35話 マイヤ、取られたものを取り返しますです!(3)
「ちょっと、二人とも――」
「と、止めないでください、です! 大丈夫ですから!」
思い切り眉をひそめて割って入ろうとしたファリンさんに、マイヤはそう言いました。
いえ、後半は嘘なのです。
現在進行形で大丈夫ではありませんし、ことが終わった後で大丈夫でいられるとも思いません。
でも、正直にそれを言えば、ファリンさんはそれこそマイヤとルアンさんを殴り倒してでも止めようとするでしょうし。
「その、これは……マイヤにとって必要なこと、なのです」
迷いつつもそう付け加えると、ファリンさんは呆れたように軽く目を閉じ、そして一つため息をつきました。
「当然だけど、殺し合いをさせるつもりはないから。無理だと判断したら止める。クアン兄さん、クオン兄さんも手を出さないこと」
「出すわけねえだろ」
「ねえよな」
「ルアン兄さんもそれでいいわね?」
「……どうでもいい。俺がすぐにそのカスをぶちのめして終いだ」
最後にファリンさんはこちらに視線を向けます。
マイヤは無言で小さくうなずきました。
怖いのは、どうしようもないです。
でも、何とかルアンさんに強さを認めてもらって、話を聞いてもらって、リーン様のものを取り返せるように――
と、その瞬間。
マイヤが身構えるのを待つことなく、蹴りが飛んできました。
「――――!」
マイヤはとっさに両腕でおなかを庇いました。
もちろん、ルアンさんの蹴りはその程度で防ぎきれるものではありません。
派手に吹っ飛ばされて、マイヤはごろごろと転がりました。
痛がる暇も無く、上から巨大な足が落ちかかってきます。
これは両手両足で地面を突き放し、大きく跳んで、かろうじて避けることができました。
地面が大きくへこんでいます。
まともに受けていれば、マイヤの骨なんて簡単に踏み砕かれていたでしょう。
頬に一筋、冷たい汗が流れます。
「揉め事は力比べで解決する。それは確かに俺たち獣人兵の流儀だよなあ」
ルアンさんはゆったりとした足取りで、こちらに迫ります。
「あーいいぜ、付き合ってやるさ。たとえ相手が追い出された役立たずのクズチビだとしても――な!」
ぶおんとうなりを上げる拳。
マイヤは小さく悲鳴を上げながら、これも何とかかわしました。
当たれば終わり。捕まっても終わり。力では絶対に勝てません。
こうして逃げ回って何とか隙を見つけるしかないのです。
ルアンさんは少し苛立ったように舌打ちをすると、すっと構えを解きました。
そのまま無造作に歩み寄って来ます。
マイヤは油断なく姿勢を低くしました。
まさか、ケンカは止めて話し合おうというわけでもないでしょう(いえ、そうだとありがたいのは確かなのですが)。
拳が来るか、それとも蹴りが来るかと身構えます。
すると――突然、巨体が加速しました。
「あ――」
虎族の大きな体と、そしてその体格からは想像もできない俊敏さを生かした体当たり。
予想外の攻撃に、一瞬だけ反応が遅れました。
飛び退いて直撃は避けましたが、筋肉の盛り上がった肩がマイヤの足に触れ、大きく体勢を崩されます。
その隙を逃さず鋭く反転したルアンさんは、腕を振り上げ、ゲンコツでマイヤを地面に叩き伏せました。
「か――は……!」
呼吸が止まるほどの衝撃。
動けなくなったところで、胸に足が置かれます。
ほとんど力を入れていないでしょうに、マイヤは身動きできなくなりました。
「降参か?」
「…………」
痛い、苦しい――怖い。
視界が涙で歪みます。
声も出ません。
でも……マイヤは首を横に振りました。
ここで折れては意味が無いのです。
ルインさんは身をかがめ、マイヤの喉をつかんで引き起こしました。
「しばらく会わないうちに頭悪くなったか、《折れ耳》? 昔はちゃんと力の差をわきまえた、それなりに利口な奴だったがなあ」
マイヤの小さな体が持ち上げられ、壁に押しつけられます。
肺の中の空気が押し出され、こほ、と声が漏れます。
ルアンさんはぐいと顔を近づけ、お酒の臭いをさせながら続けました。
「燻製肉ごときがそんなに大事かね。金持ちに雇われてんだろ? あのくらいいくらでも買えんだろうが」
その通りかもしれません。
こんなことをしなくても、リーン様は取られた以上のものを買い直すことができるのです。
では、なぜマイヤが頑張っているのかというと。
こんなにも痛いのに、こんなにも怖いのに、くじけずにいられるのかというと。
「……マイヤは、だんな様の、もの、ですから」
「あん?」
多分、大事なのは一塊の燻製肉を取り戻すことではなくて。
自分の意志と力で間違いを正し、自分に恥じることなく胸を張り、リーン様の前に立ちたくて。
そして、これはゴミクズには許されないくらいの思い上がりであり、身の丈に合わない願いなのでしょうけど……
多分、マイヤはリーン様にふさわしい存在になりたかったのです。
「なんだかんだ言っても、お前はこっち側だと思ってたんだがな」
ふん、とルアンさんは鼻を鳴らしました。
「この街の人間族はクソだぜ? どいつもこいつも、俺たち獣人をゴミを見るような目で見やがる。やれ店が臭くなるから出てけだの、皇国通貨を持ってない田舎者に酒は売れないだの」
嘘ではないのでしょう。
マイヤはルアンさんと同じものを見たわけではありませんし、同じことを思うわけでもありませんけど……獣人に対して優しい人がそれほど多くないことは、よく知っているですから。
「だんな様とやらに、そこまで義理立てする価値あんのかよ?」
「――それでも!」
マイヤは必死に声を上げました。
「それでも、マイヤは、だんな様が、大事なのです!」
喉をつかまれたまま、ルインさんの太い手首を蹴り上げます。
力が緩む気配すらありませんが、それでも諦めず、何度も、何度も。
ルインさんは、牙をむいて笑いました。
マイヤの抵抗など、虫に刺されたほどのダメージにもなっていないのでしょう。
さらに指が食い込んで、息が詰まりそうになります。
「お前の主って、あの虚弱そうな男だったよな。なあ《折れ耳》、ちっと考えてみろよ。そもそも、お前に使いを任せるって時点で、そいつ、相当な間抜けなんじゃねえか?」
「…………!」
「肉の塊一つ守れないゴミクズを雇ってるってことは、結局、そいつも分別のねえゴミクズに等しいってこと――」
そこで言葉は中断され、ルアンさんは舌打ちとともにマイヤの体を放り出しました。
着地には失敗しみっともなく地面を転がりましたが、素早く起き上がり、激しく咳き込みながら距離を取ります。
リーン様がけなされた――と思った瞬間、マイヤの頭の奥で赤い火花が弾けたような感覚がありました。
そして気付いたときには両手でルアンさんの人差し指を引きはがし、そこに思い切り噛みついていたのです。
「てめえ、調子こきやがって……許さねえ」
ルアンさんは血の滴る指を押さえ、火の出るような視線をマイヤに向けます。
でも、マイヤはもうまったく恐怖を感じていませんでした。
何か別の激しい感情が、マイヤの胸の中で荒れ狂っているようでした。
「……許さないのはこちらも同じです、ルアンさん」
マイヤは唇についた返り血をぐいと拭います。
普段なら考えられないような言葉が、自然に口を突いて出ていました。
「マイヤは、要求するです。――だんな様に対しての悪口を取り消して下さい!」




