56話 犬耳娘とチーズの行方(5)
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「ぜったいロラントさんだよ、犯人」
エッダさんは隣を歩きながら、そう言いました。
使用人棟の入口で会った、下働きだという若い男の方ですね。覚えています。
「えっと、どうしてそう思うですか?」
「女性をつまみ食いするような人は、チーズもつまみ食いするに決まってるから」
「……そういうものなのです?」
マイヤは小さく首を傾げます。
「や、半分くらいは冗談だけどさ。でも、あんまりあの人には近づくなと普段からじいちゃんにも言われてるんだよね。『ちょっと良くねえ影がある』って」
「…………」
マイヤは口を閉じ、ロラントさんの顔を思い出しました。
グンターさんと同じ意味かどうかはわかりませんが、実はマイヤもあの人について、ちょっと引っ掛かるものを覚えています。
――初対面のとき、少しばかり『怖い』と感じたのです。
特にはっきりした理由があったわけではありません。
表情も口調も愛想良く、恐怖する必要はなかったはずなのですけど。
まあロラントさんが本当に犯人かどうかは、いったん置きましょう。
マイヤとしては、まず使用人がだんな様のものを盗むというのが信じられません。
だって、マイヤがリーン様のご飯を盗み食いするようなものですよね?
考えただけで身震いしてしまいます。とんでもないことです。
チーズ泥棒さんは悪い人だから、何とも思わなかったのでしょうか?
それとも、何かやむにやまれぬ事情があったとか?
「で、どう? においはどっちの方に動いてる?」
「え、あ、はい、んーと……ここで突然、においが薄れているです」
食料庫から廊下を進んできたマイヤたちは、ある扉の前で足を止めました。
「多分、ここから扉の向こう側に出たと思うですよ」
ふむ、とうなずいて、エッダさんは扉を開けました。
庭を横切るように屋根のついた渡り廊下があって、母屋に通じているようです。
「一回外に出ちゃうけど、においを追っていけそう?」
「んー、お天気しだいですね。お家の中よりは、少しむずかしくなるです」
たとえば風が強ければにおいは吹き散らされてしまいますし、雨が降っていれば洗い流されてしまいます。
今日は雨は降っていないですけど、風が少し強め。
マイヤはすんすんと鼻を鳴らし、においをかぎ取ります。
「このまま、母屋の方に向かった感じですね」
「母屋、本館かあ。……うーん、マイヤを勝手に通すのはちょっとまずいかなあ」
「そ、そうですよね。マイヤのような獣人が立ち入るなんて……」
リーン様はお気になさらないですけど、その前のお家では立ち入ってもいい場所が厳しく制限されていましたし、当たり前のことだと思うのです。
しかし、エッダさんは慌てたように首を横に振りました。
「ちがうちがう、獣人関係ない。旦那様たちが寝起きされる場所だから、外の人を勝手に入れちゃいけないってだけの話。ここには居ないけど、ゲルト様、獣人のメイドさんとかお店の従業員とか、普通に雇われてるから」
「そう、なのです?」
「商いやってると、色んな人がお客さんになるからね。獣人ってだけで避けるような雰囲気は別に無いんだよ、うち。それに、わたしやじいちゃんは人竜戦争のとき獣人隊に助けられてるし、むしろ個人的には好感度高いよ?」
そう言ってもらえると、少し心が軽くなります。
元獣人兵という理由で嫌われた経験がマイヤにはあるですけど、そういう人ばかりでもないのですね。
「さあて、問題はチーズの追跡だよね。どうしよっかなあ」
顎に手を当てて考えるエッダさん。
と、そのとき、年かさのメイドさんが通りかかりました。
「エッダ、友達と遊ぶのも良いけど、仕事がおろそかにならないようにね」
「あ、はーい」
先輩メイドさんが立ち去った後、マイヤは尋ねます。
「あの、本来のお仕事の方は大丈夫なのです?」
「うん、人は足りてるから、特別忙しいわけじゃないんだ。今日は夕方、奥様に呼ばれてるのを忘れなければいいだけ」
現在このお屋敷に務めている使用人は、男性が五人、女性が七人というところだそうです。
「ふえぇ、多いのですねえ」
「数ある別邸の一つと考えると、まあ多い方だよね。うちの旦那様、仕事なくて困ってる人見たら雇っちゃうから。ま、わたしたちもそれで助けられたんだけど」
そういえば、とエッダさんはマイヤを見ました。
「そっちはマイヤとリーンさんの二人だけなんだっけ? 大変じゃない?」
「大丈夫なのですよ。マイヤのだんな様も、おおらかな方ですから」
ちなみにリーン様=だんな様=竜殺しの英雄だということは、内緒なのです。
目立つ、騒がれる、畏まられるというのを、リーン様が好まれないのですね。
「で、泥棒さん探しですけど……夕方まで時間があるのなら、単純にチーズのにおいを追いかけるのではなく、人の方を調べることもできるですよ? 食べるか触れるかしていれば、マイヤ、おそらくかぎ分けられるかと」
マイヤはそう提案しました。
グンターさんいわく、ここの旦那様奥様のお口にしか入らないものだそうですから、もしチーズのにおいのする使用人がいれば、犯人の可能性が高いということになります。
一人一人、近くによるとかお話しするとかしてにおいを確かめないといけないので、手間と時間はかかるのですけど。
「んー、においが誰かの部屋に続いたりしてれば話は簡単だったんだけどなあ。じゃあ、それでいこう。えっと、使用人は全部で一二人で……」
「エッダさんとグンターさんからは、においがしなかったです。あと、さっきのメイドさんも」
これで残りは九人。
「馬車の御者さんも除外でいいかな? 盗まれた時間帯は、旦那様のお供で外に居たはずだし。となると、八人調べれば――」
と、そこでエッダさんは思い出したようにぽんと手を打ちました。
「そうだ、そういやロラントさんとはもう顔合わせてるじゃない。彼はどうだったの? チーズのにおいした?」
「そ、それは、えっと、その……わからないのです。気にしてなかったので」
マイヤは申し訳ない気分で身を縮めます。
「チーズが盗まれたと聞いて、そのにおいを確認させてもらったのは、その後のことでしたから……」
たとえて言うなら、『さっきすれ違った人の胸ボタンは何色だった?』と後から訊かれるようなものでしょうか。
あらかじめそれが重要だとわかっていれば、注意して記憶に留めておくこともできたのですけど。
「もちろん、もう一度お話しすれば、確実にわかると思うです」
「ふーむ……わたしの感情は置いといて真面目に言うけど、やっぱりロラントさん、一番やりやすい立場だとは思うんだよね。広く雑用を任されてるからどこに居ても不思議じゃないし、何を持ち出しても目立たないだろうし。――ちょうどいいから、彼から始めよっか」
エッダさんは広い庭の片隅に視線を向けます。
そこには庭仕事をしているロラントさんの姿がありました。
「――ああ君たち、ちょっと止まって」
歩み寄るマイヤたちの姿を見かけたロラントさんは、片手を上げました。
「新しく木を植えるのに、穴掘ってるんだ。こっちの方に来ると危ないよ。――で、俺に何か用かい?」
エッダさんがちらりとマイヤを見たので、小さく首を横に振ります。
この距離だと、まだ正確にはわからないですね。
もう少し近寄りたいところですけど……
「どうするです?」
「んー、鎌掛けてみようか。――ねーロラントさん、ちょっとこっちに来てくれないかなー? 実は旦那様のものが盗まれちゃったから、犯人を探してるの」
鎌掛け……なのでしょうか。
すごくまっすぐに協力をお願いしているだけの気がするのですけど。
「……ここでロラントさんが『俺はチーズなんか盗ってないよ!』とか口を滑らせるかもしれないじゃん」
「あ、なるほど」
マイヤは感心します。
何が盗まれたかはまだ言っていないわけですからね。
うん、犯人なら引っ掛かるかも――
と、そこでロラントさんと目が合いました。
笑顔です。でも、また肌が粟立つような感覚。
「俺も容疑者ってことかな。犯人を捜すって、どうやって? 獣人の君が、においでもたどるってわけ?」
「そ、そうです」
マイヤは呑まれたようにうなずきました。
「エッダさんたちが困ってらしたので、マイヤ、お手伝いしているのです」
「ちなみにさ、マイヤちゃんの鼻って、どの程度の精度があるの?」
「え、えっと、物でも人でも、においが残っているなら、どこをどう動いたのかとか追跡していけるです」
少し考え、付け足します。
「条件にもよるですけど、だいたい一日二日くらいの間なら、かなり正確に」
「なるほど、つまり俺の体から盗まれた物のにおいがするかどうか確かめたい、と。あるいは俺のにおいを覚えれば、俺がどこをどう移動したのか追っていけたりもするわけだ」
相変わらず、愛想良く笑っているのですけど……うー、やっぱり、この方少し苦手かもしれないです。
ある意味、だんな様とは正反対ですね。
リーン様、お顔は常に不機嫌そうですけど、全然怖くないですから。
「そういうこと。におい、確かめさせてくれる?」
「いいよ」
あっさりとした返事に、え、とマイヤたちは目をまたたかせました。
「いいの? ほんとに?」
エッダさんが尋ねます。
「だって、ここで断ったら、どう考えても怪しいじゃないか。俺だって妙な疑いをかけられたくはないからね。どうぞ近寄って、においを確かめてくれよ」
ロラントさんはスコップを地面に突き刺し、降参するように両手を上げました。
やましいことは何一つないというわけでしょうか?
「ああ、二人とも足元に気を付けてね。穴に落ちないように」
マイヤたちはデコボコの地面に注意しながら、庭の奥へ足を進めます。
距離が縮まるに従い、少しずつロラントさんのにおいが強くなります。
(あ……)
そして突然、マイヤは雷に打たれたように理解しました。
マイヤがこの人を苦手な理由。
体臭に混ざって感じ取った、かすかなにおい。
深い深いところにこびりついて落ちなくなっている――血と死のにおい。
次の瞬間。
まるで魔法のような素早さでロラントさんは短剣を抜き、そしてマイヤとエッダさんの喉に向けて、二度閃かせました。




