66話 故郷への旅路(1)
木剣を振り抜いた瞬間――あ、これはうまくいった、と確信した。
頭のてっぺんからつま先まで、すべてが理想の動きを再現できたという感触があったのだ。
刹那ののち、十歩ほど離れたところにある立木が、まるで落雷に撃たれたかのような音を立て真っ二つに裂けた。
俺の放った勁の刃が標的を捉え、破壊したのである。
「……やった」
俺は呟き、そして勢いよく背後の女性を振り返った。
「やった! 見たよね、師匠! 俺、できた! できたよ!」
「ふむ」
ミナヅキは一つうなずくと、立木の残骸に歩み寄って検分する。
「そうだな。まだまだ技と呼べるような代物ではないが、一応成功ではある。思ったよりずっと早かったのは確かだ。ま、上出来だよ、リーン」
「だろ? これが当たれば、狼だって熊だって倒せ――」
そこで、ゲンコツがこんと頭に落ちてきた。
「だが、調子に乗るな。『当たれば倒せる』ではダメだぞ。百回放ったら確実に百回当てられるよう腕を磨け。九九回当てたとしても、外した一回で反撃受けて命を落とすことになっては意味がない」
「う……」
「あと、威力もまだまだ。狼なら何とかなるかもしれないが、でかい熊ならこの程度は耐えて襲いかかってくるだろうな」
「もっと破壊力上げられるの?」
上げられるとも、とミナヅキは言った。
「極めれば、竜すら一撃で屠れるようになる」
竜。
もちろんその名は知ってる。
どんな獣よりも大きい、まるで小山のような怪物。
巨大な牙と爪で灰色熊を引き裂き、炎を吐いて狼の群を焼き尽くす。
この世で最強の生物。
ただ、俺はまだ自分の目で見たことがなかった。
せいぜい知り合いの知り合いが遭遇したといううわさ話止まりである。
「竜って、ほんとうにいるの?」
「いる。とはいえ、人の多いところにはなかなか姿を現わさないがな。このカツィカの街から少し南……そうだな、イスカーチェ国との国境あたりにまで行けば見ることもあるだろう」
「師匠は戦ったことあるの? 勝った?」
「勝った」
ミナヅキはさらりと言った。
「だが、普通の人間にはまず無理だな。並の腕力と武器では、竜の鱗を貫けないだろう。手段としては勁かあるいは魔術ということになるが、勁の刃とて少し甘くなれば弾き返されるし、魔術も――」
と、そこで言葉を切り、ミナヅキはしげしげと俺を見つめた。
「そういえば、そっちについてはちゃんと確認したことがなかったか。可能性は低いと思うが、一応調べてみるのも悪くなかろうな、うん」
「調べる? 何を?」
「ちょっとそこにまっすぐ立て」
「こう?」
「そう。そのまま」
ミナヅキは正面に立ち、俺の両手を掴む。
そして身を屈め、額を俺の額にこつんと押し当てた。
顔が近い。服の隙間から胸の谷間が覗いている。
体温が低いのか肌の触れ合った部分がひやりと冷たく感じられ、俺は理由もわからず頬が熱くなるのを覚えた。
「ち、ちょっと、師匠……」
「目を閉じて肩の力を抜け」
ミナヅキの方はお構いなくその姿勢のまま、動きを止める。
微妙に居心地の悪い沈黙が続き、俺が再度口を開こうかと思ったところでようやく両手が解放された。
「んー、やっぱりかあ」
体を離し、ちいさく息を吐くミナヅキ。
「あの、な、何をしたの?」
「魔術師としての適性をみていた。魔力は勁とはまた別種の力だが、効率的に体内を巡らせないといけないという部分は変わらないんだ。で、試しに軽く魔力を流してみたんだが……残念ながら、滑らかには伝導しなかったな」
「えっと、つまり?」
「リーンは魔術師にはなれないってこと。そもそも魔術師の資質を持つ者は希少だから仕方ないと言えば仕方ないんだがな。竜を倒すくらい強くなりたいんだったら、勁功を極めるしかない」
なんだ、それだけのことか、と俺は拍子抜けした。
「つまり魔術はダメでも、勁功は身に着けられるんでしょ? 何の問題もないじゃん」
俺としては最初からそのつもりである。
魔術に興味など持っていない。
「俺は勁で竜を殺せるくらい強くなる。だからもっと鍛えてよ、師匠」
「前向きなのはいいことだ」
苦笑を浮かべてミナヅキは言う。
「だが、そう焦るな。勁功というのは一種の体術だが、だからこそ慣れない者が使いすぎるべきではない。運動不足の人間がいきなり何本も全力疾走したら、体に悪いだろう? 一気に強くなろうとすると、その前に壊れるぞ」
「逆に少しずつ鍛えていけばちゃんと強くなれるし、竜も倒せるようになる?」
「ま、そういうことだな」
一つうなずいて、師匠は続ける。
「なるほど、リーンの目標は竜より強くなることか。では、一人で竜を狩れたら卒業ということにしよう。もう少し大きくなったら、実戦に連れて行ってやる」
「ほんと?」
「……まあ、技を学ぶだけならともかく、真の強さなんてのは生きるか死ぬかの中でないと身につかないものだしな」
その不吉な呟きは、竜をカッコよく倒す未来の自分を妄想することに夢中になっていた俺の耳には届かなかった。
誇張でもなんでもなく、彼女は実際この後の修行で命にかかわるような状況へためらいなく弟子を放り込み、俺は何度か本当に死にかけたりするのだが、それはまた別の話。
――多分、このときの俺は、自分の可能性に興奮していたのだと思う。
竜をも越える力を手に入れる。
最大最強の存在である竜を倒す。
つまりそれは、灰色熊に襲われて幼い弟や妹を危険にさらした先日のような失態とは無縁になるということ。
たとえ竜がカツィカの街を襲撃してきたとしても、ヨハンや、リーザや、さらには父さんや母さんを護ってやれるということを意味する。
そう、俺はイェリング家の長男として、家族の盾になるのだ。
このころの俺は無邪気にも、あるいは愚かにも、そんなことを考えていた。
自分がそういう存在になれると心から信じ、まったく疑っていなかった。
現実を思い知るのは、まだ十年以上先のことである。
◆◇◆◇◆
「おはようございますです、だんな様ー」
目を開け、体を起こそうとすると同時にマイヤの明るい声が聞こえてきた。
ここは自宅広間、いつもの長イスの上……ではなく、天幕の中だ。
入口から顔をのぞかせるマイヤは、すでにメイド服に着替えている。
「よくお休みになれましたです?」
「ああ。お前の方は?」
こいつは確か使用人の天幕で、エッダたちと一緒に眠っていたはずだ。
「ぐっすりなのです。お屋敷のお仕事をする必要がないので、朝食の準備をお手伝いしてきたところなのですよ」
犬耳のメイドは屈託なく笑った。
人竜戦争中はそれこそ木陰や洞穴で夜露をしのぐことの方が多かったくらいだが、その後ペリファニアに屋敷を構えたので、野営をするのはずいぶんと久しぶりの経験だった。
もっとも、きわめて上質かつ機能的な天幕で過ごした一夜を、野営と言ってしまっていいものかどうかは微妙なところである。
正直なところ、下手な安宿よりはるかに快適だった。
「それで、あの、『よろしければ朝食をご一緒にどうでしょう?』とゲルト様から言付かっているですけど……どうされるですか?」
少しのあいだ思案する。
自分が外向的でも社交的でもないことは自覚しているが、旅の出資者のお誘いを断るのも不作法というものだろう。
「わかった、今行く。着替えるからちょっと待ってろ」
俺はマイヤにそう答えた。
俺たちは今、師ミナヅキを探すため、大商人ゲルトの商隊に同行している。
目的地はエルラ皇国南西部の街カツィカ――人竜戦争の初期、竜に滅ぼされてしまった俺の故郷だ。




