37話 マイヤ、取られたものを取り返しますです!(5)
「あなたは自分で思ってるほど弱くはないということでしょう。とはいえ、この結果にはさすがに驚いたけど」
ファリンさんは小さく肩をすくめて、クアンさんクオンさんに介抱されているルアンさんを見やりました。
「まあ、兄さんたちには良い薬だと思うわ。少しは考え方を改めるべきね」
ルアンさんはゆっくりと体を起こしながら、頭を振っています。
どうやら意識が戻ったようで、マイヤはほっとしました。
「ルアン兄さんに話があるのだったわね? 手早く済ませましょう。私たちも宿営に戻らないといけないし」
「あ、は、はい」
ファリンさんの言葉でマイヤは目的を思い出します。
そうです。お肉の代償を求めてこんなことをしていたのでした。
マイヤの方も体があちこち痛みますが、これでようやく対等にお話ができるはずです。
「あ、あのう、ルアンさん――」
しかし、マイヤはその先を口にすることはできず、吹っ飛ばされて地面に転がりました。
立ち上がったルアンさんにいきなり蹴られたのです。
「ざけんな……んだよ、そりゃ……」
ルアンさんはうつろな目で、ぶつぶつと何かを呟いています。
そこにさっきまでの余裕は欠片も見えません。
「俺が、この俺が、負けた? 《折れ耳》ごときに?」
そのまま、ゆっくりとこちらに歩いてきます。
明らかに冷静さを失っているようです。
その表情は、怒りというよりも……怯えや焦りに近いもののように見えました。
「う、あ……」
派手に飛ばされたマイヤは、背中を強く打ち付けていました。
まずい、です。とっさには動けません。
「お、おい、兄貴、それ以上はまずいだろ」
「落ち着けって――うわっ!」
止めようとしたクアンさんとクオンさんを腕の一振りで殴り飛ばし、ルアンさんは足を進めます。
そして息を荒らげながら、倒れているマイヤを見下ろしました。
「なんで、なんでてめえが、そんな……。てめえなんかが及びもつかない、化物みてえに巨大な敵と戦うために、今日まで鍛え上げてきたんだぞ、俺は」
どこか狂気をはらんだ顔で、ルアンさんは拳を握りしめます。
その背後、ファリンさんが槍斧を構えたのが見えました。
言葉では止まらないと判断したのでしょう。
そして――次の瞬間、マイヤは息が止まるほどの驚きに見舞われ、大きく目を見開いていました。
「こんなの、ありえねえ! ありえねえだろうがッ! 俺の敵は、てめえなんかじゃねえ! 竜だ!」
ルアンさんの背後のファリンさんの、そのまた後ろ。
真っ赤な夕焼け空の向こうから。
「俺はどでかい竜をぶっ殺せるほどの力を身につけようと――」
「危ない! 伏せてくださいッ!」
マイヤは声を限りに叫びました。
同時に周囲一帯を大きな影が覆い、飛来した小山のような何かが着地。
マイヤの目の前にいたルアンさんが巻き込まれ、蹴飛ばされ、向こうの壁に激突して、瓦礫の中に姿を消しました。
まるで激流に呑まれる木の葉のようなあっけなく。
マイヤも、ファリンさんも、クアンさんとクオンさんも、そして道を行き交う人たちも、轟音に驚いて窓から顔をのぞかせた人たちも――みな声を失い、地上に降り立った巨大なモノを見上げます。
実際、それは生物にあるまじき大きさでした。
これに比べれば虎族の巨体も足元の小石に等しいでしょう。
あまりに現実離れしていて、目の前の光景に実感が持てません。
深紅の鱗。
太い尾。
鋭く尖った手足の爪。
無数の杭が不規則に林立しているような牙。
マイヤがこれまで見たどんな生き物にも似ていませんけど……むりやり例えれば、太ったトカゲやワニを二本足で立たせて、さらにうんと大きくしたなら、こんな感じになるでしょうか。
実物を見るのは初めてですが、その姿は絵やお話で知っているです。
「……り、竜?」
マイヤは呟きました。
(な、なんで? どうして、こんなところに竜が?)
頭の中をぐるぐると疑問が渦巻いています。
いえ、これまで確かに竜についての噂は耳にしていたのです。
辺境で竜の目撃談があるとか。
その目撃地点が少しずつ街の方に移動してきているとか。
ブラウヒッチ様の獣人隊が街を竜から護るためにやってきたとか。
隊商が竜に襲われて、アデリナさんのお店に食料が届かなかったとか。
でも、どこかに『まさか、こんな街中にまでやってこないだろう』というような思いがあって……
実際にこうなった今も、マイヤは何をどうするべきかわからず、地面に尻もちをついたまま、ただ竜を見上げていました。
そのとき、声が響きました。
「すぐに竜から離れなさい! 死ぬわよ!」
ファリンさんです。
マイヤははっと我に返り、這うようにして何とかその場から遠ざかりました。
一呼吸おいて周囲の人々も正気を取り戻したらしく、口々に悲鳴をあげながら蜘蛛の子を散らすように逃げていきます。
真っ赤な竜は足元で騒ぐ人間たちには目もくれず、街の中心部に向けてさらに跳躍しました。
脚や尾の下敷きとなり、石造りの家々がいともたやすく崩壊していきます。
これはもはや、移動する災害です。
「クアン兄さんクオン兄さんは、ルアン兄さんを掘り返して引きずり出して。そして一度宿営に戻り、隊の方に状況を報告すること」
「でも」
「しかし」
「足元の定まらない酔っ払いがいても、邪魔なだけなの」
ファリンさんはてきぱきと指示を出し、そしてこちらに視線を向けます。
「動けるようなら、マイヤも街の外に逃げなさい」
「は、はい。――あの、ファリンさんは、どうするつもりなのです?」
「街の人たちを誘導する。あと、できれば竜の足止め」
「そんな……」
無茶です、という言葉を飲み込みました。
人竜戦争当時、見習い兵の立場で従軍していたファリンさんは、竜と闘った経験があるのです。
マイヤに指摘されるまでもなく、無茶なのはよくわかっているはず。
それでもやらなければ、ということなのでしょう。
マイヤにできることは、何かないのでしょうか?
……いえ、ゴミクズがこの場に留まっていても邪魔なだけかもしれません。
そうです。この街には竜殺しの英雄がいらっしゃいます。
まずはリーン様のところに戻り、起こったことをお知らせして――
「…………!」
そこであることに気が付き、マイヤは雷に打たれたように体をこわばらせました。
「マイヤ?」
ファリンさんが怪訝そうに眉を寄せました。
迷ったのはほんの一瞬。
すぐにマイヤは大きく息を吐き――そして竜の後を追って駆け出します。
赤竜は建物の壊れる感触を楽しむようにゆっくりと跳ね、着地。
この方向にあと二度か三度ほど跳べば、その足の下は――マイヤのよく知る料理屋さんのあるあたり。
ルアンさんとやりあったせいで、体はもうボロボロです。
でも泣き言を言っていられるような猶予はありません。
「ちょっと、マイヤ! どこへいくつもり!?」
「この先には、アデリナさんとレニさんの……マイヤの知ってる人たちのお家があるのです!」
ファリンさんに怒鳴り返し、マイヤはさらに足を速めました。




