45話 遺すべきもの、伝えるべきこと(6)
結局、ルアンは口を開く気力もなくしてしまったので、今後マイヤに手出しをさせないことについてはファリンが請け合った。
その後、俺たちは街の広場で手当てを受けていたアデリナとレニを見舞った。
レニはかすり傷程度で元気なものだった。
アデリナの方も意識はしっかりしていたが、足を折って当分動けないとのこと。
「治癒術師が手配されてるけど、かなりの順番待ちになるみたいだ。店も壊されちまうし、まったく、これからどうしたもんかねえ」
憮然とした顔でそう言って、女店主は大きなため息をついた。
とはいえ、この程度の逆境で挫けるような奴ではない。
程なく立ち直り、また忙しく働き出すことだろう。
アデリナたちに別れを告げるころには、もうとっぷりと日が暮れていた。
屋敷に戻ると、まずはマイヤの手当て。
傷口を洗ったのち血止めの薬草をすりつぶして塗り、包帯を巻き直す。
「……よし、ひとまずはこれで大丈夫だろ」
「あ、ありがとうございます、です」
マイヤは涙目で一礼した。
どうやら薬草がかなり傷にしみたらしく、尻尾と耳がぺたんと垂れていた。
声を上げたり暴れたりしなかったのは、褒めてやるべきだろうか。
「破れた服は繕うなり新しいのを買うなり、好きにすればいい。金は物置部屋にまとめてあるから、必要なだけ持って行け」
一部地区に甚大な被害が出たとはいえ、そう簡単にこの都市は活動を停止したりはしない。
ペリファニアは交通の要所にある交易都市。
人々は生命力旺盛で、その商魂はたくましいのだ。
手当てを終えると、俺は定位置である広間の長イスに腰を下ろし、ふうと息をついた。
マイヤが心配そうに眉をひそめる。
「あの、だんな様……お疲れです? 顔色があんまりよろしくないようなのです」
薄暗い照明の下でも見抜かれるというのは、相当ひどい状態なのだろう。
「ま、疲れたのは確かだな。竜とやり合ったのは久々だ」
俺は嘘ではなく、しかし正確でもない返答をした。
「あの、本当にすみませんです。マイヤのせいで……」
「もういい。俺の意思でやったことなんだから、いちいち気にすんな。――お前が生きててくれたんだから、それで十分なんだよ」
「え――」
マイヤの顔がかっと赤くなった。
「えと……あ、あの、もったいない、お言葉なのです、うれしいです」
そう言いつつ、嬉しいというよりもむしろ自分自身の反応に戸惑ったような表情で、首をかしげる。
なぜ頬が突然熱を持ったのか、自分でもよく理解できない様子だった。
そんなマイヤに『レオに宛てて書状を書くから、筆記用具一式を取ってきてくれ』と命じ、ぱたぱたと足音が遠ざかるのを確認して、俺は体の力を抜いた。
こほ、と小さく咳がもれる。
また口中に広がる鉄錆の味。
実際のところ、体調の悪化は相当に深刻だ。
竜だけならもう少しマシだっただろうが、ルアンとやりあったときに勁をつかったのが余計だった。
想定していたより消耗が激しい。
「ま、他の誰でもなく俺自身の責任なんだがな」
自嘲してため息をつく。
胸を灼くチリチリとした痛みは、刻一刻とその強さを増していた。
手足などとは違い、心臓や肺はいちいち『動かそう』と意識しなくても勝手に動くものである。
これは勁が、体から心肺へと自動的かつ周期的に発信されているからだ――と、俺は師匠に教わった。
さて、勁功というのは、体内で勁を練って活用する術である。
訓練すれば常人よりはるかに多くの勁を生み出すことができるが、人間である以上、やはり総量には限界が存在する。
その限界を上回って無理矢理使おうとすれば、どうなるか。
体は、心肺を動かす分の勁を喰い、不足分を補うのだ。
何度も繰り返せば、どんどん心臓と肺を動かす勁が弱まる。
少々であれば周期が乱れたり活動が弱まったりしても自然に回復するのだが、体の修正機能を越えるところまで悪化すると、それも不可能になる。
心肺が正常状態に復帰できず、勁を練る力も失い、死に至るわけだ。
その半歩手前にあるのが、今の俺の状態である。
「お待たせしましたです!」
頼んだものを持ってマイヤが再び姿を現した。
「ああ、ご苦労。――傷は痛むか?」
「いえ、もう大丈夫なのですよ」
さほど強がりというわけでもなさそうに、マイヤは笑ってみせた。
獣人の特性かはたまた単に若いからか、回復がずいぶんと早いようだ。
「そうか。なら悪いが、もう一つだけ用を頼む。二階の空き部屋から毛布をできるだけ集めて、街の広場へ届けてくれるか?」
「毛布、です?」
怪訝そうな顔をするマイヤ。
「体力の落ちてる怪我人に寒さは大敵なんだよ。人間族にとっては、少しばかり冷える季節だからな」
二階には客間が幾つかあるが、マイヤが使っているのを除いてすべて空き部屋となっている。来客の予定もない。
寝具が無駄に余っているので困っている人のために有効活用したいのだ、と説明すると、マイヤは納得したようだった。
「そのあと、できればそのまま朝までアデリナについて、容態の経過を教えてくれ。レニも誰か一緒の方が心強いだろうし」
「はい、かしこまりました!」
マイヤは元気よくうなずいた。
実を言えば、これはマイヤを遠ざける口実にすぎない。
毛布もアデリナの看病も確かに必要なものだが、仮にマイヤが行かずとも街の誰かが何とかするだろう。
要するに俺は、最期の瞬間をマイヤに見せたくなかったのである。
と、その場を去りかけたマイヤが、思い出したように振り向いた。
「あ、あの、マイヤからも一つお願いがあるのですけど……」
「何だ?」
「だんな様が元気になったら……マイヤに、あの勁というのを、ちゃんと教えてもらえないですか?」
俺は目を瞬かせた。
正直なところ、それは意外な申し出だった。
才能は間違いなく備わっている。
欲目なく言っても、天才、あるいは怪物と呼んでもいい域にあるだろう。
しかし、好んで戦闘技術を身につけたがる性格には思えなかったのだ。
「戦えるようになりたいのか?」
「えっと、少し違う……と思うです」
マイヤは、んーと眉間にしわを寄せ、言葉を選んだ。
「戦いたいとか、強くなりたいとかいうのではなく、その、何かをするための力が欲しいと思ったのです。誰かが苦しいとき、辛いときに、助けられるような。つまり、あの……マイヤは、リーン様みたいな立派な人になりたいのです!」
「…………」
俺は言葉を失った。
驚いたというか、あきれたというか――いずれにしても、こいつの人を見る目には致命的な欠陥があると思った。
「買いかぶりすぎだろ。俺はそんな人間じゃねえぞ」
「いえ! 助けていただいたマイヤが言うのですから、間違いないのです!」
自信に満ちた口調で断言し、そして一転、マイヤは遠慮がちにこちらをうかがうような表情になった。
「それで、あの、どうでしょうか? 教えていただけないですか? マイヤ、不器用ですけど、いっしょうけんめい、がんばるですから……!」
「あー、わかったわかった、教えてやるから。とりあえず、さっさと毛布集めて街まで行ってこい」
「はい!」
俺の返答を聞くとマイヤはぱっと顔を輝かせ、二階の方へ駆けていった。
俺はため息をついた。
もちろん嘘だ。もう俺にそんな時間は残されていない。
しかし、断ってマイヤがガッカリする顔は見たくなかったし、俺を待ち受ける運命について匂わせるわけにもいかないかった。
身勝手なのは百も承知だ。
(こんな偽善者、見習う必要なんてねえのにな)
あるいはもっと早くに出会えていたなら、出来の良い弟子に教えながら余生を送るということもできたのかもしれないが――いまさらそんな仮定をしたところで、意味などないだろう。
俺が書状を作り始めてしばらくすると、マイヤが荷物をまとめて下りてきた。
「では、行ってくるですね」
「――ああ、マイヤ、ちょっと待て」
はい?とマイヤは振り返る。
「勁の使い方を身につけたいんだったら、今まで自分が見たことをしっかり思い出し、毎日反復練習しろ。それが基本だ」
マイヤは二、三度目を瞬かせ――
「わかりましたです!」
そう笑顔で答えた。
荷物を抱えて再び街に向かうマイヤを見送り、玄関の扉が閉まるのを確認。
俺は長イスの背もたれに体を預け、ふうと大きく息をついた。
これであいつの顔も見納めになるだろう。
感傷を抑えて、俺は書状の続きに取りかかった。
俺自身は天涯孤独なのでどうでもいいが、マイヤについては責任上、できる限りのことをしておきたい。
まず、レオに一通。
マイヤの身分と生活を保証してもらわなければならないからだ。
俺に押しつけたのはあいつ自身だし、嫌とは言わないだろう。
あとは、マイヤ宛てにも一通したためておくべきか。
「屋敷含めた財産は好きに処分しろってのと、わからないことがあればアデリナを頼れってことと……あと何かあったかな」
羽ペンをもてあそびながら、まるで長旅の前みたいだなと思った。
忘れ物はないか、片付けておくべきことは残っていないか、と出発前に振り返るあの感じだ。
『死出の旅』とはよくいったものである。
と、そんなことを思ったとき――不意に胸の奥から何かがせり上がってくるような感触を覚えた。
ごぼ、という音とともに口から血が溢れ、俺は激しく咳き込んだ。
「……は、最後の発作は、えらく派手になりそうだな、おい」
床に跳び取った赤い染みを眺めて笑う。
マイヤが出かけていくまで持ちこたえられて良かった。
のたうち回って死んでいく無様な姿を見せずに済む。
俺には故郷も親兄弟もすでにない。
唯一、マイヤに対しては少しばかり申し訳なく思うが、できるだけのものは残したつもりだ。
マイヤへの書状は書き終えられなかったが、心残りと言えばそのくらいだろう。
終焉を告げる激痛が胸の内側に走る。
俺は自らゆっくりと目を閉じた。
――俺の生まれ育った田舎町には、澄んだ川があった。
幼い頃、そこでおぼれた経験がある。
家族で川遊びをしていたのだが、親の言いつけを守らず深い淵の方へ一人で向かい、足を取られたのだ。
死に瀕した俺は、そのときのことを思い出していた。
体は動かず、暗く冷たく寂しい場所にゆっくりと落ちていくという感覚が、とてもよく似ていた。
幼かった俺は、間一髪のところで母親に救い出された。
伸びてきた手によって水面に引き上げられ、こっぴどく叱られながら泣きじゃくったのを覚えている。
だが、今の俺に救いの手をさしのべてくれるような誰かは存在しない。
ただ黒い汚泥のような虚無の中に沈んでいくだけ。
長くもない人生の断片が、頭の中で明滅した。
少しばかりの楽しく愉快だったことと、多くの辛く苦しかったこと。
《千竜殺》の名を戴き、竜を殺し続けたこと。
そして最後にマイヤの姿。
あいつと暮らした数十日は、なかなかに悪くなかったと思う。
喜ぶ顔、驚く顔、落ち込む顔、くるくる変わる表情は見ていて飽きなかった。
あと一日、いや半日でもあればもっと色々なことを伝えられたんだがなあ――そう思い、そして気付いた。
(なんだ、割と生きることに未練があるんじゃねえか、俺)
俺は苦笑した。
いや、自分を嘲笑ったという方が正確か。
最後の最後で気付くことがこれだとは、まったくもって救えない人生だ。
ああ、そうだな。
確かにあいつと過ごした日々は鮮やかに彩られていたし、俺はまだそれを味わっていたかったのだろう。
しかし、それが叶わないことも、またよくわかっていた。
だから、結局のところ諦めるほかないのだ。
――あの犬耳娘の人生に、幸多からんことを。
そう願い、そしてリーンハルト・イェリングの心臓は停止した。
エピソード「遺すべきもの、伝えるべきこと」了
次回は「マイヤの幸せ(1)」
あと3、4回、今週末あたりで一区切りです。