34話 マイヤ、取られたものを取り返しますです!(2)
「……アホか、てめえは」
ルアンさんはさげすむように鼻を鳴らしました。
「昼間の肉なんぞ、とっくに食っちまって胃袋の中にすら残ってねえに決まってんだろうが。――おい、さっさと戻ろうぜ」
「お、お願いです、もう少しだけ、話を聞いて下さいです!」
踵を返そうとするルアンさんに、マイヤは慌てて取りすがりました。
「マイヤ自身が一度認めてしまったのにひっくり返すのは、とっても、もうしわけないと思うのです。で、でも、あれは、本来だんな様のもので、マイヤが勝手にどうこうしたのが間違いだったのです。だからせめて、代金だけでも――」
「うっせえ」
わずらわしそうな声と共にルアンさんの大木のような足が飛んできて、マイヤの膝のあたりを勢いよく払います。
本気の十分の一も出していないのでしょうけど、マイヤが小さく悲鳴を上げてひっくり返るには十分な威力でした。
「きゃんきゃん吠えんな、ゴミクズが」
「ひ……」
尻餅をついたまま見上げると、先ほどよりさらに不機嫌さを増した顔がありました。
マイヤは心の底から震え上がりました。
獣人兵にとって『強さ』は絶対の基準です。
意見が合わなければ、力比べやときにはケンカで優劣をつけるのが普通。
そしてルアンさんたちは、マイヤにとって圧倒的な強者なのです。
落ちこぼれて軍にいられなくなったとはいえ、すり込まれた力関係からはそう簡単に自由にはなれません。
「ルアン兄さん、やめなさい」
と、そのとき、ファリンさんが戻ってきて仲裁に入りました。
「何を揉めているの? 何の話?」
「大したことじゃねーよ。なあ? 《折れ耳》」
「そ、れは……」
マイヤが言い淀んでいると、ルアンさんはにっこり笑って体を屈め、地面に片膝を立てました。
マイヤと目線の高さが大体同じになります。
そして大きく息を吸い――
「大・し・た・こ・と・じゃ・ね・え・よ・な・あ!? はっきり答えろや、オラ!」
「…………!」
マイヤは声も出せず、涙を浮かべて身を縮めました。
怖い、です。すごく怖いです。
心臓がばくばくと跳ね、尻尾と耳がぺたんと垂れたのがわかります。
――でも。
マイヤはここで引き下がるわけにはいきませんでした。
「……お、お使いの帰り、マイヤはルアンさんたちに燻製肉の塊を一つ、渡してしまったのです。それを取り戻したいと思っているのです」
「ああ、兄さんたちが脅したのね」
ファリンさんは事態を正確に推察して咎めるように目を細め、一方ルアンさんは大きく舌打ちしました。
見習い兵士時代から、マイヤがルアンさんたちにパンだのスープだのを取り上げられるのは、よくあることだったのです。
「私が責任を持って、後日何かで埋め合わせさせるわ。それで――」
「い、いえ」
マイヤはファリンさんの言葉を遮り、首を横に振りました。
昔からファリンさんには何かと力になってもらいました。
表情は乏しいけど、親切な方なのです。
今回も、もしかしたらお任せしておけば事は収まるのかもしれません、けど。
「これは、マイヤの問題なのです」
そうはっきりと伝えなければいけません。
マイヤがルアンさんたちから見下されるのは当然です。
おバカさんで、弱っちいゴミクズなのですから。
しかし、奪われたのはマイヤではなくリーン様のものなのです。
マイヤが弱いから。
おくびょうだから。
ルアンさんに勝てないから。
それらはリーン様にご迷惑をかけてもいい理由になるのですか?
逃げ帰って、『マイヤはゴミクズだから失敗を取り返せませんでした』とリーン様にご報告するのですか?
リーン様は楽しくて幸せな日々をマイヤに与えて下さいました。
そのリーン様を裏切るようなマネをして、マイヤはマイヤを許せるのですか?
マイヤは、リーン様のために在りたいと願ったのではなかったですか?
「だから、マイヤ自身が、何とかしなければいけないのです!」
言葉と同時に右手を後ろに引き――勢いよく前に突き出しました。
「……あ?」
小さな拳は、バチンと音を立ててルアンさんの顔に当たりました。
マイヤの手がしびれただけで、ダメージなんてほとんど無かったと思います。
でも、ファリンさんもクオンさんもクアンさんも、そして当のルアンさんまでが驚いたように目を見張って固まったまま、マイヤを見ていました。
誰もこんな行動は予想していなかったのでしょう。
「………おい、てめえ、何のつもりだ?」
やがてルアンさんは、ゆっくりと立ち上がりました。
口元にうっすらと血がにじみ、その目には抑えがたい怒りが見て取れます。
普段マイヤをからかうときのようではなく、不機嫌なんて言葉の範囲に収まるようなものでもなく、明らかな大激怒です。
恐ろしくて、マイヤの体が震え出します。
でも、たとえ無謀でも自殺行為であっても、前に進まなければなりません。
恐怖に打ち勝って、マイヤは口を開きました。
「ルアンさんに、ケ、ケンカを売ったのです! どうあっても、持って行ったお肉の分を、返してもらいます!」
そう、マイヤが間違えたのですから、マイヤが正すのです。
「もちろん、に、逃げたりせずに、高く買っていただけるのですよね!?」
そう言った瞬間、ルアンさんの顔から表情が消えました。
ただその目だけに殺意に等しい感情が燃えています。
『力こそが正義』。
獣人兵のなかに深く根を張っている言葉です。
そんな価値観のなかにおいて、明らかに実力が下のものからケンカを売られるというのは、耐え難い侮辱になります。
勝てると思われた、つまり舐められたということなのですから。
当然マイヤにまったくそんなつもりはありません。
それどころか、今も膝ががくがくするのを必死でこらえているようなありさまなのです。
でも他に手は思いつきませんでした。
取られたものを取り戻すためには、まずルアンさんにお話を聞いてもらわなければならず、そのためにはマイヤを一人の交渉相手として認めてもらうことが必要で――つまるところ、強さを示すことが唯一の方法だったのです。
マイヤは固唾を呑んで、返答を待ちます。
「……殺すぞ、《折れ耳》」
やがてルアンさんは小さく、ぞっとするほど平坦な口調でそう言い、その巨体を揺すって一歩前に踏み出しました。




