4話 俺が犬耳娘を助けた顛末(4)
「ん――」
目を開く。
視界に入るのは、見慣れた風景。
俺が寝ているのは、自分の家、広間の長イスの上だ。
床の上に、ワインのボトルが転がっている。
確か――酒を飲んでいるときに発作が起き、そのまま意識を失ったのだったか。
そのあたりは何となく覚えていた。
体がだるい。
頭痛も熱も、完全に治まりきってはいない。
が、何とか思考能力は戻ってきたようだった。
(……さて、どのくらい、ぶっ倒れてた?)
こめかみを押さえながら、窓を見る。外は暗い。
夜闇の中に、わずかな夕焼けの残滓が見て取れる。
幻覚期を抜けたのが、確か昼過ぎくらい。
これまでの経験から判断して、同日夜にここまで回復するのは少し早すぎるから……それに足すこと丸一日というところだろう。
「つまり、今は、発作が起きた、翌日の、夜」
喉と舌の調子を確かめるように、ゆっくりと声に出す。
そして俺は上体を起こそうとし――そこで気付いた。
体の上に毛布がかぶせられている。
当然、自分でやった覚えはない。
「…………」
眉をひそめて、記憶を再点検する。
そう――気を失っているあいだに、人の気配を感じたような。
子供のような何者かが、そばにいたような――
「あー!」
と、そのとき、声が聞こえた。
同時に小さな影がすっ飛んでくる。
抱えた水桶を床に置くと、そいつは両手でぐいぐいと俺の胸を押した。
「い、いきなり起きたりしては、ダメなのですよ、だんな様! ご病気が悪化したらどうするですか!」
「…………」
怒られた。
――女の子である。
年の頃は、十を少し過ぎたくらい。
真新しいメイド服に身を包んでいる。
ただ、少しばかり体に合っていないようだ。
やや大きめで、服に着られている感がある。
頭に被ったメイド帽から、栗色に近い金髪が覗いている。
きれいな蒼い瞳に、幼いけれど可愛らしい顔立ち。
うん、もうろうとした意識の下で見たのは、確かにこの顔だった。
「……わかった、おとなしく横になるから、ちょっと落ち着け。大声は頭に響く」
「あ……」
とたんに小さなメイドはしゅんとなった。
「その……すみません、です。お加減の悪いだんな様の前で、騒がしく……」
別に腹を立てているわけではない。
目付きが悪いせいで、常にそう見られがちではあるが。
「えっと、井戸をお借りして冷たいお水をくんできたですから、とりあえず、お熱、冷やすですね」
そう言うと、彼女は水桶に入った布を絞り、俺の額に置いた。
絞り方が雑なようで、水が顔に垂れてくるが……まあ、これはこれで心地いい。
すぐに俺はうとうととまどろみの中へ――
「……じゃねえよ。おい、お前」
「は、はい?」
「お前、誰だっけ?」
この屋敷以外のどこかで会った気はする。
しかし、まだ思考能力が本調子ではないのか、思い出せない。もどかしい。
少女は一瞬動きを止め……ほんのわずかに表情を曇らせる。
――いや、見間違え、か?
気付いたときにはすでに笑顔に戻っており、そして何かに気付いたかのようにぽんと手を打った。
「ああ、そっか、ひどいお熱でしたから、自己紹介を後回しにしていたのでした。では改めまして――」
そう言って帽子を脱ぐ。
頭の上にはぺたんと折れた獣耳。犬のもの……だろうか。
幼い獣人はスカートの裾をつまんで、少しぎこちなく一礼した。
「名はマイヤ、狼犬族、歳は12です。本日より……ではないですね」
少し考えて続ける。
「えっと、正確には昨日より、このお屋敷にお世話になることになりました。何でもお申し付けください。どうぞよろしくお願いしますです!」
「…………」
俺は返事をしなかった。
いや、どう返事をしたものか困っていたという方が正しいだろう。
「あの、昨日の夕方ごろ、お屋敷に来たのですけど、玄関からお声かけしてもお返事がなかったのと、中から苦しそうな息づかいが聞こえたもので、その、勝手に入らせていただいて……」
マイヤというらしい少女は、少し早口になって続けた。
沈黙する俺に不安を覚えたのか、頭の犬耳がぺたりと伏せられている。
「あ、桶と毛布もお屋敷のをお借りしましたです。おでこを冷やす布は、その、マイヤの古着を裂きました。……えっと、もし、獣人の服に触れるのが不快だとおっしゃるのなら、すぐに取りかえ――」
「いや、それはいい」
ようやく俺は声を発した。
「むしろ看病には感謝するのが筋だ。礼を言っとく」
「い、いえ、そんな……」
マイヤは少しだけ表情をゆるめた。
「もったないお言葉です。こんなの、ご恩返しのうちに入りません。――マイヤの方は、命を救っていただきましたのに」
「……ああ」
やっと、わかった。
俺は肘をつき、少しだけ体を起こす。
「お前、この間、人質にされてたチビだよな?」
「そ、そうです!!」
マイヤの顔が、ぱっと輝いた。
人はここまで嬉しそうにできるのか、ってくらい、喜色満面の笑顔だった。
「あのときの奴隷です! 思い出していただけたのですね!」
「まあ、な」
俺はうなずいた。
暗い路地裏だったし、顔をはっきりと覚えていたわけではないが、この声と犬耳は確かに記憶にある。
「ただ……わけがわからねえんだよな」
「はい?」
マイヤはかくんと首を傾げる。
「なんでお前が、俺の家に来てるんだ? 使用人を募集した覚えはねえぞ。何かの間違いじゃねえのか?」
「え……え?」
からかわれているのかな、という表情を浮かべたマイヤだったが、俺の言葉に嘘も冗談も含まれていないことを理解すると、困惑を深めたようだった。
「あ、あの……マイヤ、レオ様という方に、確かにここに向かえと、言いつかったのですけど……」
「レオ?」
今度は俺が眉をひそめる番だった。
「それは金髪で、俺と同じくらいの歳で、背は俺より少し低くて、一見さわやかで穏やかだがその笑顔の裏で何を企んでんだよお前みたいな腹黒さを感じさせる、あのレオか?」
「え? えっと、その、よくはわからないですけど……確かに金髪で、にこにこしてる方でした、です」
考える。
仮にレオの仕業だとしても、意図が分からない。
奴なら、俺が独りを好むことは十分承知しているはずなのだが。
「んー、やっぱりレオが手続き中に何かやらかして、派遣する家を取り違えたとかだろ。帰っていいぞ」
俺がそう言うと、え、とマイヤは目を見張り、顔を曇らせた。
「んで、戻ったらレオの襟首掴んで、『間違ってたぞこのバカ』とでも怒鳴りつけてやれ。俺の分もついでにな。――ああ、一応一日分の給金は払っとくべきか。それでチャラだな」
「で、で、でも、あの……」
途方に暮れたように視線をさまよわせ、口ごもり――そしてマイヤはきっと顔を上げて言った。
「ひ、『人喰いの館』!」
「…………あん?」
予想外の大声だった。
マイヤは必死の口調で言葉を続ける。
「こ、このお屋敷は、『人喰いの館』で、だんな様のお名前は、リーンハルト様。あってるです、よね?」
「……間違っちゃいない」
『人喰いの館』というのは、街の人々がこのボロ屋敷に付けたあだ名である。
俺は他人とほとんど交流を持たずに生活している。
しかも、屋敷の外観を見栄えよく保つ努力などしていない。
気味悪がられるのも、あることないこと噂されるのも、まあ当然だし、それがどこかでマイヤの耳に入る可能性もなくはないだろう。
しかし――
「俺の名前もレオに聞いたのか?」
こちらを把握している人間は、そう多くないはずだ。
「は、はい。『リーンハルトという男を訪ねなさい。街外れの『人喰いの館』と言えば大抵の人は知っていて、尋ねれば道順を教えてくれるだろう』って。実際その通りで――」
そこでマイヤは何かを思い出したように、あ、と口を開ける。
「そうだ、紹介状……! 少々お待ちください!」
スカートのスリットから覗かせた尻尾をゆらゆらと揺らしながら、部屋の隅に置いた荷物をかき回す。
ややあって、声が上がった。
「あった! これです!」
マイヤは俺の元に駆け戻り、得意げな表情で一通の書状を手渡した。
「レオ様からお預かりしました!」
俺は長イスの上に体を起こし、書状をあらためる。
街ではなかなか見ない上質の巻紙。
丁寧な封蝋と押印がなされていた。
(皇家の紋章……本物、だな)
であれば、奴からのもので間違いないだろう。
開いて目を通す。
『親愛なる我が友リーンハルトへ』から始まり、『先日の奴隷を一人、そちらに送る。なに、報酬代わりなので礼には及ばないよ。君にふさわしい娘だから、ぜひ使ってやってほしい』というようなことが書かれていた。