51話 師との出会い
「ね、ねえ、兄ちゃん」
隣を歩くヨハンが、見るからに不安げな顔で口を開いた。
「なんだよ」
「やっぱり道まちがえたんじゃないかなあ。引き返したほうがよくない? リーザもつかれてきたみたいだし……」
俺たちは背後を振り返る。
俺たちのあとをついてくる妹はもはや不満を表明する元気も残っていない様子で、ただぐすぐすと鼻をすするばかりだった。
「引き返したとしても、そっちが正しい方向だとは限らないだろ? 逆にこのまま歩けば、すぐに森をぬけられるかもしれないじゃないか」
「それは……そうなんだけど」
「だいじょうぶだよ、ヨハン。リーザも泣くな、兄ちゃんを信じろ」
俺は努力して微笑を浮かべつつ、そう言った。
もちろん根拠なんて持っていなかった。
木々にさえぎられて視界の通らない深い森。
草深く歩きにくい足元。
太陽の位置すら確認できず、現在の進路が正しいのかどうかも判断しようがない。
弟の不安はまったくもって正当なものだと思う。
しかし、俺がそれを口に出して認めてしまうと、幼い弟妹はもう歩けなくなってしまうだろう。
「さあ、あと少しがんばろうぜ。森から出られれば、もう家は目の前だ」
俺は空元気を発揮し、そう続けるしかなかった。
三人兄妹の一番上だった俺は、弟妹の世話を押しつけられることが多かった。
とはいえ、そのあいだどこで何をするかの決定権は俺にあったので、そこまで面倒に思っていたわけではない。
兄弟仲も悪くなかった。
腕白坊主だった俺は二人を連れて街中を縦横無尽に遊び回り、ときには街の外にまで探検に出たりしたものだ。
ただ、この日は調子に乗って街の外まで遠出をし、それが裏目に出てしまった。
帰途にかかる時間を計算に入れず、うっかり遊びほうけてしまったのである。
俺の家において門限は日没までと定められており、刻限を過ぎると母親が激怒する。
それは俺たち兄弟にとって、何より恐れるべきことだった。
街までは一本道。
緩やかな弧を描く街道に沿って行けば迷子になることもなく辿り着くが、それではどう考えても日が沈むまでに帰れない。
おそらく、というか、間違いなく一番怒られるのは長兄の俺だろう。
幼い弟妹を巻き込んで遠くまで足を伸ばし、あげく門限を守れなかったとなれば、それも当然の報いなのだが……当時ほんの十歳だった俺は、どうやって母親のカミナリを回避するかということで頭がいっぱいになっていた。
なので、まっすぐ森をつっきって近道することを決断したのである。
街道は歩きやすいが、曲線である以上、最短距離とはいえない。
少しでも時間を短縮したかったのだ。
最初、ヨハンとリーザは反対した。
大人たちは子供が森に近づくことを固く禁じていたからである。
あとで聞いた話だが、過去に何度か迷子が出て大騒ぎになったことがあり、また熊や猪がときどき目撃されていたため、街として完全に立ち入り禁止にすべきだという意見もあるほどだったそうだ。
もちろん俺はそんな事情など知らず、怖気づいて従おうとしない弟妹に苛立ち、愚かにも年長者としての強権を発動させた。
「もう決めた。それしかないんだよ。じゃあ何か? お前ら、母さんに怒られるほうがいいってのか?」
俺が言うと、二人ともそれ以上逆らおうとはしなかった。
森に入ったとしても、黙っていれば露見しない。
一方、このまま門限に間にあわなかった場合、その事実はどう頑張ってもごまかしようがないだろう。
俺たちは森に踏み入った。
そして見事に迷ってしまったというわけである。
(くっそ、やっぱりやめときゃよかったかなあ……)
足の感覚がない。腹も減ってきた。
弟たちの手前もあって強がっていたが、正直なところ俺も泣きたい気分だった。
叱られるのは確かに怖い。
でも、いつこの状況から抜け出せるのかという先の見えない不安に比べれば、何ほどのこともなかった。
誰か街の大人が、薬草や山菜採りに来ていたりはしないだろうか?
そうしたら、出口までの道を教えてもらえるかもしれない。
と、そんなことを思ったとき。
不意に横手の茂みがガサガサと揺れた。
俺たちは驚きつつもわずかな期待を込めて、そちらに視線を向けた。
黒い影が立ち上がった。
その姿は俺たちよりずっと大きく力強かった。
ただし残念なことに――それは頼りになる大人などではなかった。
「くま、さん?」
リーザが呆然と呟いた。
妹の分析は正しかった。
巨大な灰色熊が、食料や玩具を品定めする目で俺たちを見ていたのだ。
「……ヨハン、リーザ、二人とも熊に背中を向けるな。ゆっくりと後ろ向きに下がれ」
恐慌に陥らずそう指示できたのは、我ながら上出来だった。
熊と出会ったときは、焦って逃げてはならないと教わっている。
本能的に追いかけてくるのだそうだ。
もちろん怖い。心臓がバクバクしている。
しかし俺が平静を失えば、全員まとめて熊のエサだろう。
俺は兄だ。一番の年長者だ。
せめて弟たちは護らなければという責任感が、かろうじて俺を支えていた。
こちらの人数を警戒してか、すぐに襲いかかってくる様子はなさそうだ。
しかし、立ち去る素振りもまた見せない。
俺は恐怖に固まっていたリーザを抱き上げ、祈るような気持ちでゆっくりと後ずさる。
ヨハンもひきつった顔で、俺に続いた。
しかし、緊張と動揺のあまり、弟は足元への注意を怠っていた。
木の根に足を取られ、あ、と小さく声を上げで仰向けに転んだのである。
その瞬間、ヨハンの中で気持ちが切れた。
「う……わああああああああああああああああああああああああ!!!!!」
悲鳴を上げながら背中を向けて駆け出す。制止する暇もなかった。
同時に熊が姿勢を低くした。
まずい、と俺は思った。
今この瞬間、俺たちは狩られるべき獲物と認識されたのだ。
おそらくは俺たちのうちの誰かが、あるいは全員が、死ぬことになる。
俺は反射的にリーザを突き放し、熊の正面に立ちはだかった。
注意を引いて、少しでも時間を稼がなければ。
そのときだった。
「――――!?」
俺は思わず動きを止めていた。
森のさらの奥、暗闇のなかで何かが光ったような気がした。
もっと正確に言うと、光の帯のようなものが伸びてきて熊の身体を通過したように感じられたのだ。
同時に熊も停止する。
と、見る間に、その巨大な胴体が肩から腰にかけて斜めにずれ、二つの肉塊となって地面に落ちた。
何が起こったのかわからず立ち尽くす俺たち三人の前に、ゆっくりと痩身の人影が歩み寄ってきた。
片手に細身の剣をさげている。
「殺生は好まないのだが……さすがに見過ごすせなかった。すまんな」
熊の死体に向かってそう声を掛けると、人影は俺たちに向き直った。
「怪我は――なさそうか。しかし、危ないから森には近づくなと教わっていないのか? 無謀な子供たちだな」
声で女性だとわかった。大人だろうけど、多分まだ若い。
「あ、あの、俺たち……」
女の人は煩わしそうに手を振り、俺の声を遮った。
「礼も言い訳もいい。森の出口までは案内してやろう。ついてこい」
結局、俺たちが家に帰ったのはすっかり日が落ちてからのことだった。
もちろんこっぴどく叱られ、事情を聞かれた。
後日、大人たちは森に入ったが、それらしき女も熊の死体も見つからなかったようだ。
なんせ、子供のいうことである。
広大な森の中で記憶があやふやになっているか、でなければ疲労と混乱で幻でも見たのだろうということで、皆が納得した。
そして二度と森には近づかないようきつく言われ、この話は終わった。
――俺以外の人間にとっては。
「……森に立ち入るべきではないと学習しなかったのか、君は」
女の人は呆れたような口調で言った。
俺は一人で森に向かい、大声で彼女に向かって呼びかけたのだ。
話があるから姿を見せてくれ、と。
彼女がまだここに留まっていると確信していたわけではない。
俺としては少々分の悪い賭けのつもりだったのだが――乏しい語彙が底を突き、出てきてくれるまで帰らないからなと繰り返し始めたあたりで、彼女は根負けした表情とともに姿を現したのである。
「よかった、おばさんを探してたんだ」
「お姉さん」
彼女は静かに訂正した。
「お姉さんを探していたんだ」
俺は素直に言い直した。
逆らうべきではなさそうな気配を察知したのだ。
とはいえ実際、彼女は俺の母親や、近所のおばさんたちよりはかなり若く見えた。
ほっそりとしていて背が高い。
飾り気のない服。頭に布を巻き付けている。
その隙間からのぞく髪と、アーモンドのような大きな目は夜空の色をしていた。
「お姉さんは旅人なの?」
「旅人だよ。気が向くまま、あちこちを旅してる。人混みが嫌いなんで、街中で宿をとったりはしないがね。――で、私に何か用か? 少年」
「うん! あの熊を倒した技、教えてほしい!」
「やめておけ。誰にでも使いこなせるようなものではない」
彼女は素っ気なく言った。
「そもそもあんなもの、学んでどうするのだ? 読み書きや算術でもやった方が、よっぽど君の人生の役に立つと思うが」
「ど、どうするのだって言われると……」
予期せぬ問いを投げかけられ、俺はうーんとうなった。
ずっと後になって、このときの俺自身の心情について考えてみたことがある。
衝動的で子供っぽい行動だったのは否めない。
ただ、その動機は気まぐれや、単なる力へのあこがれではなかった。
森の中で迷ったあの日、家に帰り着いた俺が覚えたのは、安堵でも叱責への恐怖でもなく、強い後悔と羞恥だった。
おそらく俺は、俺自身を許せなかったのだ。
ミスとくだらない意地と力不足によって、弟妹を危険にさらしてしまった。
だから、二度とあんなことを起こさないよう、何かを変える必要があった。
もちろん、このときの俺はそんなことを正確に言語化できるほど大人ではない。
なので、感情を簡潔に伝えた。
「俺は一番年上なんだ。だから最強になって、弟と妹を護らないと」
「……ふーん」
彼女は少しだけ表情を和らげた。
「護る、か。その考えは悪くない。だが、勁を扱うには向き不向きがあるからな」
「けい……というのが、あの光の帯みたいなのの名前なの?」
俺が言うと、今度は驚いたように目を見張る。
「あれが見えた、のか? ふむ……」
驚いたようにそう言うとしばらく考え、彼女はまた口を開いた。
「ミナヅキ」
耳慣れない響きの言葉だった。
戸惑う俺に、彼女は小さく肩をすくめた。
「わたしの名前だ。少年、君は?」
「あ、えっと、リーンだよ。リーンハルト・イェリング!」
俺は元気よくそう名乗った。
◆◇◆◇◆
――懐かしい夢だな、と思った。
うたたねから覚めると、そこには見慣れた広間の景色が広がっている。
窓からは穏やかな春の日差し。
無意識のうちに酒瓶を求めて伸ばした手が、空を切った。
「……っと、そういや禁酒したんだっけな」
俺は小さくため息をつき、胸――心臓の上をそっと押さえた。
このふた月ほどは病状が落ち着いている。発作も起きていなかった。
若干心を入れ替えて規則正しく改めた生活のおかげなのか、それともたまたまなのかはわからないが、まあ悪い話ではない。
と、そこで屋敷の中がやけに静かなことに気が付いた。
このところすっかり口うるさくなり、俺の健康推進係と化しているメイドの姿が見あたらないようだ。
(買い出しの時間だっけか)
ふん、と鼻を鳴らし、俺は長イスの背もたれに体重を預けた。
マイヤがやって来たことで、良くも悪くも俺の身辺は激変した。
居れば居たで騒々しい奴だが、話し相手がいないというのも退屈なものだな。
などと、そんなことを考えたとき、声が聞こえた。
「ただいま、戻りましたー」
そして荷物を抱えた少女が広間に姿を見せた。
一二歳という年齢にしては幼い顔立ち。
メイド服に犬耳にふさふさの尻尾。
現在この屋敷唯一の使用人であるマイヤである。
俺はご苦労――と口を開きかけ、そして一つ目を瞬かせた。
普段は屈託なくニコニコしているマイヤが、困惑したような、何とも形容しがたい複雑な表情を浮かべていたのだ。
「何かあったのか?」
「えっと、何というか……はい、あの、だんな様に、少しご相談があるのですけど……」
どう説明したものか、と考える様子でマイヤは続けた。
「そのう、買ってきたチーズの処置についてなのです」
「……チーズ?」
俺は眉を上げて聞き返した。
「わかるように説明しろ」
「は、はい」
マイヤはたどたどしい口調で話し始めた。
長らくお待たせしました。再開です。
ゆるゆるマイペースでやっていこうかなと。
活動報告の方にも書きましたが、書籍化の詳細決定しました。
2017年7月25日、オーバーラップ文庫より1巻発売です。




