36話 マイヤ、取られたものを取り返しますです!(4)
「は? 要求?」
ルアンさんは眉をひそめます。
「てめえが、俺に? 正気か?」
「…………」
自分でも不思議でした。
マイヤは、こんなに勇敢な、あるいは無謀なことを口走るような性格だったでしょうか?
ルアンさんにケンカを売ったのは、自分らしくないことを承知の上で悩み、勇気を振り絞った結果です。
でも、さっきの台詞は、考えるより先に口から飛び出していました。
まるで煮えたぎる溶岩が胸の奥からせり上がってくるような、経験のない衝動だったのです。
「ふーん、面白ぇじゃねえか。ヘラヘラしてるだけのゴミクズも、怒ることがあるってわけだ」
ルアンさんが嘲るように唇を歪めました。
怒る……?
つまりこれは、怒りという感情なのです?
思えば、マイヤはずっと誰かの意思と決定を受け入れ、それに従うという生き方を選んできました。
大抵のことはマイヤより偉い人が決めてくれるので、自分の心と向き合う必要なんてありませんでした。
マイヤのお仕事は、ただ黙って言われたとおりにすることだったのです。
「……そう、マイヤはゴミクズです」
弱いし、臆病だし、意思を持つ意味も価値もない。
ただ服従するだけの存在なのですから。
「でも、だんな様は、そうじゃない」
マイヤを導いてくれます。
受け入れてくれます。
もしかしたら、ゴミクズではない価値を与えてくれるかもしれない人です。
「悪く言われるのは、許せない、です」
自分の気持ちを確認するように、ゆっくりと言いました。
この感情の名称なんてどうでもいい。
ただ、マイヤの目の前で、だんな様が悪く言われるのは嫌です。
どうしても我慢ができないほど、嫌なのです。
くは、とルアンさんは短く笑いました。
「じゃあ、力ずくで取り消させてみろよ」
ルアンさんは姿勢を低くします。
マイヤも少しだけかかとを浮かせて身構えます。
と――かきひきも前触れもなく、いきなりルアンさんが動きました。
「え?」
マイヤは目を見開きました。
先ほどと同じ、体当たり。
ただ――予想し覚悟していたより数段速かったのです。
稲妻のごとくジグザグに地面を蹴り、とんでもない速度でルアンさんはマイヤに迫ります。
マイヤは動きに惑わされないようぎりぎりまで目で追い、左前方から迫ってきた巨体を辛うじて回避。
が、どうやらそれも狙い通りだったようです。
「あ……」
すれちがいざま、ルアンさんの左腕がするすると伸びて、マイヤの左手をつかみました。
まずい、と思う間もありません。
「ひ、あ……かはッ!」
そのまま振り回されて、石壁に一度、地面に一度叩き付けられました。
「……お前が奴隷として売っ払われてから一年、こっちはひたすら鍛えてたんだよ。ちっと本気出せばこんなもんだ」
マイヤを放り出し、ルアンさんは得意げに言います。
「今度は噛みつく元気もねえだろ。ええ?」
マイヤに答える余裕はありませんでした。
なまあたたかい血が、頭から額に流れ落ちています。
頭の中にわんわんと鐘の音が鳴り響いています。
全身がバラバラになるほど痛くて、意識が遠のきそうになります。
「あのな、てめえが俺を許そうが許すまいがどうだっていいんだよ、ゴミクズ」
ルアンさんは、倒れ伏したマイヤの体をつま先で仰向けに転がしました。
茜色の空。
夕陽が路地を赤く染めています。
にやにやしているクアンさんクオンさん、そして、じっとこちらを見つめているファリンさんの姿がありました。
これ以上わずかでもマイヤがダメージを負えば、どれだけ意地を張ろうとしてもファリンさんに止められるでしょう。
「舐められるのは、確かに我慢できねえさ。見過ごしたら獣人隊のなかで笑いものになっちまう。でも今、何よりムカついてんのは――」
喉に足が乗せられました。
力加減しだいで、マイヤの首を踏み折れる位置です。
「お前みてえな脱落したゴミクズが、居場所を見つけたような面してることだ。このクソみてえな街の中でな」
「…………」
「だんな様を悪く言われるのが許せない? ざけんなクズが。俺らはここでその何倍も罵倒されてんだよ。それも、命を張らないクソ野郎どもからな。――なあ、獣人のてめえがちゃっかり見下す側に雇われてて、しかもすっかり馴染んじまってるのは、いったいどういうことだぁ?」
頭を打ち付けたらしく、まだ耳鳴りが収まりません。
視界がぐらぐらと揺れ、思考もなんだか霧がかかったようになっています。
はっきりしない意識の中で、ああ、わからなくもないかなあ、などとマイヤは考えていました。
……まあ、半分くらいは、ですけど。
マイヤは『強くなくてもいい』ということを、リーン様に教わりました。
そしてこのペリファニアで暮らし、リーン様やアデリナさんたちと触れあうなかで、そのことを少しずつ理解してきました。
ルアンさんにはそんなことを教えてくれる人も、そんな生活を経験をする機会もなかったのでしょう。
マイヤみたいなゴミクズが偉そうに判断できることではないのでしょうけど……やっぱりそれは、かわいそうなことだと思うのです。
でも。
「それでも、やっぱり半分だけ、なのです」
マイヤはそう呟きました。
だって、街の人に嫌われるのは、ルアンさんにも責任があるですよね?
彼らがルアンさんを理解しないというなら、ルアンさんも彼らを理解しようとしなかった。
獣人兵が闘争心と強さに誇りを持つように、人々も平和や日々の些細な営みを大切にし愛していることを知ろうとしなかった。
「何をブツブツ言ってやがる。意識が混濁してんのか?」
ルアンさんの舌打ちが聞こえました。
「くっそ、消化不良だな。てめえのあとで、てめえのバカ飼い主にしつけの責任を取らせてやるとするか」
そして何より。
だんな様を侮辱するのは、やっぱり許せない。
「だって、ルアンさん、は……」
「あー、もういい。寝言の続きは寝て言えよ、ゴミクズ」
ルアンさんは鼻で笑って、マイヤの首にのせていた足を大きく後ろに引きます。
頭を蹴り飛ばして、それで終わりにするつもりなのでしょう。
なので――
マイヤは跳ね起き、余裕を持ってそれをかわしました。
「……は?」
ルアンさんがぽかんと口をあけます。
驚くほどのことじゃないのに、とマイヤは思いました。
まるで夢を見ているようなぼんやりした意識のなかで。
なぜなら、マイヤを蹴るときのルアンさんは、あんまりきれいじゃなかったからです。
顎がわずかに上がって、標的から視線が逸れています。
体の重心がマイヤの指二本分ほど左側にずれています。
蹴り足の膝の角度が少し外を向いていて、勢いが逃げています。
踏み込みの幅がつま先一つ分足りてなくて、力が正しく伝わっていません。
これがリーン様だったら、もっときれいに無駄なく蹴り飛ばされるでしょう。
マイヤは英雄として戦場に居たリーン様を知りません。
それに、リーン様の戦う姿もほとんど見たことがありません。
でも、わかります。
少しでも視界に留めていたくて、一緒に暮らしているあいだ、ずっと目で追ってきたのです。
歩き方、立ち方、座り方、わずかな姿勢の変化にいたるまで。
リーン様はルアンさんなんかよりもっと完璧に、無駄なく体を使われます。
動きの一つ一つに、それ以外の解答がないと思わせるほど。
ああ、やっぱりルアンさんにリーン様を悪く言う資格はありません。
だって。
「だって、ルアンさんは……リーン様より、全然強くない」
その瞬間、自分の中で歯車がかちっとかみ合ったような……まるで何か新しい感覚が開いたような気がしました。
前方に、ルアンさんがあ然とした顔で棒立ちになっています。
リーン様ならこういうとき、どう動くでしょうか?
マイヤはこれまでに見てきた主の姿をもとに、頭の中で戦術を組み立て、そして動きました。
当然ながら距離をあけたままでは攻撃できないので、前に走ります。
我に返ったルアンさんが、右手を振り回しました。
動きがよく見えます。
いえ、正確に言うと――動きに先立って、ルアンさんの体の中を走る『力』みたいなものを感じ取ることができます。
(『勁』でしたっけ……?)
リーン様が遠く離れたリンゴを切ったときに操っていた、見えない力です。
ルアンさんのそれはリーン様より遥かに弱く無秩序で、使いこなす訓練などしたことがないのは明らかでした。
まず『勁』が起こり、動作が続く。
マイヤにとっては、大声で次の攻撃を教えてもらうようなものです。
大振りで打ち下ろされた右拳をかわします。
ルアンさんが左手を伸ばしました。
『勁』と視線の動きで狙いがよくわかります。髪をつかもうとしたのです。
これも、かわします。
するともう、こちらの手の届く距離になっていました。
懐にもぐりこみます。
ちょうど顔面の高さに膝蹴りが迫りました。
下がらずに半身になって空を切らせます。
膝蹴りを放ったため、ルアンさんの右足は地面から離れました。
ここで残った左足を取って、バランスを崩せば――
「う、お――おお!?」
ルアンさんは背中側に倒れます。
しかし、このままでは大したダメージにはなりえません。
受け身を取ろうとしたルアンさんの左手をつかまえ、手前に引きます。
体を支えて転倒の衝撃を和らげることが不可能になり、ルアンさんは側頭部から地面に落ちました。
がくん、と大きく首が振れ、こめかみが激しく地面に打ち付けられます。
そしてルアンさんは、もう起き上がってはきませんでした。
「……マイヤの勝ちね」
ややあって、声が聞こえました。
ファリンさんが驚いたようなあきれたような、なんともいえない表情を浮かべています。
「え……え? あれ?」
そこで、マイヤは我に返りました。
まるで夢から覚めたような気分で、周囲を見回します。
人気のない夕暮れの路地裏。
ファリンさん以上に驚いている様子の、クアンさんとクオンさん。
そしてマイヤの足元で、白目を剥いて気絶しているルアンさん。
「あ、あの……マイヤが勝った、のです?」
かなり酔っ払っていたとはいえ、そしておそらく油断していたのだとはいえ、このマイヤが、ルアンさんと闘って、勝った?
頭がズキズキしていますが、実感はありません。
というか、何をしたかもよく覚えていません。
リーン様を悪く言われて、許せないと思って――そのあたりから記憶が飛んでいる気がします。
それでも、この結果を見るに……確かにマイヤが勝利したようでした。