46話 マイヤの幸せ(1)
真っ白に凍った川が、朝の光に照らし出されていました。
「……そういえば、冬には凍るんだってリーン様がおっしゃってたですね」
呟くと、マイヤの口から白い息がこぼれます。
あれは確か、ペリファニアにやってきて間もないころ、初めて一緒に街中まで行ったときのことだったでしょうか。
今、マイヤは一人きりでその道を歩いています。
ふと思い立って、今日は河原に下りてみることにしました。
もともと深くて流れのゆったりした川でしたが、今は完全に凍り付いてその動きを止めています。
いえ、氷の下まではわからないですけどね。
「向こう岸まで、渡れるですかねー」
何となく口に出してみました。
もちろん返答はありません。
リーン様が隣にいたら、『途中で落ちても助けてやらねえぞ』とでもおっしゃったでしょうか。あの不機嫌そうな口調で。
と。
視界の隅にいくつかの小さな花が映りました。
冬に咲くのは珍しいですね。
少し迷って、マイヤはその花を摘んでいくことにしました。
清らかで慎ましやかで、お墓に備え亡くなった方に手向けるものとしては、このうえなく似つかわしいように思えたのです。
マイヤは花を手にし、再び道を辿り始めました。
ここから市街地を抜けて街の北側に向かうと、共同墓地があります。
――あの赤竜の襲来から、一月ほどが過ぎました。
ペリファニアの街は、ようやく瓦礫の片付けが一区切り付いたかというところ。
壊された建物の再建は、まだまだこれからでしょう。
被害にあった人たちには皇帝陛下より援助がおりるため、お金の負担は軽くなるそうですけど……やっぱり、すぐに元通りとはいかないものなのですね。
《銀の大樹》亭も、いまだ再建されていません。
ただ、アデリナさんは怪我が治ると屋台を借り、広場の一角ですぐに商売を再開させていました。
今でもご飯時には母子お二人の元気な姿を見ることができます。
そうですね、お墓参りを済ませたら訪ねてみましょうか。
街中に入ると、被災地区の境目付近に見知った顔を見つけました。
「あ、ファリンさん」
職人さんたちとなにやら打ち合わせをしていたらしきファリンさんは、マイヤに気付くとお話を切り上げてこちらにやってきました。
「おはよう。買い物?」
「と、お墓参りなのです。あの、ファリンさんはお仕事中ではなかったのです?」
「ちょうど一区切りついたところ」
あの竜が襲ってきたとき、ブラウヒッチ家の獣人隊はほとんど何もすることができませんでした。
宿営に居なかったり酔っ払っていたりする兵士さんが多く、出動が送れてしまったのだそうです。
そしてようやく態勢を整えたときには、もうすべて終わっていました。
しかし、その中においてファリンさんは例外的に高い評価を受けていました。
個人の判断で避難誘導や怪我人救出の先頭に立ち、それを大勢の人々が見ていたからです。
特別に街の太守様から感謝の言葉と褒賞金をいただいたそうです。
失点を取り戻したい獣人隊は、現在、瓦礫の片付け係や物資の運び屋さんなどを積極的に引き受けていますが、ファリンさんはそのなかで現場指揮官のような役割も任されているとのこと。
別に出世を望んでいたわけではないのにね、と本人は少し迷惑そうにため息をつくのですが。
ファリンさんも墓地に向かうということなので、マイヤたちは一緒に歩き出しました。
「――え? ということはファリンさんたち、もうすぐ辺境の方に戻ってしまうのです?」
マイヤは目を丸くしました。
『この街での役目が終わりそう』とファリンさんが言ったのです。
落ち着いてきたとはいえ、完全な復興にはまだまだ遠いはずなのですけど。
「皇都の方から兵士や職人、人夫が大量に派遣されてくるみたい。で、私たちはもう用済みだそうよ。もともとブラウヒッチ家は中央とあんまり良い関係じゃないみたいだし、さっさと引き上げさせたいのかも」
そう言って、ファリンさんはため息をつきました。
「というわけで、マイヤともお別れになるわね」
「急に、そんな……。とっても寂しいし、残念なのです」
どうもこのところ、マイヤは『別れ』という言葉に対して敏感になっているようです。
もちろん、生きてさえいればまた会うこともできるのでしょうけど……今日元気だった人が、明日もそうだとは限らないですから。
「そう? あなたは獣人隊にも私たち兄妹にも、あまりいい思い出がないような気がするのだけどね」
ファリンさんはあるかなしかの苦笑を浮かべます。
少し自虐的な感じ。
「いえ、そんなことないのですよ? この街で再会したときもうれしかったですし。その、確かに、ルアンさんたちはときどき意地悪ですけど……それはマイヤが弱いせいでもありますから」
「どうかしら。訓練兵時代はともかく、街に来てからは違うと思うわ」
どういうことでしょうか?
マイヤは首をかしげました。
「兄さんたちは、あなたが羨ましくて――そして同時に怖いのよ」
「え?」
目を二度三度とまたたかせ、なにかの冗談なのです?とファリンさんの顔を見つめ直し、どうやら違うようでしたので、あわてて両手を左右に振りました。
「いえいえ、そんなことあるはずないのですよ。ルアンさんたちはマイヤと違って強いのですし」
だからこそ軍に必要とされて、正規兵に昇格されたわけですし。
「でも、あなたはルアン兄さんに勝ったわ」
「あ、あれは、ただのまぐれですから……」
「竜に一太刀浴びせた」
「リーン様の真似をしたら、たまたま上手くいっただけなのです」
頑固ね、とファリンさんはマイヤを見ました。
「マイヤの認識がどうであれ、外の世界に居場所を得て、しかもそこで自分の力を証明することに成功したのは、あなたの方だと思うのだけれど」
そう、なのでしょうか?
「結局のところね、私たち獣人兵のように『死んでもいい』なんて生き方を追求したって、その先は行き止まりにしかならないの」
「ああ……」
その意見は少しわかるです。
マイヤが生き残ることを諦めようとしたとき、さらにルアンさんが『死を怖れない』と口にしたとき、リーン様はお怒りになりましたから。
思い返せば、あのときリーン様はすでに、ご自分の死期を予感されていたのだと思うのです。
どんな気持ちで叱ってくださったのか考えると、マイヤは泣きたくなります。
「兄さんたちも薄々気付いている。ただ、あの人たちは他の生き方を知らないし、できもしないでしょう。だから軍の外で幸福になったマイヤが妬ましくて、でもそれを認めると自分が否定されるようで怖くて、つっかかるの」
「うーん……」
マイヤは眉を寄せて考え込みます。
ファリンさんの分析が正しいのか間違っているのか、マイヤには判断できませんけど……正直なところ、信じて納得するのは難しいお話です。
だって、マイヤはこれまでずっとうらやむ側の人間だったのですから。
「ああ、少し余計なことを言ったかしらね。気にしないで」
マイヤが返事に困っていると、ファリンさんは小さく肩をすくめました。
「あの、行き止まりというのなら……ファリンさんはどうされるのです?」
今度はマイヤから尋ねてみました。
「私?」
「辺境軍をやめないのですか?」
マイヤのように人買いさんへと売られた場合はともかく、ずっと軍に養われてきた獣人兵が退役するには、一定のお金を領主様に納めなければいけません。
自分自身の身柄を買い取る、とでも言うのでしょうか。
決して安くはないのですが、ファリンさんのように優秀な人なら、払えなくはない金額だと思うのです。
「やめるつもりはないわね。この仕事が気に入っているわけではないけれど、兄さんたちにはお目付役が必要だから。あんなのでも家族だし――」
もう家族を亡くすのは、ごめんなのよ。
そうファリンさんは、呟くように言いました。
……そうですね。
マイヤもファリンさんも、先の人竜戦争で両親を喪っています。
親しい人が、自分の前から永遠に居なくなってしまう――その恐ろしさは、世界が滅びるのにも等しいものです。
あれを味わわずにすむのだったら、人はどんな努力でも払うでしょう。
と、そのとき――突然マイヤの頭の中に一つの光景が浮かびました。
血を吐いて、お屋敷の床に倒れている、リーン様。
ぴくりとも動かないその姿。
あのときの心臓が凍りつくような感覚までもがよみがえり、思わず悲鳴を上げそうになります。
「――マイヤの方は、どうするつもりなの?」
ファリンさんの声が耳に届き、辛うじて現実に引き戻されました。
冷たい汗が背中ににじんでいます。
「このままずっと、イェリング様のお屋敷で生きていくつもり?」
「え、ええ」
マイヤはうなずきました。
「そのつもりなのです。だって、マイヤがしっかりみてないと、荒れ放題になるですから」
あのお家をちゃんと管理できるのは、マイヤだけなのです。
「そう。……まあ、マイヤならそう言うと思ったけれど」
その後はなんとなくお互い無言のまま、墓地まで並んで歩きました。
墓地の入口には、慰霊碑が建てられています。
マイヤはそこにお花を供え、死者の安息を願ってお祈りを捧げました。
今回の赤竜襲来によって亡くなられた方は、十人ほど。
怪我人や家を無くした方は、もっともっと多いはず。
マイヤは、自分にできることを一生懸命やったつもりです。
それでも……やっぱり、考えてしまいます。
もっとマイヤが頑張っていれば。
もっと強ければ。
もっと早く竜のおびき出しを決断していれば。
もっと上手い方法を思いついていれば。
――もしかしたら、死なずに済んだ人がいたのではないか、と。
何かの埋め合わせになるとは思わないですけど、こうして毎日お祈りに来ては何度も自問自答してしまうのです。
多分、それは隣で祈りを捧げるファリンさんも同じなのでしょう。
「……ファリンさんは、これからまたお仕事です?」
お祈りを終えると、マイヤは尋ねました。
「そうね。申し送りがまだ色々あるから」
そしてファリンさんは珍しく迷うような表情を浮かべ、少し間を置いてから言葉を継ぎました。
「あのね、できれば街を離れる前に一度、そちらのお屋敷をお訪ねしたいのだけど……話を通しておいてもらえるかしら?」
「あ、はい。では、お伝えしておくですね。でも、どんな御用で?」
「かなり無礼なことを申し上げてしまったから、その、せめて一言お詫びしなければと思って。ずっと心に引っかかっていたのだけど、機会がなかったものだから」
視線を外し、どことなく気後れしたような様子です。
これもめったにないことですね。
「お体のこともあるし、多分お怒りでしょうし、そもそも本来、私などがお目通りできる方じゃないし……会わないと言われたら、素直に諦めるつもりなのだけど」
「いえ多分、大丈夫なのですよ、お優しい方ですから」
マイヤは微笑み、そしてうふふふと笑いました。
「それにね、もうあれから一月も過ぎているのです。いいかげん一人で引きこもっていないで、そろそろマイヤ以外の方々と会い、色々お話するべきなのですよリーン様は」
ええ、少しくらいはマイヤの言うことを聞いてくださってもいいと思うのです。
だって、本当に、本当に、本っっっ当に、大変な思いをしたのですから!
――マイヤは一月前の出来事を回想します。
そう、お屋敷の広間で倒れているリーン様を発見したときのことです。
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