトを見ると、大商人は小さく笑った。
「なに、見当を付けただけですよ。私にも大切な、いつも幸せそうに笑っていてほしい存在がありますのでね。良い顔をされますな、マイヤ様は」
「うまそうに飯を食う奴ではあるな」
あれで結構食い意地が張っているのだ。
これまでろくなものを食ってこなかった反動かもしれない。
「おいしくて楽しい食事は良いものです。不幸せの対極にある。飢えというのは、本当に辛いものですからね」
「あんたにも飢えた経験があるのか?」
俺は思わず尋ねた。
この恰幅の良い食通からは、もっとも縁遠い言葉に思えるのだが。
「ございますよ。私、流行病で親兄弟を亡くして、早くに孤児となったもので。とある農場に引き取られたんですが、食事が固いパン一つと少量の野菜スープだけでねえ」
苦笑気味に口の端を持ち上げるゲルト。
「栄養足りないのに肉体労働だし、ムチも飛んでくるしで、とうとう耐えかねて逃げたしたのです。しかし当然、金もあてもなく、疲労と空腹で行き倒れて……」
「そこを先代に拾われた?」
「ええ。より正確に言えば、イレーネお嬢様に拾っていただきました」
少し離れたところにいる自分の妻に優しげな視線を向け、言葉を続ける。
「幼い彼女が草むらで倒れていた私を発見してくれたのです。『父さま、誰か寝てるー!』とね。だから私は先代のみならず、彼女にも返しきれない恩がある」
その後、ゲルト少年は必死に働き、恩返しに努めた。
やがて才を認められて後継者に指名され、商会を継いだ現在もさらに利益を拡大しようと奮闘している。
「とはいえ金なんてのはあくまで取引の媒介物。何かに換えてこそ意味が生まれるもので、それ単体では人を幸せにできません。私はよく食道楽だなどと言われますが――」
ゲルトは酒杯を傾け、のこっていた葡萄酒を一気に飲み干した。
「結局のところ、自分が飲み食いすることより、誰かがおいしそうに、楽しそうに食事をしている光景が好きなのですよ。うちの下働きでも、客人でも、あるいは赤の他人であっても。それを見るためだったら、いくら払っても惜しくなどない」
そこからは、視線が遠くなり、半ば独り言のような口調になる。
「お嬢様にも安全な場所で穏やかで幸福な生活を送ってもらって、ずっと笑っていてほしくて、そのために頑張っていたつもりなのですが……このところ、意見の対立が多くなりましてね。なかなか、理想通りにはいかないものです……」
はああああ、と長いため息が漏れたところでゲルトは我に返ったように顔を上げ、決まり悪そうな笑みを俺に向けた。
「……失礼、客人にこぼすようなことでもありませんでしたな。どうやら少し飲み過ぎたようです」
俺は少し言葉の選択に迷ったのち、気にするな、と芸のない台詞を口にした。
◆◇◆◇◆
翌日の早朝、ゲルトは少人数の供を連れ、山間の小村へと出発して行った。
直接顔は合わせていないので、二日酔いに悩まされていたかどうかは不明。
俺がいる本隊の方は、交代の護衛部隊が到着するのを待っているところだ。
護衛任務の引き継ぎにゲルトの代理としてイレーネが立ち会い、それが済み次第カツィカに向かう手はずとなっている。
もっともその到着が少し遅れているようで、天幕を畳んで荷をまとめたあと、俺たちは手持ち無沙汰な時間を過ごすことになった。
「……もう目的の街はすぐそこなのですね」
妙にしみじみとした口調でマイヤが言った。
「なんだか、あっというまでした。マイヤ、旅というと辺境軍の訓練か人買いさんの狭い荷馬車しか経験がないので、こういうのはとっても新鮮で楽しかったですよ」
「それは何より」
「ええ、だんな様と皆さんに感謝、なのです」
マイヤは微笑み、そういえば、と言葉を継いだ。
「カツィカというのは、だんな様がお生まれになったところなのですね。どんな街なのですか?」
「あー……一言で言えば、田舎だな」
エルラ皇国の末端に引っかかるように存在しており、中央との繋がりはほとんどない。
過疎というほどではないが、往来を見れば人より牛や豚や鶏の方が多く、深呼吸をすると家畜や肥料の臭いで胸がいっぱいになる。
若者たちは立身出世を夢見て皇都に憧れるものの、その大半は街を出ることすらかなわず、近所の誰かと結婚し家業を継いで一生を終える。
そんな街だ。
いや、そんな街だった。あの日、竜に滅ぼされるまでは。
カツィカの現状がどうなっているのか、俺はほとんど把握していない。
忌まわしい悪夢に直結するので、人竜戦争が終結してからもあえて知ろうと思わなかったからである。
「まあ、行けばわかるだろうさ」
呟いて、小さく息を吐く。
どうせ今日の夕方には着くのだ。
目と鼻の先まで来て逃げるわけにもいかないしな。
「――にしても、まだ動き出さないのか。遅いな」
太陽は中天にかかろうとしている。
朝のうちには護衛隊の交代を済ませ、出発するということだったが。
「あ、マイヤ、イレーネ様に確かめてきましょうか? まだですかって」
「いや、いい。旅ってのは本来、予定通りにいかなくて当然だからな。今回はこれまでがあまりにも順調すぎた」
「だんな様のお体のことも考えると、楽ちんでよかったと思うですよ」
ま、そうかもな。
困難も旅の醍醐味だという考え方もあるだろうが、俺は同意しない。
楽に済むなら、その方がいいに決まってるのだ。
もちろん、このときの俺たちは知らなかった。
苦労知らずでいられるのは、ここまでだということを。
まるで強欲な金貸しが貸し付けた額よりはるかに多くの金を取り立てるように、この先はあらゆる意味で『順調』とは対極の運命に襲われるということを。
――昼を過ぎ夕方になっても、なぜか交代の部隊は到着しなかった。
そのまま日が沈み、夜になり、翌日の朝になっても。
感想へのお返事が滞っていてすみません……。今ちょっとバタバタしてますので、もう少しお待ち下さい。
(ちゃんと全部読んでます。ありがとうございます)




