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54話 犬耳娘とチーズの行方(3)

 声を掛けてきたのは、二〇歳くらいの若い女だった。

 整った顔立ちをしているものの、化粧は派手め。

 表情からはやや驕慢で性格のきつそうな印象を覚える。


 使用人棟の方からやってきたように見えたが、その衣服は布地の上等さといい縫製や装飾の精緻さといい、明らかにメイドのものとは一線を画していた。


「あ、お、奥様……」


 エッダの背筋がびっと伸びた。


「ちょうどよかったわ、エッダ。衣装棚の整理をしたいの。夕方になったら部屋まで来てちょうだい」

「か、かしこまりました」

「お願いね」


 ひらひらと手を振って女は立ち去った。

 その姿が見えなくなるのを待って、俺は口を開く。


「奥様ってことは、あの馬車に乗ってた商人の結婚相手か?」

「そ、そう。ゲルト様の奥様。イレーネ様というの」


 歩みを再開させながら、ふう、とエッダは息を吐いた。


「びっくりしたあ。こんなところで顔を合わせるとは思わなかったよ。普段、裏庭や使用人棟の方には、あんまりいらっしゃらないんだけど」

「お若くてきれいな方でしたねえ」


 マイヤはのんきな声で感想を述べた。

 俺もそこは気になっていた。

 いや、妙な意味ではなく――旦那とはずいぶん年の差があるなと思ったのだ。


 あの小太りの商人は、おそらく三十代の半ばから後半。

 今の女は二〇歳そこそこだったから、少なく見積もっても一五歳くらいは離れているだろう。

 夫婦仲は良好なのだろうか? と、少し疑問を覚えたが、それを尋ねるのも詮索が過ぎる気がして、口に出すのは止めておいた。


「亡くなられた大旦那様は奥様のお父様で、今の旦那様は入り婿なのよね。その商才を評価して、大旦那様が部下だったゲルト様と娘のイレーネ様を結婚させたの」


 親に決められた婚姻関係というわけか。

 エッダはこちらを向いて話しながら、使用人棟の扉に手を掛けた。


「で、旦那様は当時ちょっと危なくなっていたお店をみるみるうちに立て直し、それだけじゃなくどんどん手を広げて、さらなる繁盛へと導いたんだけど――」


 と、突然、扉が内側から開かれた。


「はいはい、そこまでにしておこうね、エッダ。外の人にお家の事情をぺらぺら喋るものではないよ」

「あ、ロラントさん……」


 扉の内側から顔をのぞかせエッダをたしなめたのは、妙に朗らかな笑みを浮かべた青年だった。

 見たところ二〇歳を越えたかどうかというところ。

 ちょうど先ほどのイレーネ奥様と同じくらいの年齢だ。


 知り合いにもやたら笑顔の爽やかな男がいるが……こういう一点の曇りもないような表情は、かえって胡散臭く見える気がするな。

 偏屈で陰気な人間のひがみだろうか。


「応接室は空いてるから、自由に使うといいよ。でも、後片付けはしっかりとね。――んじゃ、ごゆっくりぃ、お客人」


 快活な、あるいはやや軽薄にも感じられる口調で俺たちに声を掛けると、男は裏庭の方へと立ち去った。


「…………」


 俺はしばらくその後ろ姿をじっと眺めていた。


「リーンさん? どうかした?」

「ああ、いや……今の男は?」

「下働きのロラントさん。便利屋さんみたいなもんで、お屋敷内外の雑用を色々任されてる」


 エッダの表情と声からは、あまり好意が感じられなかった。


「お前、あいつのこと嫌いなのか?」

「すっごい女たらしなのよ。メイドの中にも二股三股掛けられたり泣かされたりした人いるし。ああいうの、わたし、感心しないなー」


 大人びた口調で言って、エッダは腕を組む。


「あのエッダさん、女たらしって、どういう意味なのです?」


 マイヤは無邪気に問いかけた。


「色んな女の人と仲良くなることよ」

「仲良いのは、いいことなのではないですか?」

「えっと、一度にたくさんの女の人と親しくなるんだよ?」

「親しい方が増えるのは、楽しそうでいいなと思うですけど……」


 エッダは助けを求めるように、マイヤは答えを期待するように、俺の方を見た。


「あー……ま、まあ、あれだ。そういう話は、お前にはまだ早えよ」


 俺は逃げた。

 年頃になれば、マイヤにも自然に理解できるだろう、多分。


 そのまま俺たちは応接室に通された。

 それなりの広さがある室内、中央にがっしりした木のテーブルとイス。

 使用人専用ということだったが、かなりしっかりした造りになっており、ここの主人の気遣いがうかがえる。


「ちょっと待っててねー。お茶いれてくるから」


 そう言って部屋を出ていったエッダは、ほどなく一人の男を伴って戻ってきた。

 五〇過ぎ――いや、もしかしたらもう六〇近いかもしれない。

 八割方白くなった髪を短く刈り込んでおり、眉間に刻まれたしわがいかにも頑固そうな雰囲気を醸し出している。


「事情は孫から聞いたよ。あんたらがチーズを譲ってくれるんだって?」


 俺たちに茶を出しながら、男は言った。

 名はグンター。エッダの祖父で、この屋敷の料理長を務めているという。

 俺たちの方も簡単に自己紹介を済ませると、グンターは改めて口を開いた。


「まずは、孫が迷惑掛けてすまなかった。いきなり見ず知らずの人にチーズ寄越せとか交渉する時点で十分失礼だが、さらに払う金が無くて取引相手に余計な手間を掛けさせるとは……間抜けにもほどがあらあな」

「じいちゃん、自分の孫に厳しすぎー」


 不満そうにエッダが抗議する。


「孫だからこそ厳しくしてんだ。きっちり独り立ちできるよう育て上げねえと、オレはお前の両親に顔向けできねえだろうがよ」

「あなたの孫は愛情に飢えてまーす」

「財布を忘れず買い物に行ける程度に利口だったら、いくらでも愛してやんよ、バカ孫」


 なんだかんだで、仲は悪くなさそうに見えるな。


「別にいいさ。こっちは気にしちゃいない」


 俺の言葉に、こくこくとマイヤもうなずく。


「ありがたい言葉だが、甘やかすわけにもいかんよ。とはいえ、お客人の目の前で続ける話でもないか。――とりあえず、ものを確認させてもらっていいかい?」

「あ、はい、チーズですね。えっと、これなのです」


 手渡されたチーズを、グンターが品定めする。


「ふーむ、これはなかなか……。買い取るなら、金額はこんなもんかな」


 ちゃらちゃらと音をさせてグンターが銀貨を机の上に置くと、マイヤは目を丸くした。


「え、えっと、多過ぎなのですよ? マイヤが買ったときは、この半分より少ないくらいで……」

「取っとけよ。買い手のオレがその価値有りと判断したんだからさ。しかし……これをこの半額以下で売るところがあんのか。どこで買ったんだ?」

「知人の店だよ」


 肉はここ、野菜はあそこ、という具合に、アデリナは品目によって仕入れ先を変えている。

 『それぞれに得意分野があるもんだしね。でかい卸に一括注文すると楽だけど、一件一件取引するこっちのがいいものをお安く買えるんだよ』とのことだ。

 チーズや牛乳は、確かペリファニア郊外の農家から直接買ってると聞いた記憶があった。


「ふーん、知り合い価格だとしてもお買い得だな。馴染みのとこからこっちに乗り換えたいくらいだ。ともあれ、これで夕食にはどうにかチーズが出せるかね」

「量はあんまりないけど、それで足りるのか?」

「ま、何とかな」

「そいや奥様、旦那様をもっと減量させろっておっしゃてったよね。このくらいでちょうどいいのかも」


 俺はあの派手でお洒落な若奥様の姿を思い出した。

 やはり亭主が小太りでは体裁が悪いと感じるものなのだろうか。

 ま、よその家の事情に首を突っ込むつもりもないが。


「よかったな。お前のドジで、旦那様たちの好物が夕食に出ない、なんてことにならなくて」

「わたしだけのせいじゃないもん」


 言われたエッダはぷうと頬を膨らませる。


「そもそも誰が一番悪いかっていったらさ、チーズ盗んだ人でしょ?」

「え、盗まれたのです? 泥棒さんが入ったのですか?」


 マイヤは驚きの声を上げ、エッダはしまったというように口を押さえた。

 小さくため息をつき、グンターが肩をすくめた。


「……ま、そんなところだ。今日やられたてのほやほや。つっても被害はチーズだけだし、誰にも見咎められずに出入りするのは難しいだろうから、多分、屋敷内の誰かの盗み食いだな。身内の不祥事なんて、本来お客さんにぺらぺら話すようなこっちゃねえんだが」


 そう言って横目で孫娘を睨む。

 エッダの方は突然壁の汚れに興味を覚えた様子で、露骨に視線を逸らした。


「オレ自身、若い頃は貧乏だったんで食い物の大切さは身に染みてる。この家、使用人に対する待遇はいいから、飯には不自由してないはずなんだ。だからこそ、安易な気持ちで盗み食いなんてする野郎は許せねえ」


 とはいっても、とグンターは言葉を継いだ。


「雇われている以上、まずは自分の責務を果たさなきゃならんからな。怒るより、旦那様方の夕食の算段をつける方が優先だ。あんたたちがチーズ譲ってくれて助かったよ。改めて礼を言う」

「あ、あの、グンターさん」


 と、珍しくマイヤが自分から口を挟んだ。


「犯人は捕まえなくてよろしいのです?」

「そりゃまあ、いずれ可能ならとっ捕まえたいところだが、こういうのは現場を押さえないことにはどうにもならんしな」

「いえ、その……」


 マイヤは不思議そうに言った。


「何日か経っているならともかく、今日なら確実ににおいが残っているですよね? それをたどっていけば、普通にわかる気がするのですけど……調べたりは、されないのです?」

「いやいや、何言ってんだよ、嬢ちゃん。そんな真似ができるわけ――」


 そこで不意に言葉を切り、グンターはぴくぴく動く犬耳を見つめた。

 俺とエッダも、マイヤに視線を向ける。


 人間族をはるかに上回る嗅覚をそなえた狼犬族の少女は、きょとんとした顔で目を瞬かせた。

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