53話 犬耳娘とチーズの行方(2)
「――と、こういうことだったのですけど……」
「ふん」
マイヤの話を聞き終えた俺は、こころもち体を前傾させた。
「で、そいつを今、外に待たせている訳か」
「は、はい」
マイヤは少し不安そうな表情でうなずいた。
さて、どうしたものかな。
チーズを譲ること自体は別に構わないし、保護者として言えば、こいつの成長のために新しい交友関係だとか、親切心だとかを尊重してやりたいとも思う。
とはいえ、マイヤは基本的に人を疑うことを知らないので、たかられたり騙されたりしている可能性は一応考慮しておかないといけない。
「……そうだな。俺が直接話してみるか」
俺はゆっくりと長イスから立ち上がり、マイヤを伴って裏口に向かった。
少々面倒ではあるが、こういうのも責任のうちだろう。
「あ、どうだっ、た……?」
マイヤを見てぱっと顔を輝かせたメイド姿の娘が、俺に気付くとぎょっとしたように表情を強張らせ、一歩あとずさった。
やましいことがあるから、というわけでは別にないのだろう。多分。
自分の外見が他人に穏やかな印象を与えるものではないことを、俺はよく知っている。
つまりは、目つきが鋭く体全体から不機嫌そうなオーラを発散させた男が不意打ちでのっそり現れたら、誰だって後ずさりたくなるという話だ。
ただ、少女はそこで踏みとどまり、礼儀正しく膝を屈めて一礼した。
「あ、あの、わたし、エッダといいます! えっと、マイヤの上役の方ですか?」
「まあ、そんなところだ。リーンという」
俺は名乗りながら、目の前の少女を観察した。
見た感じ、十代前半から半ば。
短めの髪。活発そうな顔つきに、良く動く大きな目。
「おおよその事情はマイヤから聞いた。チーズを譲って欲しいって?」
「は、はい。あの、旦那様と奥様のための高級なチーズが足りなくなってしまって。うちのじいちゃん――いえ、えっと、料理長に買いに行かされたんです。でも、市場にはいいのがなくて、その、見ず知らずの人にいきなり頼むのもどうかと思ったんだけど、言いつけを果たせないとものすごく怒られるし……」
しどろもどろであまり要領を得ないが、一応誠意を持って事情を説明しようと努力はしている様子。
どう見ても直情径行型で、他人を騙したり利用するような性格だとは思えなかった。
ま、俺も別に人を見る目に自信のあるわけじゃないが、少なくとも悪意を持ってマイヤに近づいたわけではなさそうだ。
「あ、あの……もし、信用できないということであれば、こっちのお屋敷にいらっしゃいます? ここから遠くないし、じいちゃ、じゃない、料理長と直接話してもらえますし」
「別にチーズくらいで、そこまでの信用を求めてるわけじゃないがな。ただ、これがその料理長のお眼鏡に適うとは限らねえだろ。その場合はどうなるんだ?」
少なくとも俺にとっては折り紙付きの美味だが、その料理長がどういうものを求めているのかはわからないのだ。
作ろうとしている料理によって合う合わないもあるだろうし。
「えっと、その場合は……わたしが怒られます」
「…………」
そりゃまあ、そうなるだろうが。
「あ、いえ、譲っていただいたら、あとはもうわたしたちの方の問題ですので、返品させろとか、お金返せとかいうことはありませんから! はい!」
エッダが力を込めてうなずき、マイヤは何か言いたげな顔でちらりと俺を見上げた。
俺は一つ肩をすくめると、口を開いた。
「いいよ、譲ってやる。――マイヤ、渡してやれ」
「ほんとうですか! ありがとうございます! あの、それでお代は……?」
「必要ねえよ。細々したやりとりするのも面倒だしな」
「い、いやいや! そういうわけには! もともとチーズを買うお金は預かってきてますから――」
そしてごそごそと買物カゴの中を探る。
ま、アデリナの店は安くて美味いのが身上だ。
ちゃんと代金を払うというなら別に拒む気もないが、この娘の小遣い以上の額を受け取るつもりもなかった。
と、そのとき、エッダがぴたりと手を止める。
そして視線を上げ、俺たちの方を見た。
「……あの」
「何だよ」
「どうもお財布、お屋敷に忘れてきたみたいで……」
エッダは気まずそうにえへへと笑い、俺とマイヤは思わず顔を見合わせた。
◆◇◆◇◆
「こめんね、付き合わせちゃって! えっとね、街の南側で、ここから歩いてすぐだから!」
結局、俺たちはエッダに同行して彼女の務める屋敷へと向かうことになった。
支払いは後日で構わなかったし、いっそタダでもよかったのだが、それはエッダが頑として拒否したのである。
――売る側に立つ際も買う側に立つ際も、後払いは極力避けるべし。無料はさらに避けるべし。
というのが、主の方針なのだという。
わからなくもない。金のやりとりを避けるってのは、大抵の場合、代わりに無形の何かをやりとりしなきゃならなくなるってことだからだ。
例えば信用であったり、心理的な貸し借りの感覚であったり。
で、ちゃんと支払うからお屋敷まで来てほしい、とエッダは言い張った。
『よそのお屋敷』に興味を覚えたらしく、マイヤが行きたそうにそわそわしていたが、一人で知らない家に遣るのも少し不安だし……というわけで、俺もついていくことに決めたわけである。
「それにしても……」
三人でのんびり歩く道すがら、エッダは俺の格好をみて小首を傾げた。
「執事さん、って感じじゃないよね、リーンさんって。庭師さんか何か?」
口調からはすでに敬語が外れている。
馴れ馴れしいと言えば馴れ馴れしいが、別に不快ではなかった。
人懐こい性格なのだろう。
「使用人としての役職は、特に決まってねえよ」
口を開き掛けたマイヤを目で制して、俺はそう答えた。
「必要があれば何でもやる。屋敷には俺とマイヤの二人しかいないからな」
まあ、嘘ではない。
マイヤの主にして竜殺しの英雄〝千竜殺〟リーンハルト・イェリングだ――などと全てを明かす気がないだけである。
『竜殺しの英雄』はあまりにも知られすぎているのだ。
「へー、使用人がたった二人なんだ。そちらの旦那様はおおらかなのね。何をしている方?」
「今は特に何も。昔、一財産作ったんで、一日中ゴロゴロしてるよ。そっちは商人だそうだな?」
「うん。ペリファニアでのお仕事に集中するから、当分この街に滞在するみたい」
「あの、エッダさんのだんな様は、どんなものを売っておられるのです?」
マイヤが尋ねた。
「んー、商いのことは詳しくわからないけど……自分でものを売るというより、売ってる人たちの元締めみたいな感じ。市場の取りまとめとか、そういう立場?」
なるほど、貪欲で目端の利く人間なんだろうな、という印象を抱いた。
もちろん、悪い意味ではない。商人は利益を挙げるのが仕事だ。
もともとこのペリファニアは商業都市として知られていた。
先日の赤竜襲来は大きな打撃ではあったが、商人たちにとっては勢力図を書き換える好機であるともいえる。
市場や街道運送の復興に貢献して名を売れば、長期的には利益を拡大することも可能なはずだ。
「へえ、すごく立派な方なのですねー」
マイヤはの方は素直に感心していた。
そこで、ふと俺は疑問を抱いた。
「そういや、そんな大商人が、なんでチーズになんかに不自由してんだ?」
う、とエッダは言葉に詰まった。視線が泳ぐ。
「それは、えっと、そ、その……あ、ほら、見えてきたよ! あれがエッダのお勤めしてるお屋敷!」
かなり露骨に話をはぐらかされたな。
まあ別に、どうしても知りたいってほどのことでもねえんだが。
エッダに続いて屋敷へ続く道を折れようとしたとき、向こうから馬車がやってきた。
俺たちは端によけて場所を譲る。
身なりの良い御者が身振りで謝意を伝え、ゆっくりと馬車は遠ざかった。
中に三十半ばくらいだろうか、小太りの男が乗っているのがちらりと見えた。
「今のゲルト様、えっと、私のところの旦那様だ。またお出かけなのね」
「お忙しい方なのですね」
「うん、毎日打ち合わせとか商談とか、大変そう」
「あの……エッダさん、マイヤたちが本当にうかがっても大丈夫なのです?」
少し心配そうにマイヤが言った。
「おじゃまになったりしないですか?」
「ああ、へーきへーき。忙しいのは旦那様であって、わたしたちじゃないもの」
エッダは軽い口調で請け合った。
「それに、これも旦那様の方針で、人と人との繋がりは財産だからどんどん交流を広めなさいって言われてるんだ。だからお屋敷にも、使用人がお客さんをよんでもてなすための応接室があるんだよ」
さすがに商人らしいものの考え方と言うべきか。
俺たちはエッダに案内されて裏門の方に回り、そこから敷地内に入った。
真新しく、瀟洒な邸宅である。
俺の屋敷は元々皇族の別邸だったのを譲ってもらったものなので、単純な大きさや作りの派手さという点では負けていないが、見栄えのよさであればこちらに軍配が上がるだろう。
なんせ我が家はほとんど丸一年手入れをサボっていたのだから。
「あれが旦那様たちが暮らす母屋で、こっちが使用人棟。さっき言った応接室と、あたしたちが寝起きする部屋と、厨房があって――」
と、そのときエッダの説明を遮るように、声が響いた。
「お客様なの? エッダ」




