55話 犬耳娘とチーズの行方(4)
「え? あ、あの……? マイヤ、何か変な事を言ってしまったです?」
三人分の視線を受け、マイヤは不安そうな表情を浮かべた。
「いや、ちょっと驚いただけだ。マイヤ、お前、そこまで正確ににおいを追っていけるものなのか?」
「は、はい。チーズなら種類ごとにかなり違いますし、まず間違えずにたどっていけるかと。人間族の方は、あんまりこういうことをされないのです? 他の種族の感覚って、よくわからないもので……」
「まあ、俺たちには不可能だな」
マイヤの嗅覚が優れているのはもちろん知っていたが、具体的にどこまでのことが可能なのかはちゃんと聞いたことがなかった。
そういえばこいつ、以前アデリナの店で食べた料理の香辛料をすべて判別してみせたことがあったな。
単に微弱なにおいを捉えるだけではなく、一つ一つをかぎ分ける能力も人間族のはるかに上を行くのだろう。
「ねね、たとえば、私がお昼に食べたものとか、わかるの?」
エッダが興味深そうな顔で身を乗り出した。
「えっと、焼いた鶏肉、たまねぎ、キャベツ、パン……あと、焼き菓子の香りが」
即座にマイヤは答えた。
「わ、すっごい。全部当たってる!」
「……昼飯に焼き菓子なんて出した覚えねえぞ。お前、買い物に出る前につまみ食いして行っただろ」
「あ」
やば、という顔で目を逸らすエッダ。
「い、いいじゃない。後でおやつに出てくるやつでしょ? ちょっと先取りさせてもらっただけだよ」
「なら、今日のお前の取り分はそれでしまいだ」
「えーそんなあ……」
「そんなあ、じゃねえよ。まさかとは思うが、エッダ、お前、旦那様のチーズを勝手に――」
「い、いやいやいや」
両手と首がぶんぶんと左右に振られる。
「いくらなんでも、旦那様の物に手を出したりしないって!」
「あの、エッダさんから、チーズのにおいはしなかったですよ?」
控えめな口調でマイヤが援護した。
「だ、だよね! だってわたし、チーズよりお菓子の方が好きだし!」
「自慢にも言い訳にもなってねえよ、バカ孫。――ま、犬耳の嬢ちゃんの鼻が確かであるのはわかった。大したもんだな」
「うん、すごいすごい!」
エッダは感心した様子で二度三度とうなずき、再び隣の祖父に視線を向けた。
「ね、じいちゃん、マイヤに協力してもらって、犯人見つけようよ」
「いや、しかしな……」
グンターは渋い表情で腕を組む。
「屋敷内のことに、よその人の手を煩わせるわけにいかんだろう」
「でも、旦那様のためのが盗まれるのは、わたしが使用人用のおやつをつまみ食いするのとは、重大さが違うよね? 今回は代わりのチーズが手に入ったからよかったけど、もし今後もこんなことが繰り返されたら、お叱りを受けるのは厨房の責任者であるじいちゃんなんでしょ? わたし、やだよそんなの」
「…………」
返答に窮したように頭をかくグンターを見、マイヤは俺に言った。
「あの、リーン様……マイヤ、エッダさんたちに協力してもいいですか? マイヤにできることがあれば、お力になりたいのです」
「お前がそうしたいなら、俺に止める理由はねえよ」
むしろ、喜ぶべきことだろう。自主性が出てきたのは成長の証だ。
「ただ、決定権を持ってるのは俺じゃないな。――どうする? グンターさん」
問い掛けると料理長は沈黙し、やがて小さく肩をすくめた。
「……そうだな。なら、手を貸してもらおうか」
「はい! お助けするです!」
マイヤは嬉しそうに微笑んだ。
俺たちはグンターに先導され、屋敷の食糧庫へと向かった。
まずは現場から、だ。
「ここだ。薄暗いうえに物が多いから、足元に注意してくれよ」
厨房や食糧庫の広さ自体は、俺の家とさほど変わらないだろう。
ただ暮らしている人数が違うので、当然ながら備蓄してある食材の量はこちらのほうが遥かに多い。
「旦那様奥様専用の高級な食材は、こっちの棚にまとめてある。チーズは――ここに置いていた」
グンターは棚の上段にぽっかりとあいた空間を指さした。
「今朝、一日分の食材を確認したときはまだあった。なくなったことに気付いたのは、昼飯と後片付けを終えたくらいだったかね」
「盗られたとしたらその間ってことだね。んで、わたしがお買い物に行かされて、マイヤに声をかけて、今に至るってわけ」
「……人のにおいは何種類もあるですね。すごくたくさん」
厨房と食料庫は使用人棟の一階にある。おそらく、屋敷の者なら誰でも簡単に出入りできるだろう。
「あの、棚のほう、確かめさせてもらってもいいです?」
マイヤはグンターがうなずくのを確認し、近寄って鼻をうごめかせた。
「旦那様はチーズがことのほかお好きでね。上質なのを厳選して、よくご夫妻の食事にお出しする。逆に言うとオレたちの口に入るような代物じゃないし、普段、使用人は手も触れねえ」
「だ、そうだ。行けそうか? マイヤ」
「は、はい。えっと、お部屋の出口の方にチーズのにおいが移動してるですから、犯人の人が持ち出したか、ここで食べて外へ出たんだと思うです」
後は実際に歩いてにおいを辿っていくことになるわけだ。
「んじゃ、任せた。首尾良く犯人を突き止めたら、戻ってこい」
「え? リーン様は一緒にいらっしゃらないのです?」
「俺みたいなのがよその屋敷うろついてたら、目立って仕方ないだろうが」
いくら客に寛容な家風だとはいえ、限度があるだろう。
俺の人相と人当たりの悪さは折り紙付きだ。
住人の皆様の不安を煽りたくはない。
「ま、その方が無難かもな。応接室ならともかく、見知らぬ男が建物の中を歩き回るのは、確かにどうかと思うぜ」
グンターは苦笑を浮かべつつ同意した。
「その点、嬢ちゃんならエッダの友達で通るだろう。――おい、エッダ、犬耳の嬢ちゃんについてってやれ」
「りょうかーい。じゃ、マイヤ、いこ! お屋敷案内してあげる!」
「はい!」
二人の少女は張りきった様子で食料庫を出て行く。
俺たち大人組は、応接室に戻って待つことにした。
「騒々しい孫ですまんね」
廊下を歩きながらグンターは口を開いた。
「あの嬢ちゃんも、うんざりしてないといいんだが」
「いや、うるさく構ってくるくらいでちょうどいいさ。マイヤも遠慮がちなところがあるからな」
もともと自己評価が低く、ややもすると『自分などが話しかけては相手に申し訳ない』などという、意味不明なまでに卑屈な思考に陥る娘である。
これでも、俺のもとに来た頃に比べればかなりマシになったのだが。
「エッダの奴、屋敷の連中との関係が悪いわけじゃないんだが……なんせ、越してきたばかりだから、同年代の友人がいなくてなあ。ときどきは遊び相手になってくれると嬉しい」
「ま、その辺はこちらとしても同感だ。やっぱり子供には対等な友達が必要だろうしな」
そう答えると、グンターは少し眉を上げて俺を見た。
「そういやお前さん、あの嬢ちゃんにずいぶん懐かれてるな。父親や兄貴ってわけじゃなさそうだが?」
「あー……あいつ、人竜戦争で両親を亡くしててね、ちょっとした縁があって、今は俺が面倒見てる」
「なるほど。世話焼きなんだな」
特にそんなことはないと思うが――しかし思い返してみると、確かに先ほどの会話は保護者同士が交わす種類のものであったかもしれない。
少し前は孤高の一人暮らしだったのだが、このところどうも所帯じみてきたような気がする。良いことなのか、悪いことなのか。
「軍人あがりってのは殺伐とした気風が抜けねえもんだし、実際、お前さんも優しげには見えねえが……なぜか、子供には好かれそうな雰囲気があるよな。不思議なもんだ」
応接室で茶を淹れ直しながら、グンターはそんなことを言った。
そうだろうか、と思い――そして、俺は小さく眉を寄せた。
「軍人上がりってのは、どこから判断したんだ?」
「おや、外れたかい?」
「軍属じゃないが、それに近い立場で戦場に出たことはある。なんでわかった?」
「体つき、というか、筋肉の付き方が戦う人間のそれだ。あと、どこか達観したような目をしてるからな。生き死にをたくさん見てると、そうなることが多い」
「……料理人になる前は、人相見でもやってたのか?」
「ま、似たようなものかもしれんな」
グンターは皺だらけの顔ににやりと笑みを浮かべて続けた。
「もともと、このペリファニアに酒場――自分の店を持ってたんだよ。色々な客を見てるうち、目の前の人間がどんな過去、どんな人生を送ってきたのか読み取れるようになってた。ほとんど勘みたいなもんだが、結構当たるんだ、これが」
長年鍛えた人間観察の賜物ってわけか。若造にはわからん世界だな。
「で、酒場の店主から、商人付きの料理人に転職?」
「んー、もうちっと複雑だな。要は年と竜と戦には勝てなかったってことだが」
店はそこそこ繁盛していたものの、膝や腰の具合に不安を覚えることが多くなり、数年前、店をたたんで田舎に住む息子夫婦の元で暮らすことを決めたのだという。
しかし、そこで例の人竜戦争が起こった。
「住んでた村がまともに巻き込まれちまってな。生き残ったのはオレと孫娘一人。で、途方に暮れてたところをここの旦那様に拾われ、料理人として働くことになった。作るのは決まった人数分だけだし、稼ぎに頭を悩ませる必要もねえし、店やってたころよりは楽だね」
ちなみに、ペリファニアへ越してきてから自分の店のあった辺りを見に行ったのだが、先日の赤竜襲来で見事な更地になっていたそうだ。
つくづく竜とは相性が悪いらしい、とグンターは笑った。
「災難だったな」
「災難だったさ。でも生きてりゃそういうこともある。お前さんだって、平坦な人生を歩んできたわけじゃなかろう?」
「……まあ、な」
「ゲルト様から仕事と居場所を与えてもらっただけ、オレとエッダは幸運なんだ。いちいち世の中を呪うより、今を一生懸命に生きるさ」
正しい姿勢だと思う。もちろん、口で言うほど容易なことではないだろうが。
俺は少し間を置いて考えを巡らせ、尋ねた。
「ここの主は、よくそうやって困ってる奴を拾ってくるのか?」
「うん? まあ、そうだな。一人一人について知ってるわけじゃねえが、人竜戦争の被災者を店員や使用人として積極的に雇用してはいるようだ。待遇も悪くねえし、雇い主としては上々の部類じゃねえかな」
「恩義を感じてる?」
「そりゃもちろん。敬愛できる方だ」
「違ってたら悪いんだが」
そう前置きして、俺は続けた。
「あんた、その敬愛すべき旦那様のものを盗み食いした犯人捜しに、そこまで乗り気じゃないように見えるんだよな」
「…………」
「もしかして――犯人の見当が付いてるんじゃねえか?」




