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47話 マイヤの幸せ(2)

 リーン様のお言いつけ通り広場へ向かおうとしていたマイヤが、そのとき足を止めたのは――ただ単に悪い予感を覚えたからではありません。

 音が聞こえたのです。


 狼犬族カニスルプスの聴力をもってしてもかすかに聞こえるかどうかという、小さな音でしたが、なぜか無視してはいけない気がしました。


 耳を澄ませます。

 また聞こえました。

 どうやら人の声……これはせき、でしょうか。

 しかしそれにしては響きがひどく濁っていて、苦しそうな――


「…………!」


 三度目の音が聞こえ、それが誰のものか理解した瞬間、マイヤは荷物を置いて走り出していました。

 前庭を駆け抜け玄関扉を開け、広間に飛び込みます。


 血を吐いて床に横たわっているリーン様の姿が目に入りました。


「だんな様! だんな様……!」


 駆け寄って抱き起こし、そしてマイヤは顔を青ざめさせます。

 胸の鼓動がすうっと消えていくところでした。

 呼吸もすでに止まっています。


「あ……ああ……」


 周囲の世界がガラガラと音を立てて崩れていくような錯覚を覚えました。


 最初にこのお屋敷を訪れたとき、寝込んでおられたこと。

 よく体が弱いとおっしゃっていたこと。

 アデリナさんから気をつけてやってと頼まれていたこと。


 ――忘れていたわけではないのです。

 でも、『こんなに強い方がまさか』と、どこかで甘く見るような気持ちがあったのかもしれません。


 こうして直接触れてみると、リーン様の状態がよくわかります。

 胸の奥、心臓や肺のあたりのけいがぐちゃぐちゃに乱れています。

 まるで刺々しいイバラで何重にも縛り付けられているかのよう。


 けいを生み出し思い通りに操るのはもちろん、走ったり跳ねたりするだけでも相当に辛かったことと思います。


「……こんな体で、マイヤを助けてくださったのですね」


 竜からマイヤを助けるため、リーン様が何を犠牲にしてくださったのか、マイヤはこのとき初めて理解しました。

 『お前が生きていたから十分だ』というリーン様の言葉がどれだけ重いものだったのか、ようやく気付いたのです。


 あふれた涙が、ぽとり、とリーン様の頬に落ちました。

 こんなに暖かいのに、まだ生きているようなのに、もう……


「…………」


 そのとき、マイヤはふと思いました。


 リーン様がおっしゃるには『けいは生物なら誰もが持っているもの』なのだそうです。

 逆に言えば、生きていないものは勁を持ちません。


 例えば、この部屋の壁や暖炉などからは感じ取ることはできません。

 かつて生物だったけれど、今は生きていないもの――樹からもがれた果実、豚さんから作られた燻製肉なんかも同様です。


 このことを言い変えると、つまり――


「……けいが感じられるうちは生きている、です?」


 そもそも『死』とは何なのでしょうか?

 呼吸が止まること?

 心臓が止まること?


 では息を止めている間は死んでいるのですか?

 鼓動と鼓動の間は死んでいるのですか?


 そんなことはないはずなのです。

 マイヤたちが『死』という言葉を使うのは、普通、もう取り返しがつかない状態を指しているのではないでしょうか。


 では、今はまだ、リーン様が死んでいないとするならば――


 頭の中が混乱し、色々な思いがぐるぐる回ります。

 急いで考えなければならないこと、しなければならないことがあるのはわかるのですけど……まるで水の中でもがくように、思考が前に進みません。


「…………」


 マイヤは一つ大きく息を吸い、そしてパシンと自分の頬を張りました。


「怖いときは、自分が怖がってることを認める!」


 声に出して言ってみます。

 これはリーン様に教わったこと。


 確かにリーン様を失うことは怖いです。

 でも、だからこそ、怖さを打ち消すために時間を割く余裕はありません。

 恐怖を認め受け入れて、自分の内側にではなく外側に注意を向けます。


 状況をよく見るのです。

 今、マイヤにできることは何でしょうか?


 街へお医者様を呼びに行っても、間に合わないでしょう。

 それに胸の内側でけいがぐちゃぐちゃになっていて、などといって、わかってもらえるとも思えません。


 マイヤはけいというものをまだ詳しく知りませんし、こんな見たこともないような症状を詳しく説明するのは――


 そこでマイヤは、何か引っ掛かるものを覚えました。


「……見たこともない」


 そうでしょうか?

 つい最近、同じようにけいで呼吸や鼓動を縛られて、苦しそうにしていた人がいたような。


 ――すぐに思い出しました。

 夕刻、リーン様に食ってかかって反撃を受けた、ルアンさんです。


 あのときは、リーン様がけいを使って何かされたのだと思います。

 他人の体をどうこうするというのは多分、すごく高度な技なのでしょう。

 マイヤにあんな複雑なことはできません。


 でも、けいの干渉によって、心臓や肺の働きが制限されるというのが同じなら、もしかしたら……


 それを正常に戻す方法(、、、、、、、、、、)も同じなのでは(、、、、、、、)


 マイヤはリーン様がどうしていたのかを、必死に思い出します。

 確か――背中からけいを撃ち込んで、胸の奥に強い衝撃を与えていました。


 妨げとなっているものを一気に吹き散らかし、心肺を叩き起こす。

 そんなイメージでしょうか。


 もちろん、そんな単純なものではないのでしょう。

 命にかかわるような技ですし、けいの力加減やその伝え方にも、正しいやり方があるはずです。


「…………」


 マイヤは唾を呑み込みました。

 試してみる価値は間違いなくあります。

 が――問題は、マイヤがこの手で、リーン様を殺してしまうかもしれないこと。


 そう想像した瞬間、ルアンさんにケンカを売ったときより、竜と向かい合ったときより、ずっとずっと大きな恐怖がマイヤをわしづかみにしました。


「だんな様なら、こういうときどうするですか……?」


 いつだって、マイヤに道を示して下さったのはリーン様でした。

 そのリーン様がこんなことになっている今、マイヤ一人では――


「……いいえ」


 それは違う。

 ぎりっと奥歯を噛んで、マイヤはむりやり体の震えを止めました。


 マイヤ一人だからこそ、やらなければならないのです。

 今まで教えていただいたことが無駄ではなかったと、証明するために。


「マイヤはだんな様に教わりました」


 自分に言い聞かせるように、声を出します。


「マイヤの価値はマイヤが決めるべきだ、と」


 マイヤはだんな様のお力になれる、有能なメイドです。

 ゴミクズではありません。

 なすべきことを見失うような、おバカさんではありません。

 立ち向かうべきときに逃げてしまうような、臆病ものでもありません。


「マイヤはだんな様に教わりました。恐怖に対抗する方法の一つ。それは、さらに強い感情で上書きしてしまうことだ、と」


 マイヤはリーン様を助けたいです。

 好きだからです。誰よりも大好きだからです。

 ですから、こんな状況は我慢できません。リーン様を失うのは耐えられません。


 そういえば……何かを許し難いと思う感情を、『怒り』と呼ぶのでしたか。

 マイヤは目の前のこの現実に、まさしく激しい怒りを覚えました。


「マイヤはだんな様に教わりました。けいの使い方を身につけたいんだったら、今まで自分が見たことをしっかり思い出せ、と」


 これはだいじょうぶ。

 ルアンさんを正気付けたときのリーン様のお姿は、しっかりと記憶に焼き付けているですから。

 リーン様の体を起こして、背中、ちょうど心臓の裏側に手を当てます。


「マイヤには、教わりたいこと、お礼を言いたいこと、お話ししたいこと、まだまだ山ほどあるのですよ、だんな様」


 いつの間にか、気持ちは凪の日の湖面のように穏やかになっていました。


「だから……起きてください、です」


 そして、マイヤはけいをリーン様の体に送り込みました。

 体の動き、けいの扱い、呼吸のはかり方、すべて思い描いたリーン様を完璧になぞりつつ。


 そのまま、永遠にも思える時間――実際は数秒だったのでしょうけど――が流れます。


 初めて使う技です。

 うまくいったのかどうかなんて、判断しようがありません。


 でも、リーン様の胸のけいの乱れが、ほんの少しだけ収まったような感触は、確かにありました。

 そして、束縛の緩んだ隙をつくように――トクンと一つ、心臓が脈打ちます。

 そのまま二つ、三つ、四つ。


 続いて呼吸が戻りました。

 おぼれていた人が助け出されたときみたいに、激しく咳き込みます。


 やがてまぶたが開かれ、焦点のあわない目がマイヤを捉えました。


「う……あ……?」


 リーン様の口から、声が漏れます。


 一言では説明できない、様々な感情が胸に溢れました。

 でも、お目覚めになった主にメイドがかける言葉は、一つだけでしょう。

 マイヤは泣き笑いの顔で口を開きました。


「――おはようございます、だんな様」


     ◆◇◆◇◆


「はい、ものすごく嬉しかったですし、安心しましたですよ」


 マイヤはファリンさんに言いました。


「でもね、そんなにお体の状態が悪いのに、死が迫ってきているのに、マイヤに黙っていたのはひどいと思うのです。どうして内緒にしたのでしょうか!」


 これについては、まだ怒っているのです。

 なぜマイヤの気持ちを、もっと考えていただけなかったのかと。


「マイヤを悲しませたくなかったんじゃないかしら?」

「そうおっしゃってましたけど……納得はできないのです」


 マイヤはぷくっと頬を膨らませました。

 黙ってて下さいなんて、お願いした覚えはありませんので。


 人はいつか死にます。それは避けられないことです。

 もう考えるのも嫌なことですけど、もし本当にリーン様が亡くなられたら、マイヤは心が壊れるほど悲しくなって、泣き続けるでしょう。


 でも、残された時間がわかっているなら、その瞬間までに色々できることもあるはずです。

 向き合い方も、覚悟の決め方も……マイヤに自由を与えていただきたいと思うのです。


 と、ファリンさんが不思議そうな顔でこちらを見ていることに気付きました。


「あの……?」

「いえ、あなた、リーン様のことを話すときは色々な表情見せるのねと思って」

「そうなのです?」


 あまり自覚はありませんでしたけど。


「前みたいに何されてもただ笑ってるだけ、なんてのより、ずっといいけど。――マイヤは、リーン様のことを気に入っているのね」

「い、いえ、気に入ってるだなんて、とんでもない!」


 マイヤはあわてて首を振ります。


「マイヤはメイドですから、だんな様に対してそんな不敬で失礼な物言いはできないのです! あ、えっと、でも……」

「でも?」

「その、許されるなら、お側に居たいとは思うです。ずっと。永久に」

「永久に」

「はい。だんな様を思うと、胸がときどきして、顔が熱くなって、でもそれがすごく嬉しいのです。なんでもしてあげたい。だんな様のすべてでありたいと心から思うのです」


 マイヤ、おしゃべりは得意ではないですけど、リーン様についてなら言葉が尽きることなく話し続けられます。

 いいところもわるいところも。好きなところも大好きなところも。


「きっと、これが噂に聞く忠誠心(、、、)というものなのですね!」

「…………」


 ファリンさんはなぜだかものすごく複雑な顔をしました。


「あのね、マイヤ」

「はい?」

「その気持ちは、忠誠心というより、多分……」


 言いかけてため息をつきます。


「いえ、わざわざ指摘するのは野暮というか、あまり意味の無いことでしょうね。細かいことは置いておいて……今、幸せなのね?」

「はい」


 それについては笑顔で、自信を持って答えられます。


「マイヤは今、とっても幸せです!」


エピソード「マイヤの幸せ」了。

次回は「英雄と犬耳娘」

区切りまであと2回(多分)です。

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