7話 マイヤ、だんな様のお役に立ちますです!(2)
「えっと……その、それはいったい、どういう意味なのです?」
「無礼な兄さんたちの態度にも、あなたを人買いに売り渡そうとしている若旦那様にも、腹が立たないのかしら――と、そう訊いているのよ」
淡々と彼女は言い、そして付け加えます。
「……ま、兄さんたちのバカな戯れ言は相手にする必要もないと思うけど」
無表情ですが、これは不機嫌だからではありません。
あまり感情を表に出さない人なのです。
マイヤより三つほど上なのですけど、それでも見習い兵のなかでは歳が近かったので、これまでにもときどき言葉を交わすことがありました。
少し考え、マイヤは答えます。
「でも、そういうものではないのですか? マイヤ、また小さくて役立たずなのは間違いないですし。――えっと、こういうのを、何て言うんでしたっけ。ぶんしょうりょうのあつかい?」
「分相応の扱い」
「あ、それですそれです」
こくこくとうなずきます。
新しく当主となったカスパル様は、人買いさんに売り払われる獣人(もちろんマイヤも含みます)について、『戦力にならず、獣臭いだけのゴミクズ』であり『これが分相応の扱いである』とおっしゃいました。
軍は戦うための組織です。
ゴミクズは役に立たないものです。
戦うための組織で役に立たないなら、それはゴミクズです。
ゆえに、カスパル様の言葉には筋が通っていると思いました。
もちろん、マイヤに対する虎族の――彼女のお兄さんたちの振る舞いも。
だってマイヤ、ゴミクズですし。大切に扱うべき理由はないのですから。
「確かにこれ以上お仕えできないのは悲しいですし、寂しいですけど……受け入れなければダメなのだって思うのですよ」
役に立てなかったということを。
手元に置く価値がないと評価されたことを。
それがマイヤの正直な心情でしたが、彼女はわずかに眉根を寄せました。
「マイヤ、あなたはね、もう少し――」
しかし、言葉の途中で口をつぐみ、首を横に振ります。
「あの……?」
「――何でもない」
そう言うと、彼女は小さくため息をついたようでした。
「……私には、あなたの運命を変えるだけの力がない。無責任なお説教をできるような立場でもないしね」
「?」
よくわからないことを言われました。
「気にしないで。――あなたの人生に、どうか幸運がありますように」
彼女は少し悲しそうな微笑を浮かべます。
珍しいなあ、とマイヤは思いました。
普段から冷静沈着で、ほとんど表情を動かさない人でしたから。
いずれにせよ気に掛けていただいたのは確かですので、ありがとうございます、とマイヤはお礼を言います。
程なく迎えの馬車が到着し、マイヤは生まれ育った場所に別れを告げました。
――それからおよそ一年後。
マイヤはだんな様――リーンハルト様と運命的な出会いを果たすことになります。
◆◇◆◇◆
「……はわ?」
目を覚ますと、ベッドから体が半分ずり落ちていました。
横たわった後、柔らかすぎてどうにも落ち着かないなあ、と思ったところまでは覚えているのですが……いつの間にかぐっすりと寝入ってしまいました。
昔の夢を見ました。
これはブラウヒッチ家を出て以降、ほとんどなかったことです。
ちゃんとした寝床を与えられたことで、緊張が緩んだのですかね?
窓の外はまだ薄暗いようです。
「さてさて、頑張りましょう!」
マイヤは自分に気合を入れ、ぴょんとベッドから飛び降りました。
正式に雇っていただけたわけではありませんが、少なくともしばらくはお仕えすることができるのです。
今日からは朝早く起きて、いっしょうけんめい働いて、どうにかリーン様に気に入っていただかなければなりません。
――実のところ、昨夜は少し失敗したかなと思っているのです。
『それで……あの、マイヤをお召し上がりになるのです? だんな様』
そう尋ねたとき、だんな様がものすごく複雑な顔をされました。
あれはマイヤがずれた対応をしたときに周りの人が見せるのと、同じ顔です。
そしてだんな様はその表情のまま、
『……どんな意味であっても、召し上がらねえよ』
とお答えになりました。
やはりマイヤが何かを間違えてしまったのでしょう。
自分の体や命すら差し出せるという思いを口にしただけだったのですけど……
とにかく。
リーン様にどう受け取られたのだとしても、マイヤのその決意は揺るぎません。
人買いさんたちに連れられ各地を転々としていたこの一年の間、売る人買う人、また売られる人買われる人とお話しする機会がたくさんありました。
そこで耳にした、ある言葉を思い出します。
いわく――『どんな立場で仕えるにせよ、主人に気に入られるコツは「忠誠心」という感情にある』、と。
『お仕えしなければ』とわざわざ思うのではなく、自分の中から自然にそういう気持ちがあふれる状態になることがある。
そういうときは相手からも好感を持たれ、よりよい主従関係を築けることが多い――のだそうです。
正直なところ、この『忠誠心』という感情については、あまりよく分かりませんでした。
――先日、リーン様に出会うまでは。
人買いさんに短刀を突きつけられていたあのとき、もしかしたらここで人生が終わるのかな、とマイヤはぼんやり考えていました。
それはそれで仕方のないことです。
処分される方法を、ゴミクズが自分で選べるわけもないのですから。
しかし、リーン様が現われ、『動くな』とお命じになったとき。
そしてリーン様が不思議な術で人買いさんの短刀から解放してくださったとき。
マイヤは心が震えるような、まるで雷に打たれたかのような衝撃を受けました。
だって――マイヤのようなゴミクズを、護るべき価値があると認めてくださったのですから。
あの瞬間から、マイヤはこの方のそばにいたいと強く願うようになりました。
こんな気持ちになったのは初めてのことで、ああこれが忠誠心というものか、とマイヤは心の底から理解できました。
だから、レオ様に希望を伝えて、そして許可をいただけたとき、天にも昇るような心地になりました。
――いえ、リーン様がこのことを了承しておられなかったというのは、予想外でしたけど。
「まあ、いずれにせよ、機会をいただけたことは確かですし……うーん、まずはもっとお話をするのが目標ですね。だんな様がメイドに何を求めておられるのか知らないと、です」
マイヤは呟いて、考えを整理しました。
前の家では価値なしとして売られてしまったのですが、リーン様にとっては価値ある存在でいられたらいいなと、心から思います。
はい。早起きしてがんばるですよ。
――と。
そこでマイヤは、違和感を覚えました。
「……あれ?」
先ほどより、室内が暗くなってないですか?
窓から差し込む光が、明らかに弱くなっている気がするのですが。
「…………」
鎧戸を開け、太陽の位置を確認。
そして、マイヤは現実を認識します。
「……朝じゃなくて、夕方、なのですね」
鮮やかな赤色の夕陽を、どうやら朝陽と勘違いしていたもよう。
これはつまり。
新しい雇われ先で。
何をおいてもマイヤの価値を証明すべきときに。
丸一日近く、のんびりと夢の中で過ごしたということで。
「ね――ね、ね、寝坊しましたー!」
赤く染まった空を見て真っ青になりつつ、マイヤは絶望の声を上げます。
そして必死の速さで身支度を整え、部屋を飛び出し階段を駆け下りたのでした。