62話 師と弟子と(4)
ロラント――つい先日までこの商人の屋敷で雑用係を務めていた青年。
そして、短剣を振るいマイヤとエッダを殺そうとした暴漢。
事後処理に関しては無関係な立場なのだが、俺の身内に手を出した愚か者であり、また明らかに素人ではない身のこなしだったことから、その正体には多少の興味を覚えていた。
「彼、イスカーチェの間者だったよ」
レオがあっさりとした口調で言うと、ゲルトは目を丸くした。
「なんと、国家規模の問題でしたか」
「あっちの国を問い詰めても、決して認めようとしないだろうけどね」
レオは肩をすくめる。
イスカーチェ国。このエルラ皇国と南方で国境を接している隣国だ。
質実剛健な気風で、伝統的に軍事力を重んじる。
我が国との関係は最悪というほどではないが、良好とも言いがたい。
いわば常に火種がくすぶっているような状態である。
「しかしあの男、よく素直に白状したもんだな。下手したら自分の失態で戦に発展しかねねえだろうに」
「いや、もちろん最初から素直だったわけじゃないよ。ただ、素直にさせる技術を何通りか試してみたというだけの話でね」
さわやかな笑顔のまま、レオは物騒なことを口にした。
「まあこちらとしても、今他国と本格的な揉め事を起こすのは避けたい。ロラントの処遇は僕の方で決めるけど、問題ないよね?」
「むろんですとも。いやはや、お手数をおかけして申し訳ない。――しかし、私ごときのところに、他国から間者とはねえ」
ため息をつくゲルト。
「ただ、先代から預かった御店を大きくすることだけを考えて、商いに励んできただけなのですが」
本気なのか謙遜なのか、はたまた韜晦なのかは、読み取れなかった。
本人の自己評価がどうあれ、ゲルトはこの国の経済を左右する重要人物だ。
人竜戦争からの復興状況を把握する、場合によっては抱きこんで自国に協力させる、あるいは邪魔なら暗殺する。
間者を送り込んでおく意味はそれなりにあるということなのだろう。
「とはいえ、今後も同じようなことが起こるかもしれない。しばらくの間、使用人や店員の新規雇い入れを止めてはどうかな? それだけで、厄介者が紛れ込む危険をずいぶん軽減できると思うのだけどね」
「ふむ、まあ、その通りかと存じますが……失礼ながら、実務上の問題で、少々難しいかと」
柔らかい口調だったが、ゲルトははっきりと首を横に振った。
「今はとにかく人手が必要で、さらに増員を考えねばならない時期なのです。ここで勢いが殺がれると、それだけ商いの立ち直りも遅れてしまいましょう」
「まあ、確かにそれは困るんだけどねえ。――そういえば、この街での市場の再生は? 目処が付いたのなら、人員を他に回しても大丈夫かなと思うんだが」
「旧体制がどうにも非効率的で、組合や経営組織一度解体して組み直す羽目になりましたからな。一応、それなりの形は整えましたが、人数を削る余裕はないでしょう。運営を任せられる人材だけでなく、市の設営や荷の搬入など、単純な力仕事にもまだまだ人手が要りますから」
「では、東の中継点は? かなり前に一区切りついたはずだが」
「他国の玄関口になる場所ですし、取引高をみるにさらに規模を大きくできそうですからな。あそこもむしろ人が足らんでしょう。それに余剰の人員は来週出発の隊商に組み込む予定ですから」
「そうか、それもあったね。ちなみにその件の準備なんだけど――」
「悪いが」
そこで俺はとうとうしびれを切らせ、割り込むことにした。
「二人きりでの打ち合わせは、また後にしてくれねえか? 俺は求めてる情報を得るため、ここにきたんだ」
「おっと確かにそうだ。悪いね、リーン。――ゲルト、例の人捜しの話だよ。依頼人は彼なんだ」
ああ、とゲルトはうなずく。
「なるほど。とにかく強い女性の噂を集めて欲しいということでしたな」
「リーンを伴ってきたのは、そちらの方に成果があったと聞いたからだ。君からの連絡では、竜を倒した女がいるということだったね」
「詳しく教えてもらいたい」
俺はわずかに身を乗り出した。
「ええ、では少々お待ちを」
ゲルトは執事を呼んで何事かを言いつける。
一礼して立ち去った執事は、すぐに戻って手に持った紙束を主に渡した。
「ひとまず聞いた話はこの書状にまとめてあります。あとでお渡ししますが、まずは私の口から要点をかいつまんでご説明いたしましょう」
執事をさがらせ、彼は俺たちに向き直った。
「単純に腕力が強いとか、ケンカが強いとかいう女性の話は結構ありましたが――お求めのものではないですね? で、先日寄せられた報告の中に、一つ興味深いものがあったのです。場所はエルラ皇国南西部の山岳地帯。山を越えれば、先ほど話に出たイスカーチェの国境に出るあたりですな」
俺は応接室の壁に掛けられた、エルラ皇国の地図に目を向けた。
だいたいの場所はわかる。ある程度土地勘があるところだ。
「あー……戦の被害がとくにひどかった地域だね」
「ええ、現在殿下のご命令で、重点的に復興を進めている地域でもありますな」
この付近では、荒れ狂った竜によって語り草になるほどの数の犠牲者が出た。
運良く生き残った者も、多くは他の地域へと移住していった。
とはいえ、愛着ある地に留まることを選んだ者、また戦が終わったことで避難先から故郷に戻ってきた者たちもいないわけではなく、山間に小さな集落がいくつか点在しているのだという。
「噂話の出所は、そんな小さな村の一つに住む初老の狩人です。ある日、雪の残る山で狐を狩っていた彼は、自分の頭上を飛ぶ巨大な影を目撃します」
竜である。
人竜戦争の終結以降、見境なく人間を襲うようなことはほとんどなくなっていたが、それでもおいそれと近づけるような存在ではない。
狩人は慌てて猟を中断し、下山しようとした。
と、そのとき彼は気付いた。
沢を隔てた向こう側に、尾根道を上っていく人影があったのだ。
それも、竜が飛んでいった方角に向かって。
このままだと、竜と鉢合わせするかもしれない。
彼は警告の声を上げたが、人影は反応しなかった。
声が届いていないのか。
そこで彼は、今下ってきたばかりの道を急いで引き返すことにした。
少し山を登れば双方の道が合流する。
追いついて引き留めることができるだろう。
しかし、合流地点まできた彼の目に映ったのは――無残な竜の死骸と、悠然と歩き去る女の後ろ姿だった。
「――以上。おおよそ、今から一月ほど前の出来事だそうです」
「その女の年格好はわかるか?」
「えーと、残念ながら詳しくは」
ゲルトは報告を確認する。
「体つきからおそらく女性だろうと見当はついたものの、頭と口元を布で覆っていたため、人相まではわからなかったとのことですね。年齢についても、幼い子供ではなく腰の曲がった老人でもなかった、という程度です」
何もわかってないに等しいな、それは。
「竜の死体の様子は?」
「そうですね、あの太長い首の――」
ゲルトは自身の肉付きの良い首の側面を、とんとんと手刀で叩いた。
「こう、頭から三分の一くらいのところを、一撃で切り落とされていたと。その瞬間は見ていなかったので、具体的に何をどうしたのかはわからないそうですが」
ふむ。
不明点が多く、まだ何かを判断できるような状況ではないが……興味深い話なのは確かだ。
こんな真似のできる人間がそうそういるとも思えないしな。
「レオ、竜殺しの英雄の中に、そういう技を使う者はいるか?」
「んー、君以外に心当たりはないかな」
レオは答えつつ、顎に手を当てた。
「とはいえ、全員を詳しく知っているわけではないから、確実なことは言えない。『英雄』の制度を発案したのは僕だけど、結局、国の中に組み込んじゃったから、兄皇子たちや有力貴族の手駒にも『竜殺しの英雄』がいたりするしね」
後を引き取るように、ゲルトが続ける。
「目撃者の身元は確認しております。現在は周辺に部下をやって、件の女性の所在と新しい情報を集めているところですな」
「その結果がわかるのは、どれくらい先になる?」
「さて……確定的なことを申し上げるのは難しいかと。まず有望な情報が手に入るかどうかが不透明ですし、首尾良く入手できたとしても、部下が報告をまとめ、私のところに届けるまでにまた時間が掛かります」
そこから内容が吟味され、俺に伝えられるとなると――
「まあ、一月二月は見ていただいた方がよろしいかと」
「なるほど」
思わずため息がもれた。
半ば無意識に心臓の上に手を置く。時間に余裕があるわけではない。
「お急ぎですかな?」
「まあ、な。焦ったところでどうにもならないのはわかってるんだが」
「ふむ……なら、一つご提案がございますが」
「提案?」
俺は軽く眉を上げた。
「イェリング様ご自身が、噂の出所まで足を伸ばされてはいかがでしょうか?」
皮肉や冗談を言っているわけではなさそうだった。
俺は目で続きを促す。
「おそらく、それがもっとも時間を短縮する方法かと。使いの往復が省けますから、その分早く情報をお届けすることができます。いずれにせよ、最終的には件の女性があなたの求める人物であるかどうか、その目で直接確認していただかねばなりませんしね」
確かに他人に任せきりでは、伝達に時間を食ってしまう。
それに、ただ待つだけというのも、気ばかり焦ってよろしくない。
一考の余地はあるか。
ただ、俺の場合、健康上の問題がある。
無理をしない程度の速度で長距離を徒歩移動するとなると、どのくらいの時間がかかるか。
しかしその懸念は、ゲルトの言葉で解決した。
「実は、近々商用で南西部の方に出向く予定があるのですよ。大きめの商隊を組むことになりますし、よろしければご一緒されませんか? もちろん馬車や宿、食料の手配はお任せいただければ」
「ふむ、いい話じゃないか」
レオが賛同する。
「いや、いい話なのは確かだが――なんでそんなに協力的なんだ?」
俺は眉間にしわを寄せて二人を見た。
「僕に関しては、単純に君が前向きになっているのが嬉しいから、後押しをしたいという気分なんだけど」
「お前はどうでもいい」
というか、こいつの思考回路についてはいまさら深く考えても仕方ない。
「わからないのはゲルト、あんたの方だ。噂話を教えてくれる程度ならともかく、そこまで俺に力を貸して何の得がある?」
「それはもちろんイェリング様、あなたが人竜戦争の英雄、国家の功労者だからです。力をお貸しするのに、理由など必要でしょうか!」
そして、ゲルトは少しだけ口の端を吊り上げた。
商売用の笑顔に、少しだけ悪戯っぽい色が混ざったようだった。
「というような論法は、おそらくお好みではないのでしょうな。正直に申し上げれば、投資ですよ。あなたに貸しを作ったという事実が、いずれ何か私の助けになることがあるかもしれない」
「何の保証もない話だな。俺が借りを踏み倒してしまえば、それまでだが?」
「でも、おそらくあなたはされないでしょうね。――借りを踏み倒す人間には二種類あります」
そう言い、ゲルトは指を二本立てた。
「すなわち、相手を見下す人間と、見上げる人間です。前者は他者の無償奉仕を当然と考えているので、借りも恩も覚えません。後者は『自分はあの恵まれた奴よりはるかに可哀相な存在なのだから、借りたものを返す必要などない』と自己憐憫に満ちた言い訳をします。しかし、イェリング様はどちらでもなさそうだ」
「……なぜそんなことがわかる?」
他人への接し方ですよ、と商人は微笑んだ。
「エッダやグンターに対しての、またレオポルト殿下に対しての態度を見ていると、どんな立場の人間と会話するときも、あなたは常に目線が同じ高さなのです。相手と対等であろうとする」
ですので、とゲルトは目を細めた。
「私が行う投資に対しても、誠実に、かつ公平に、『借り』と認識していただけるのではないかなと、そう考えた次第です」
「…………」
自分が誠実だと主張するつもりはないが、貸し借りを無視できる性格でもないのは、その通りだろう。
ゲルトがわざわざこの部屋でエッダやグンターに引き合わせたのも、もしかして、俺を観察し、見極めるためだったのか。
(……ふん)
良い気分はしない。
とはいえ、ゲルトに対してそこまで嫌悪感を覚えたわけでもなかった。
手の内を明かして見せたというのは、つまりこれ以上俺を欺き謀るつもりはないと意思表示しているわけだ。
「話はわかった。同行させてもらう……かもしれない」
「かもしれない、とおっしゃると?」
「即答はできないが、その方向で検討するということだ」
まあ、勝手に一人で決めたら、おそらくマイヤが怒るだろうしな。
「結構です。とはいえ、出立は七日後なので、数日中にはお返事いただきたいですけどね」
「わかった。参考までに聞きたいんだが、旅程はどんな感じになっている?」
「そうですね、こちらをご覧ください」
ゲルトは立ち上がり、壁に掛けられた大きな地図へと歩み寄った。
「ペリファニアがここ。で、西に向かい、こう南街道へと折れます。しばらく南下してから国境近くを西進」
丸っこい指が街道をなぞっていく。
ああ、なるほど、やはりそちら方面か。
「例の女性の目撃談があったのはこのあたりです。お望みならイェリング様はご自由に動いていただいて問題ありませんが、食事や宿に不自由すると思いますので、どうせなら我々の目的地カツィカの街まで同道して、拠点をそこに置かれることをお勧めしますな」
カツィカ。
その街の名を聞いた瞬間、胸にちくりと痛みが走った。
体調の異常ではない。心理的なものだ。
「片道、だいたい十日から十五日くらいを予定しております。その後、私はしばらくカツィカに留まることになりますが――おや、どうかされました?」
俺の顔を見て、ゲルトが眉をひそめた。
この海千山千の商人が笑みを消すほど、ひどい表情をしていたらしい。
「……何でもない。カツィカは、宿や店が営業できるほど復興したのか?」
「いえ、本格的な復興に備えて、人が滞在できるように環境を整えたというのが正確でしょうか。今後、商業や経済面での立て直しの指揮を、私が担当することになっております」
そこでレオが思い出したように、俺に視線を向けた。
「そういえばカツィカの街は――」
そう。
真っ先に竜に壊滅させられ、人竜戦争の端緒となった街。
そして――親父やお袋や弟や妹が、かつて生き、暮らしていた街。
「ああ、俺の生まれ故郷だよ」




