50話 英雄と犬耳娘(3)
◆◇◆◇◆
粘つく泥の中を、俺は沈んでいく。
ゆっくりと、だが確実に。
深い深い底を目指しつつ。
幼いころに川で溺れ、母親によって助け出されたという経験がある。
伸ばされた手に必死の思いですがりついたのを覚えている。
しかし、今の俺は一人。
手をさしのべてくれる誰かは、もう存在しない。
存在しない。
存在しない。
存在しない。
存在しない……はずだった。
突然、黒い汚泥を割って手が伸びてきた。
いつかの母親のように、俺を助けようとする強い強い意志を伴って。
生きることなどとっくに諦めていたつもりだったのに、思わずそれをつかんでしまったのは、なぜだろう。
懐かしかったのか。
あるいは、無くしてしまった何かを取り戻したかったのか。
俺は一直線に上へ上へと引きあげられ、すぐに輝く世界へと放り出された。
眩さに視界が塗りつぶされる。
母さんではない、しかし母さんに似た誰かが俺を抱きしめ、泣き、そして笑う。
◆◇◆◇◆
どうやらうたた寝していたようだった。
夢を見ていた。
一月ほど前、街を襲った赤竜を倒した後、発作を起こして死にかけたときの夢だ。
「――母さん、か」
かつて、俺の周囲には両親や兄弟や友人たちがいた。
手を伸ばせば、いつでも人の暖かさに触れることができた。
誰かの手を取ること。誰かに手を取ってもらうこと。
当時は当たり前だったそれが、決して当たり前ではない幸福だと知ったのは、竜によってすべてを失ってからのこと。
俺には竜を殺す力があった。
実際に数え切れないほど殺しもした。
でも、そんなもので欠落を埋めることはできなかった。
多少なりとも、その役目を果たしてくれたものがあったとすれば――
「…………」
と、そこで俺は思考を中断し、小さく眉をひそめた。
至近距離に顔があることに気付いたのだ。
「はわっ!?」
犬耳の少女は大きく跳び退った。
「お、お目覚めでしたか! お、おはようございます、です」
「……帰ってたのか」
「は、はい」
マイヤはこくこくとうなずく。
「そ、そのですね、買い物から戻ったら、だんな様が横たわっておいでだったので、また発作が起こったのかと……。穏やかに眠っておられたので、すぐ違うとわかったですが、えっと、あの、今度はそのまま見とれてしまったというか、なぜだかずっと見ていたい気分になったというか……」
耳を伏せ顔を赤くしながら、早口で言う。
「何でそんなに言い訳がましいんだ。別に怒ってるわけじゃねえよ」
俺はゆっくりと起き上がり、両腕を上に伸ばした。
鉛を流し込まれたように頭が重い。夢見が悪かったせいか。
「さっきまでレオの野郎の相手してたから、ちっと疲れただけだ。それに……約束しただろ? 具合が悪くなりそうな気配があったら、今度はちゃんと言うって」
一月前、あの発作から数日が経過して容態が落ちつくころ――俺はマイヤからこっぴどく叱られていた。
マイヤやレオに宛てた遺書を発見され、自分の死期を悟りながら黙って逝こうとしていたことがばれてしまったのである。
『自分の死を肯定するな。それはお前にかかわったすべての人に対する侮辱だ――そうおっしゃったのはどなただったか、覚えておいでです?』
その目に涙と真剣な怒りを浮かべながらマイヤは言った。
『生きるのを諦めてしまったマイヤのことを怒ったのに、リーン様ご自身はあっさり諦めておられました。それは、それはとってもずるいことではないのですか!?』
一言もない。
確かに俺はあのとき、残される側の心情をあえて無視した。
悩まなかったわけではないし、マイヤの今後についてもちゃんと考慮しておいたつもりだが……一方で、そんなのは言い訳でしかなく、やっぱり俺は逃げたかっただけなのかな、とも思う。
結局、事実として残ったのは、自分でマイヤに説いたことすら守れなかった俺が、俺の教えを忠実に実行したマイヤによって救われた、ということだけ。
で、『今後、体調について一切隠し事はしない』と誓わされたのである。
「はい。あのお約束の通り、隠しごとはナシでお願いするですね」
そう言い、マイヤは申し訳なさそうに視線を落とした。
「あ、あの、えらそうなこと言って、すみませんです。でも、やっぱりだんな様のことが心配なのです。どこにいても、マイヤはずっとだんな様のことを考えてしまって、頭から離れなくて……」
心配しすぎだ――と言いたいところだが、身から出た錆ではある。
まあ、譲歩すべきなのはこちらだろう。
「ご要望にはお応えするさ。命を救われたというでかい借りがあるしな」
「か、借りだなんて、とんでもないです!」
マイヤは顔を跳ね上げ、ぶんぶんと首を振る。
「マイヤがいただいたものに比べれば、十分の一もお返しできていないのです! あ、けど……あの、要望といえば、もう一つ約束があったのを覚えておられるですか? マイヤに勁の使い方を教えていただけるという」
「ああ、確かにそんなことを言ったな」
「それを、叶えていただけないでしょうか? だんな様がまた発作で倒れられたときに備えて、ちゃんと身につけておきたいのです」
一度止まった俺の心臓を再び動かしたのは、マイヤが見様見真似で打ち込んだ勁の一撃。
もちろん忘れていたわけではない。ただ――
俺は首筋をかき、少し迷ってから、結局言ってしまうことにした。
「そうだな。ああいうとき勁で衝撃を与えるってのは、確かに一つの手段だ。ただ俺の状態も併せて考えると、確実な特効薬にはなりえない。おそらく次は、もっと蘇生の確率が下がる」
俺にとっても楽しい話題ではないが、避けて通るわけにもいかないだろう。
「つまり、だ。お前がどんなに苦労して勁功を身に着けても、お前の目の前で俺は死ぬかもしれない。――いいか? 諦めるのでも投げ出すのでもなく、単なる事実として言うぞ?」
俺はゆっくりと、一言一言を区切るように口にした。
「人は、死に打ち勝つことが、できない」
「…………!」
マイヤが息を呑んだのがわかった。
「俺も、いつか必ず負けるんだ。それは明日かもしれないし、十年後かもしれないし、もっと先かもしれない。言い換えると、お前の努力が無意味に終わる可能性は、常に存在するってことだ。それに、もし仮にその努力が最大限に効果を挙げたとしても……それでも俺は、おそらくお前よりかなり早く逝くことになる」
まっすぐにマイヤを見据え、俺は続ける。
「勁を教えるのは構わねえよ。でも、お前はそんな結果を全て受け入れられるのか? それでもいいと自信を持って言えるか?」
即座には答えられず、マイヤは胸を刃物で抉られたような表情を浮かべていた。
俺はそれ以上促さずに、ただ待つ。
ややあって、その口からぽつりと言葉がもれた。
「だんな様は、いじわるです」
「…………」
「いいわけないのです。それはとても辛くて悲しいことで、そ、想像するだけで、マイヤは、な、泣きたくなるのですよ……?」
言葉にするうちに、本当に涙があふれてきたらしい。
隠そうとして隠しきれず、マイヤは横を向いて鼻をすすり、ぐしぐしと目をこすった。
心の準備をしていた展開にもかかわらず、俺は内心でうろたえた。
これだから子供は苦手なのだ。
竜より対処が難しく、どうすればいいのかわからなくなる。
しかし俺が何か言うより先に、マイヤは再び口を開いた。
「ですけど……ですけど、ええ、その覚悟ならとっくに」
まだ涙で濡れてはいたものの、その目には確固とした意志の光があった。
「だって、無駄に終わるかもしれないというのは、努力をしないでいい理由にはならないですから。あのですね、これはマイヤがおバカさんなりに色々悩んだ結果、思ったことなのですけど……」
マイヤはかすかに笑い、言う。
「負けることと、諦めてしまうことは、きっと同じではないのですよ」
いつの間にか声からは震えが消え、信念に支えられた力強さが現われていた。
「勝ち負けは、どうにもならない場合があるです。マイヤが竜に勝てなかったように。だんな様が、死には勝てないとおっしゃるように。でも――諦めるか諦めないかは、自分で決められるはずなのです」
俺は軽く目を見張る。
少し臆病なだけで、利発な子だとは思っていた。
しかし、俺はまだマイヤを甘く見積もっていたのかもしれない。
「マイヤはだんな様に大きなご恩があるですから、その、いつかくる『終わり』のことを考えると、とっても悲しいのですけど……でも、だからこそ、自分にできることを全部やりたいと思うのです。勁のおけいこも含めて」
「仮に俺自身が諦めてしまっても、か?」
意地の悪さを自覚しつつ、俺は尋ねた。
「元々だらしなくて意志の弱い人間だぞ、俺は。ある日突然、すべてを投げ出して、死んでしまうかもしれない」
「そ、それは、困りますし、怒りますし、泣くですけど……」
マイヤは返答に詰まって、うーんと唸った。
ここで『だんな様も諦めず、絶対に自ら死を選ばないでください』とでも言えれば、まあその成長に合格点をやれるだろう。
こいつはもっと自分の望みに忠実になってもいいはずなのだ。
だが、マイヤの口から出た言葉は、俺の予想とは少し異なっていた。
「マイヤは――『諦めないで、死なないで』とは言えないのです」
「……なぜ?」
「マイヤの気持ちはすでにお伝えしましたし、それでもなお、生きるのをやめるとおっしゃるなら……その悩みも苦しみも決定も、だんな様のものですから」
やっぱりずるいとは思うですけど、とマイヤはため息をついた。
「ふーん、お前はそれでいいのか」
「いえ、あの、さっきも言いましたけど、全然よくはないのですよ? ですから、えっと、そのかわり……一つだけ、お願いを許していただきたいのです」
「言ってみろよ」
はい、と、うなずくと、マイヤは心を落ち着けるように深呼吸し、幼い顔に毅然とした表情を浮かべ、口を開いた。
「どんな選択、どんな結末であっても――それを最期の瞬間までマイヤに見せてください。だんな様、リーンハルト・イェリング様がどんな人間で、どう生きたのか、マイヤが心に刻み込めるように」
「…………」
ああ、そうか。
お前は、そんな強さをまだ隠し持っていたのか。
そのときの俺の心情を、どう表現すればいいだろう。
意表を突かれた? あっけにとられた?
近い気はするが――少し違うようでもある。
「は――」
嬉しくて、同時になぜかおかしくて、いつしか俺は笑みを浮かべていた。
「は、はは、ははは、あはははははははは!」
そしてすぐに含み笑いへ、そして哄笑へと変化する。
「だ、だんな様……!?」
マイヤはうろたえたように声を上げた。
何か自分がまずいことを口走ってしまったのかと焦っているようだった。
そうじゃねえよ、マイヤ。
俺は久々にいい気分なんだ。
こんな高揚感は、一月前ぶっ倒れてから――いや、五年前、竜によって何もかも失ってから、初めてかもしれない。
「あー、なるほど、なあ。そうくるか」
ようやく笑いを収め、俺は言った。
「わかった。好きにするといい」
「あ、ありがとうございます、です」
まだ戸惑った様子ながら、マイヤはぺこりと頭を下げた。
「しかしあれだな、お前、意外といい女になる素質があるのかもな」
「いいおん……?」
マイヤはきょとんとした顔で目を二、三度と瞬かせ、そしてふえっ!?と奇声を上げて真っ赤になった。
俺は英雄であるべきだ――とレオは言う。
俺がどう生きたのか心に刻み込む――とマイヤは言う。
馬鹿馬鹿しい。二人とも、俺を不当に高く評価しすぎなのだ。
俺はただの竜殺し。
勇敢でもないし、真の意味で強いわけでもない。
正義感にあふれているわけでも、高潔でもない。
でも、まあ……マイヤのために、最後の最後までみっともなく足掻き続けるくらいのことは、してみてもいいだろう。
「……少し喉が渇いたな。マイヤ、何か暖かい飲み物を持ってきてくれ」
「え? あ、は、はい! 少々お待ちください!」
ぱたぱたとマイヤが駆けていくと、俺は頬杖をついて軽く目を閉じた。
ちゃんと生きると決めたのであれば、マイヤについて、俺自身について、考えるべきことはいくつもある。
特にマイヤに勁を教えるなら、しっかりと方針を定め、慎重に計画を組まなければならない。
あの才能を生かすも殺すも俺にかかっているのだ。
程なくマイヤがトレイを持って戻ってきた。
「この間、アデリナさんにおいしいお茶の淹れかたを習ったのです。うまくできているのいいのですけど……」
「そういや、あいつらの様子はどうだった?」
「怪我も治って、お二人ともお元気ですよ。『快復したら、リーンも顔を出しに来なよ』とのことです」
アデリナの口まねがよく似ていた。
「そうか、今度行ってみるかな」
店が壊れたので、確か広場に場所を借りて屋台を出しているはずだ。
と――マイヤが驚いた顔で俺を見ていることに気付いた。
「どうかしたか?」
「いえ、その、外出を自ら口にされるのは、珍しいな、と」
「……ああ」
苦笑がごく自然に浮かんだ。
「そう、かもな」
生きるというのは、自分以外の誰かと関わること。
今この瞬間よりも先を考えるということ。
どちらも、これまでの俺が避けていた行為だ。
してみると、マイヤに出会う前の俺を『死んだように生きている』と評したレオの言葉は、正鵠を射ていたのかもしれない。
あの野郎の価値観は、どうしようもないほど歪んでいる。
そのやり口も物言いも、いちいち腹に据えかねる。
でも、認めるのはしゃくなことではあるが――俺についての見立ては間違いなく正確だった。
ああ、確かに俺はマイヤにとっての英雄なのだろう。
同時に、俺自身もそうありたいと願っているのだろう。
時間は逆流せず、身体が完全な健康体に戻ることもない。
俺はこれからも、死へと続く緩い坂道をゆっくりゆっくり下っていく。
おそらくこの先、何度も発作の苦痛に襲われる。
喪われたものを想い、うなされて夜中に飛び起きることもあるはずだ。
それでも、俺は生きる。
しっかりと生ききってみせる。
そして最期の瞬間、『死ぬのがもったいないほど、良く生きた』と笑って事切れるそのときまで――マイヤの英雄であり続けよう。
第一部完、です。ありがとうございました。
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(2/7追記)書籍化決まりました。




