59話 師と弟子と(1)
「――段階を踏む、ということを学ぶ必要があるな、君は」
ミナヅキに弟子入りし、森に出入りするようになってすぐのことだったと思う。
早く勁の技を身に着けて強くなりたいと主張する俺に対し、師匠はため息をついてそう言った。
「勁というのは、誰でも身に着けられる技術だ。その意味では、例えば魔術のような、資質ある選ばれし者のみが行使できる特殊能力とは異なっている」
「じゃあ、ぱぱっと教えてよ」
「そういうわけにはいかない。誰にでもできるからこそ、高みに達するためには人並み以上の鍛錬が必要になる」
「何をすればいいの?」
「まずは、自分の思う通りに体を動かせるようになることだな」
よくわからないことを言われた、と思った。
「自分の体なんだから、普通は思うとおりに動かせるでしょ?」
「ふむ。――リーン、君、絵心はあるか?」
俺は目を瞬かせた。
さらに話が飛んで、訳が分からなくなったのだ。
「絵心って……絵が描けるかってこと? いや、無理だと思う。そんなの、まともに習ったこともないし」
「なら筆を手に持つのは?」
「持つだけなら、誰にだってできるよ」
「筆に顔料を含ませ、平面にべったりと色を塗ることは?」
「顔料……って絵の具か。まあ、塗るだけなら」
「筆を持ち、色を塗ることはできる。しかし、それだけでは『絵を描く』には足りないというわけだ。何が足りていないのだと思う?」
「え、あー……」
返答に詰まった俺を見て、ミナヅキは言葉を続けた。
「指向性だよ」
「しこうせい?」
「複数の動作を一つの目的のために統制し、最善の方法で活用すること。筆を持つ、色を塗るというのは誰にでもできるが、それを絵として結実させるためには、完成形に向けてすべてを集約させなければならない。勁を使いこなすのも同じだ」
「それが、自分の思う通りに体を動かすこと?」
やはりぴんとこないなあと思いながら、俺は首を傾げた。
歩いたり走ったり剣を振ったりするのは、絵を描くよりはるかに簡単なことのような気がするのだけど。
「別の言い方をすれば、『自らの体を、完璧な意味で制御下に置く』ということだな。――ほら、受け取れ」
ミナヅキは荒く削った木剣を俺に投げ渡した。
「よくわかってなさそうだから、体に教えてやろう」
「戦うの?」
「戦わない。素振りをしてもらう」
「なんだ……」
いくらかがっかりするような気分を覚える。
激しく斬り合う練習をすることこそが、強さへの近道ではないのだろうか。
「上段から十回。姿勢について細かいことは言わないから、力を込めて。もしちゃんとやり終えることができたら、君の要望を聞いてあげよう。それとも、まさかこの程度のもできないのかな?」
「できるよ!」
俺はあっさり挑発にのせられた。
木剣を構え、傍らでミナヅキが見守る中、俺は素振りを開始する。
つまりは十回剣を振ればいいだけ。簡単なことじゃないか。
「いち、に、さん、し、ご」
十歳にしては体が大きく、腕力もそれなりにあったと思う。
地面をしっかりと踏みしめ、俺は勢いよく木剣を振り続けた。
「ろく、しち、はち」
腕がぶれることも足がよろけることもなく、十回が終わろうとする。
やっぱり簡単じゃないか、こんなの。
「きゅう、じゅ――」
その瞬間だった。
背筋に雷が落ちたような感覚が走り、俺は思わずうひゃっ!と大きな声を上げて木剣を取り落とした。
「ふむ、残念ながら、素振り十回は完遂できなかったようだな」
ミナヅキはしれっとした顔で言い、木剣を拾い上げる。
「な、な、何すんだよ!」
当然俺は顔を真っ赤にして抗議する。
十回目が終わろうとする間際、ミナヅキが首筋に触れた。
同時に、しびれるような、むずがゆいような、気持ちいいような、えも言われぬ強烈な刺激が、全身を駆け抜けたのである。
「なあに、ちょっと君の脊髄に勁で刺激を与えただけだ。邪魔をしないとは言ってないからな」
「ずるいじゃん! あんなの、我慢できるわけない!」
「そう。だから、体を思い通りに動かせなくなっただろう?」
俺は思わず言葉を失った。
「人は驚くと呼吸が乱れ、自分を制御できなくなる。恐怖、緊張、困惑などでも同様の現象が起こるな。それではダメだ。勁を使いこなすどころか、単純な素振りですら失敗してしまう。今のように」
「…………」
「いついかなるときも、何が起きたとしても、どんな感情が内心に渦巻いていたとしても、完璧に自分の体を律さなければならない。勁を練り上げるために求められる『体の制御』とは、そのレベルのものを指しており――」
ミナヅキは片手で鋭く木剣を振り下ろす。
息を呑むほど美しい軌跡を描いて勁の刃が飛び、二十歩ほど離れたところにある大木が、乾いた音を立てて真っ二つに裂けた。
「それができて初めてこの領域に手が掛かる。技だの実戦だのをうんぬんするより先に、まずはそこからだ。理解したかな?」
「…………した」
俺が神妙にうなずくのを見て、ミナヅキは小さく笑った。
「うむうむ、素直に師の言うことを聞くのは、上達の第一歩だ。さて、まずは呼吸法から叩き込んでやろう」
◆◇◆◇◆
「じゅうご、じゅうろく、じゅうしち――」
屋敷の庭。目の前で、マイヤが木剣を振っている。
日課として剣の素振りをやらせているが、これは剣術を教えるというよりも、体力作りと、負荷の中でも勁を練るための呼吸を維持する訓練である。
(にしても、覚えが早いよなあ)
小さな体に充実している勁力を眺めながら、俺は思う。
まだまだ学ばせるべきことは多いが、進歩の速度は俺の少年時代をしのぐかもしれない。
素質も豊かだが、何より勤勉さと素直さが俺とは大きく違うのだ。
課せられた訓練を文句一つ言わず忠実にこなそうとするため、『お前は絵を描けるか?』などという話をする必要はまったくなかった。
……思い返すと、俺はつくづく生意気なクソガキ弟子だったな。
努力嫌いで、すぐに近道を求めていたような気がする。
師匠もよくつきあってくれたものだ。
(さて)
俺は立ち上がると一心不乱に剣を振る弟子に近づき、その首筋にそっと触れた。
「にじゅうく、さんじゅ――ふにゃああああああああぁっ!?」
マイヤは木剣を放り出し、ぺたんと地面に腰を落とした。
「……狼犬族なのに、ずいぶん猫っぽい悲鳴だな」
「な、なな、なに、なにを、なさったですか!? 体中が、びくってなって、へ、変な感じが……」
涙目になって俺を見上げる。
「ちょっと刺激を与えただけだ。勁が乱れたぞ。常に集中しとけと言っただろ」
「こ、こんなの、む、無理ですよう……がまんできないです……」
ま、素直で優秀な弟子であっても、この辺りは俺の修業時代と同じだ。
何となく懐かしい。
「別に驚くなとか感情を殺せという意味じゃない。どんな状況下でも、普段通りの呼吸を保てってこった。でないと、勁力が不安定になるからな」
そう言いながら手を差し伸べてやると、マイヤは首を横に振った。
「その、い、いま、だんな様に、さ、さわられると、腰が抜けて、立てなくなりそうで……」
仕方ない。少し休憩することにした。
(俺が誰かの師になるなんてな)
真っ赤になって喘いでいるマイヤを見て、不思議な気分を覚える。
こんな日が来るなんて、考えたこともなかった。
なんとなく、俺自身の師匠――ミナヅキのことを思い出す。
彼女がどういう人だったか、一口で表現するのは難しい。
子供っぽく気ままな言動が多かった気もするが、今思えば、あれはあれで大人としての計算に裏打ちされていたのかもしれない。
色々な意味で、かなわないなあ、という印象が強く残っている。
師匠として言えば、声を荒らげたり理不尽な暴力を振るうことはなかった。
とはいえ、甘い師だったわけでもない。
修行ノルマは厳しかったし、対人戦闘の修練では俺の泣き言や悲鳴を一切聞き入れず叩きのめしにきたものだ。
もっとも俺の限界についてはちゃんと見極めていたようで、大怪我をしたり心が折れて立ち直れなくなったりすることはなかった。
まあ、総合的に言えば良い師匠だったのだろう。
多分、俺の方は良い弟子ではなかった。
修行態度だけの話ではない。独り立ちした後、竜に対する怒りと憎悪を制御できず、勁を使いすぎて命を縮めたからだ。
今のザマをミナヅキが見たら、何を言うだろう。
怒るか、呆れるか。
――こんな俺は、良い師になることができるのだろうか?
「だんな様?」
マイヤが怪訝そうにこちらを見ていた。
「……ん、ああ、回復したか?」
「は、はい、何とか」
「んじゃ、軽く相手してやる」
「はい! お願いします、です!」
木剣を置き、マイヤは身構えた。
朝の修練の締めくくりには、軽く組み手をすることになっている。
武器を持つと相手を過剰に傷つける可能性が脳裏をよぎり、無意識に萎縮してしまうようだ。性格的に素手での格闘術の方が、こいつには向いているだろう。
マイヤは体格が小さい割に筋力に優れる。つまり敏捷性が高い。
まだまだ俺の敵ではないが、二、三本に一度は目を見張るような手を見せる。
――と、数度の応酬を交わしたところで俺は胸に軽い不快感を覚えた。
こほ、と小さな咳が漏れる。
マイヤはすぐに構えを解き、血相を変えて飛んできた。
「だ、大丈夫なのです? まさか、またお加減が――」
「平気だ」
俺は片手を上げて遮る。
「ひどくなりそうなら正直に言う、と約束しただろ。たいしたことねえ」
嘘ではない。少し肺の奥にざらざらするような感覚があるだけで、あの血を吐くような発作に発展しそうな気配はなかった。
「ならよかったですけど……あの、今日はもう、おしまいにするです?」
「んー、いや、俺自身は平気なんだが――」
俺は庭の向こうに視線を向けた。
「客が来たようだしな」
「え?」
マイヤが振り返ると、門のところから金髪の優男が俺たちに手を振っていた。
「いやあ、英雄が弟子に稽古をつける様子が見られると思ったんだけどね。もう終わりなのかい? 残念だなあ」
エルラ皇国第三皇子、レオポルトは爽やかに笑って歩み寄る。
「見せ物じゃねえよ。見学お断りだから帰れ」
「そう邪険にしないでくれよ。今日は君に頼まれたものを持ってきたんだからさ」
「頼まれた、もの?」
マイヤが不思議そうに言って、首を傾けた。
レオは手に何も携えていない。
「形がなく、しかし価値あるもの、つまり情報だよ、マイヤ」
レオは芝居がかった仕草で両腕を広げた。
「リーンの師匠、ミナヅキと呼ばれる女性の行方について、ね」
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