44話 遺すべきもの、伝えるべきこと(5)
ルアンは眉を寄せ、まじまじと俺の顔を見つめた。
「人間族の分際で俺とケンカぁ? 勝負になると思ってんのか、おい?」
「やんのかって訊いてきたのはお前の方だろ。お前自身で試してみりゃいいじゃねえか」
「正気かよ……。それとも挽き肉になりたいだけの、自殺志願者か?」
ルアンの身長は俺より頭二つ分ほど大きい。
おそらく虎族としても、相当にでかい方だ。
力には自信があるのだろう。
「質問の多い奴だな。お互いのことをよく知ってからじゃなきゃ、ケンカもできねえってか」
「ああ!?」
たちまちルアンは顔を真っ赤にして牙をむいた。
俺は構わず続ける。
「こっちからも一つ訊くぞ。――んで結局、勝負を受けるのか逃げるのか、どっちなんだ?」
「……は、逃げるわきゃねえだろ、オッサン」
怒りと敵意に目をぎらつかせながら、大きく両腕を広げる。
だからオッサン呼ばわりはやめろというのに。
「受けてやるから、いつでもどっからでもかかってこいや! その貧弱な拳でダメージが与えられると思ってんならな!」
「ああ、そうさせてもらう」
そう言うと、俺は構えも取らず無造作に歩き出した。
「あ……?」
意表を突かれたのか目を丸くするルアン。
呼吸を読み切ってその懐にするりと入り込み、そしてブラウヒッチ家の家紋の入った胸当ての上から、拳をこつんと当てる。
「……なんだそりゃ?」
ルアンはせせら笑った。
「まさかこの程度のパンチで――」
と、そこで不意に言葉が途切れた。
眼球が飛び出しそうなほど目を見開き、ルアンは地面に両膝を突く。
みるみる顔が真っ青になり、声すらろくに出せないまま喉元をかきむしる。
「真っ赤に灼けた刃で、胸を内側から切り刻まれてるみてえだろ?」
俺は淡々とした口調で言った。
「よーく味わえよ。それが『死』ってやつだ」
《無形楔》。
胸に勁の楔を打ち込んで、心臓と肺の働きを止めたのだ。
今こいつは、俺が発作を起こしたときと同等の苦痛を味わっている。
呼吸と鼓動が機能していなければ、勁を練ることは不可能。
ひとたび決まれば達人ですら逃れること能わず、と言われる技である。
ましてや勁功の心得がないルアンに、どうにかできるものではない。
このまま放置しておけば、ほどなく完全な死に至るだろう。
「なあ、ルアン、教えてくれよ。死ぬ前にさ」
「あ、は……が、ひ……」
俺は涙と鼻水とよだれにまみれて苦悶する獣人兵の顔を見下ろした。
「お前、今も死は怖くないって言えるか? こうして殺し合ってるなかに、生きる喜びが本当にあると思えるのか?」
「イェリング様!」
そのとき、横合いから声が聞こえた。
人垣を割ってこちらに走ってきた人影が、俺の前にひざまずく。
虎族の少女――ファリンだった。
騒ぎを聞いて慌てて駆けつけてきたのだろう。
「兄の無礼は幾重にもお詫び申し上げます! どうか……どうか、そのくらいで、お慈悲を賜りたく」
「…………」
無言のままマイヤに視線を移す。
口を挟むつもりはなさそうだったが、泣きそうな顔をしていた。
ま、そうだよな。お前は恨みや憎悪を抱けるような性格じゃねえだろうし。
俺はその場で小さく両手を挙げた。
「……冗談だよ。これは殺し合いじゃなく、ただのケンカだからな」
そしてルアンの背中から勁を叩き込み、《無形楔》を解除した。
瞬間、心臓と肺が機能を取り戻す。
勁によって混乱を来たした心肺機能に、もう一度、勁で強い衝撃を与えて正常化したのだ。
乱暴に例えれば、錯乱してる奴をひっぱたいて正気に戻すようなものである。
ルアンはひゅうと大きく息を吸い込むと、地面に伏したまま激しく何度も咳き込んだ。
「殺すつもりなんて、最初からねえさ。一日二日寝込むくらいで、後遺症も残らねえから安心しろ。燻製肉の代金は、見舞い代わりってことで帳消しにしてやる」
殺すつもりがなかったのは本心である。
確かに粗暴で無礼な奴ではあるし、マイヤに手を上げたのも許しがたい。
しかし、相手は経験に乏しいガキで、仮に勁を封印して戦ったとしても、俺の相手になるレベルではなかった。
なので最初は、衆人環視のなかで適当に叩きのめし大勢の証人の前で『今後マイヤに手を出さない』と誓わせて、終わりにしようと思っていたのだ。
獣人兵たちの間では強さが絶対の価値基準とされている。
言い方を変えれば、力比べの結果を反故にする者は、軽蔑され立場を失うということだ。
抑止効果としては、それで十分だっただろう。
だが、でかい声でがなり立ててたこいつの信条――命懸けで戦うだの、死を恐れないだのを耳にして気が変わった。
行き場のない感情、怒りに近い何かが胸に湧き上がってきたのだ。
ルアン個人に対してではない。
マイヤやルアンも含めたこいつら獣人兵の根底に、自分の命を軽んじるような馬鹿げた思想がしっかり根付いている――そのことを改めて思い知り、抑えがたい苛立ちを覚えたのである。
俺は身を屈め、うずくまって喘いでいる巨体に声を掛けた。
「なあ、死ぬって、なかなか怖い経験だろ?」
返事はおろか言葉が耳に届くかどうかすら怪しい状態だが、言わずにはいられなかった。
怒りでも優越感でもなく、ただやりきれなさとため息が声に混じった。
「まだ生きてる奴が、そして、これからも生きていける奴がな……殺すとか死ぬとか、簡単に口にするもんじゃねえよ」
お前らには未来がある。
俺がこの世から消えた後も、在り続けることができるんだからさ。




