65話 お茶会なのです(3)
「――あたしの父も、すっごい食道楽だったの。んで、歳取るとともにぶくぶく太っちゃってね」
行儀悪くテーブルにあごを載せたまま、イレーネ様は言いました。
「体のあちこちに負担が掛かるから少し痩せた方がいいとお医者さんに言われてたんだけど、ずっと聞き流してて。で、二年ほど前、あたしとゲルトが式を挙げる直前くらいだったかな、ぽっくりと。起きてこないから見に行ったら、こう、ベッドの中で胸を押さえて」
一呼吸ほどの間、痛みをこらえるような表情で目を閉じ、そして続けます。
「そのことが頭をよぎるから、ゲルトにももうちょっと食べるの控えなよって言うんだけど、あいつ、まともに取り合わないのよね。『君は心配性だね』とか言って笑うだけで」
うーん、それはよろしくない態度ですね。
マイヤの心は、断然イレーネ様支持の方に傾きます。
ゲルト様に悪気があるわけではないのでしょうけど、そんなのではイレーネ様にちゃんと向き合っているとは言えないと思うのです。
「だから、この家の料理長であるグンターにも、もう少し量を減らしてくれるよう頼んだんだけどさ……あんたもあんまり協力的じゃなかったよね?」
「け、決してそういうわけでは……」
イレーネ様の少々恨みがましい言葉を受けて、グンターさんは慌てたように両手を振りました。
「もちろん奥様の心情はお察ししますけど、オレは一使用人なんで、旦那様の意向には逆らえんのですよ。自ら食材抱えて厨房に来て、楽しそうな顔で『今日はこの肉を香辛料たっぷり使って焼いてくれ。大盛りで頼むよ』なんて言われたら、断れませんや」
お茶を一口飲んで、それにですな、と言葉を継ぎます。
「旦那様は人竜戦争でめちゃくちゃになった国内を立て直そうと飛び回ってらっしゃるわけだし、今は睡眠を削ってでも働かなきゃならん時期だ。食事くらいしか楽しみがないんだろうと思うと、オレにゃあ何にも言えませんよ」
「へー、つまりじいちゃん、奥様じゃなくて旦那様の味方なんだ」
エッダさんは、じとっとした目でグンターさんを見ます。
「いや、誰の味方とかいう問題ではなくてだな――」
と、そこでグンターさんはイレーネ様とマイヤも合わせた三人分の視線が自分に集中しているのに気付き、敵陣の真ん中に放り出された兵士さんのような表情になりました。
「あー、つまりその、お互いの思いやりの心が大切だと言うか……」
「あたしだって別にゲルトの楽しみを奪いたいわけじゃないの」
イレーネ様は小さくため息をつきました。
「そもそも忙しすぎるってのが問題なのよ。確かにゲルトが何でもかんでも一手に引き受ければ、一番効率がいいんでしょうね、仕事できるのは間違いないから。でもそれって一人が倒れたらそれだけで全部崩壊しちゃうってことでしょ? 危機管理ができてない」
「あの、そういうお話もゲルト様とされたのです?」
マイヤは尋ねます。
「したわよ。でも例によって、まともに取り合わなかった。『商会も君も、先代からの大切な預かりものだ。何も心配せず全部私にまかせてくれないかな』だって。実は今日のケンカの原因がそれ」
なるほど。
つまり、ゲルト様にとってイレーネ様は『護るべきもの』なのです。
だから、大変なことを自分一人で引き受けようとする。
でもイレーネ様の考えはちがっていて――
「一緒に戦う相棒になりたいのですね、イレーネ様は」
「そう! まさにそれ!」
どん、と拳がテーブルを叩きました。
「父さんが遺した商会が大切なのは、あたしも同じ。だから、一通り商売に必要な知識は身に着けたし、もっと必要なら、勉強したり経験を積んだりして覚えることもできる。なのに、あいつはあたしを大事に飾っておくお人形さんみたいに扱うの! それが嫌!」
「わかるです!」
思わずうなずきます。
マイヤにも覚えのあることだったからです。
赤竜を退治したあと、リーン様はご自分の深刻な健康状態を隠し、何も告げずに一人で死のうとしておられました。
マイヤを悲しませたくなかった、心配をかけたくなかった、ということでしたけど……そういうのは、まったくもって嬉しくない気遣いなのです。
関わることができない場所に置いていかれ、知らないうちに大事な何かが決定されてしまう。
とっても辛いことですよね、こういうの。
「意気投合してるなあ」
と、感心したようにエッダさん。
ああ、そうみたいですね。
イレーネ様を初めて見かけたときは、お金持ちの奥様で、美人で派手で華やかで別世界の人という印象でしたけど、ふと気付くと苦手意識は消えていました。
「あーもう、どうすればいいんだろ」
「ちゃんとお話しして、ゲルト様にわかっていただかないとダメだと思うですね」
「でも、どう言ったって耳貸さないし、ケンカになっちゃうから。なんか、いい方法ないのかなー」
イレーネ様はため息をついて、テーブルにこつんと額を当てました。
うーん……。
マイヤは小さな子供みたいにわんわん泣きながらリーン様に詰め寄りましたけど(いま思い出すと、とんでもなく恥ずかしいのです)、大人のイレーネ様にはあまり向いていない方法でしょうか。
当然ながらマイヤにもエッダさんにも夫婦ゲンカの経験はありませんから、イレーネ様に具体的な助言なんてできません。
自然と、残る一人に目が向きます。
「……なんでオレを見る」
「じいちゃん、結婚の経験あるよね?」
「なかったらおめえはこの世に存在してねえよ。――まあ結婚はもちろん、夫婦ゲンカの経験も豊富ではあるな。死んだばあさんとはよくやりあったし、息子夫婦、つまりエッダの両親のケンカの仲裁も数え切れないほど引き受けたな」
「じ、じゃあ、ケンカを円満に終わらせるような方法が……」
落ち着け嬢ちゃん、とグンターさんはマイヤを制しました。
「そうはいっても、常にうまくケンカを収められるもんじゃねえし、誰にでも通用する魔法のみたいな手があるわけでもない。基本的には、当事者同士で解決するしかねえんだよ」
「別にあたしたちのケンカを仲裁しろとは言わないわよ。見解の相違を解消するやり方について、意見を聞きたいの。年長者で人生経験豊富なのは確かなんだし」
「はあ、そこまでおっしゃるなら」
渋い顔をしながらも、グンターさんは姿勢を正して続けます。
「もめ事を収めるためには、まず目標と方針の確認ですな。奥様の目標は、旦那様の力になれることを示し、それを認めさせたい、ですよね」
うん、とイレーネ様はうなずきます。
「道は二つあります。後方支援か、前線で共に戦うか。前者は、いわゆる『留守を預かる』というやつですな」
「それ、今と変わんないじゃん」
「ただお屋敷で待つだけではなく、能動的に何かを行うってことですよ。商いに関わらせてもらえないとしても、旦那様のお帰りに合わせてお屋敷をきれいにしておくとか、美味しい料理を用意しておくとか」
むう、と眉を寄せるイレーネ様。
「まず、奥様がお飾りの人形じゃなく、何かしらの役目を果たすことができる存在であると旦那様に認めさせるのです。これだけなら、そこまで難しくないでしょう。こういう小さなことを足がかりにし、一歩一歩関係を変えていけばいい」
時間かかりそうね、とイレーネ様が言い、かかりますなあ、とグンターさんは肯定しました。
「対して後者はかなり思い切った手段。とにかく、どうにかして旦那様の近くに席を確保し、戦場の真ん中でもお力になれるというところを見せるわけです。越えるべき障害が多いうえに、失敗すれば次の機会はないでしょうが、手っ取り早いのは手っ取り早い」
「そっちのがいい」
「……でしょうな」
グンターさんはどこか諦めたように同意しました。
「ただし難易度は非常に高いですよ? 能力以前の問題としてまず最初に、奥様が商いの場に出ることを旦那様が承諾されるかどうか」
「んー、近いところだと、例のカツィカの市場建て直しの旅かなー。あたしが同行を主張して、それを認めさせれば第一関門突破って感じ?」
「え? 奥様も同行されるんです?」
驚いたようにエッダさんが尋ねます。
「する。やっぱ待つってのは性に合わないし」
「その、マイヤは、賛成するですよ。ついて行きたいと思ったら、ついて行くべきだと思うです」
普段、ゲルト様がお仕事であまり家にいらっしゃらないから上手くいかないという面もあるでしょう。
旅をされる間はずっと一緒なわけですし、何かが変わるかもしれません。
「ありがと」
イレーネ様はほほえみました。
こういう表情をすると、女の人というより女の子って印象になるですね。
「でもそうなると、どうやってゲルトにうんと言わせるかってのが問題だわねー。また適当に受け流されるのが見えてるし」
マイヤたちはうーんと考え込みます。
結局問題はそこに戻ってくるですね。
何をどうするにしても、ゲルト様の説得は必要なのです。
ゲルト様にイレーネ様の同行を認めさせる方法。
なにか、納得させるに足る理由があればいいのですけど。
「……ねえ、じいちゃん、何か案があるの?」
そのときエッダさんの声が聞こえ、マイヤは顔を上げました。
「ん? んー、そうさなあ……」
グンターさんは煮え切らない返事。
頭を悩ませているマイヤたちのなかで、彼だけが何か言いたげな、あるいは、言おうか言うまいか迷っているかのような、複雑な顔をしています。
「話なさいよ、グンター」
もちろんイレーネ様は、そんなあいまいな態度を許しませんでした。
「はあ。いやまあ、方策はなくもないし、難しいことでもありません。奥様の心持ち一つですな」
「こころもち?」
「その、奥様の旦那様への不満や苛立ちは確かに嘘ではないんしょうが、一方、惚れた弱みというか、なんだかんだで困らせたくない、迷惑を掛けたくないという思いもあるのではと思うわけです」
「んぬ……ひ、否定はしないけど」
少し顔が赤いイレーネ様。
「だから、旦那様とうまくいかなかったとき、子供っぽく拗ねてみせるとかチーズを食べてしまうとか、その程度で済ませて退いていたわけでしょう? 結果、旦那様は奥様が最後には折れてくれると考えてる。そこを覆してやればいい」
あ、その先はマイヤにもわかりました。
「つまり、承諾してもらえるまで、折れなければいいのですね!」
「そう。ひたすら粘って、諦めないこと。ただそれだけ」
小さく肩をすくめ、グンターさんは続けます。
「ま、オレの見たところ、大事に思っているのはお互い様なんですよ。奥様にとって旦那様に迷惑をかけるのが本意ではないように、旦那様も奥様が本気で嫌がっていることを強制したくはないはず。だから気持ちが伝わるまで、ひたすら、何十度でも何百度でも繰り返すんです。そうすれば、旦那様は決して無視できない」
「そっかー……なるほど」
なら気合いと根性で、などとぶつぶつ呟き始めるイレーネ様。
その様子をちらりと見、グンターさんは小さく息を吐きました。
「本当はあんまりこういうの、教えたくなかったんだがなあ。大恩ある旦那様にこの先何十年も続く迷惑を掛けちまったかもしれん」
「え? なんで?」
エッダさんが尋ねます。
「頑固で折れることを知らない女は手強いからな。男がどう足掻いても絶対勝てねえようになってるんだよ」
そう言い、グンターさんはどこか遠くを見る目になりました。
ふむ? と小さく首を傾げます。
マイヤには、まだよくわからないお話。
でも、なぜか将来役に立ちそうな、大切なことである気もします。
覚えておきましょう。
ともあれ。
イレーネ様はきっとゲルト様に同行されることになると思います。
旅が良いものになりますように、ご夫婦がもっと仲良くなれますように、とマイヤは心からお祈りしました。
――その旅にリーン様と自分もご一緒することになるなんて、もちろんこのときのマイヤは想像もしていませんでした。