31話 マイヤ、だんな様のことが知りたいのです(4)
「お、ホントだ。《折れ耳》じゃん」
「お前、こんなところで何してんのぉ?」
ルアンさんに続き、双子のクオンさんとクアンさんが赤い顔で言いました。
こちらも酔っ払っているみたいで、少しろれつが怪しいです。
末妹のファリンさんは……姿が見えないですね。
今日は三人だけなのでしょう。
「え、えっと、だんな様に言い付かって、お使いに……」
「お使い、お使いかあ」
くは、とルアンさんは笑い声をもらします。
「牙のない駄犬も、あっち行ったりこっち行ったり程度はできるってわけだ。走り回るのは犬っころの得意分野だよなあ」
ちげえねえや、と双子がおかしそうに手を叩きました。
まだ日が高いというのに、皆さん、かなり呑んでいるようです。
だんな様もですけど……お酒というのはそんなに魅力的なものなのでしょうか?
「あ、あの、マイヤ、戻らないといけないので、失礼するですね」
「まあ待てや、《折れ耳》」
立ち去ろうとしたマイヤでしたが、後ろから襟首をつかまれました。
そしてそのまま、ぷらんと宙吊りにされます。
「は、放してください、です」
「なーんかさっきから、うまそうな匂いがするんだけどなあ? さあて、どっこからかなあ?」
ルアンさんは片手でマイヤを持ち上げたまま歌うように言い、鼻をひくひくとうごめかせ、そして空いた方の手をマイヤの背負い袋へと突っ込みました。
「あ……だ、ダメです!」
反射的に抵抗を試みますが、空中では手足をじたばたさせる程度のことしかできません。
その間にルアンさんは燻製肉の塊を掴み出し、ぽいとクアンさんに放りました。
「おお、こりゃいい肉だぜ。酒が進みそうだ」
「か、返してください!」
ようやく解放されたマイヤは、あわてて詰め寄ります。
しかし、クアンさんはからかうような笑みを浮かべ、今度はクオンさんに投げ渡しました。
「そ、それは、だんな様のなのです! お願いです、返して!」
「かてえこと言うなよ。――ほれ、ルアン兄貴」
また宙を飛んだお肉はルアンさんの手の中に収まりました。
飛びつこうとしたマイヤでしたが、一瞬早くルアンさんは手を高々と頭上に掲げます。
こうなると、背の低いマイヤには届きません。
「お肉を、か、返して――!」
それでも諦めず、マイヤは飛び上がって手を伸ばそうとします。
そのとき――
無言のまま、ルアンさんが足を踏み鳴らしました。
ドン!という音と共に地面が揺れ、足下の石畳が砕けます。
街の人が幾人か驚いたようにこちらを見ましたが、虎族の双子に視線で威嚇されると気まずそうに目を逸らして歩き去ってしまいました。
お肉をクオンさんに渡すと、ルアンさんは身をかがめてマイヤに視線の高さを合わせます。
「なあ、《折れ耳》よお」
生温かく、お酒くさい息。
「俺らはなあ、街を護るために体張ってんだ。だから栄養がたっぷりと必要なんだよ。それはわかるな?」
マイヤの頭にぽんと大きな手が置かれました。
不気味なくらい優しい微笑に穏やかな声ですが、目は全然笑ってません。
「お前の旦那様だって、この街に住んでるなら俺たちの保護対象ってことだ。だとしたら、感謝のしるしに酒のつまみくらい提供してくれても、罰はあたらないんじゃねえか?」
そーそー、と双子が笑い声混じりで同意します。
「で、で、でも……!」
マイヤが何とか言い返そうとしたとき、頭に置かれたルアンさんに指に力がこもりました。
ひ、と小さな悲鳴がもれ、膝が小刻みに震えます。
ルアンさんは怒らせると非常に怖い方です。
彼の力ならマイヤの頭を一息で握りつぶすなど造作もないということを、マイヤは知っています。
「そもそもな、お前のような弱っちい脱落者の分まで、俺らは命懸けで戦ってんだぜ? 何もできなかったお前に文句いう資格があんのか? あ?」
「…………」
マイヤは何も反論できませんでした。
同意したわけでも、納得したわけでもありません。
しかし。
ルアンさんに対する恐怖と。
『強さこそが正しさである』という、かつて叩き込まれた絶対的な掟と。
アデリナさんの店を出てからずっと頭の中をぐるぐると回っていた『自分は何の価値もないゴミクズである』という思いが――マイヤから完全に抵抗の意思を奪っていました。
「んじゃ、これはもらってくぜ。いいよな?」
「え、あ……」
ダメなのです。そのお肉はだんな様のものであって、マイヤなどが勝手に決めることは許されなくて――
「返事はどうしたッ!?」
突然、落雷のような怒鳴り声がとどろきました。
マイヤは身をすくませ……そして、思わず小さくうなずいていました。
ルアンさんは満足そうに笑いました。
「よーし、たった今この燻製肉は、《折れ耳》より差し入れとして自主的に提供された。感謝しつついただくとしよう」
そしてようやく頭から手を離し、弟たちに行くぞと声を掛けます。
マイヤは立ち去る三人の後姿を、ただ眺めていることしかできませんでした。
◆◇◆◇◆
マイヤが重い足を引きずるようにしてお屋敷に戻ると、リーン様はいつもの長イスの上でくつろいでおられました。
「ただいま、戻りました、です……」
「ああ、今日は遅かったな。アデリナんところで何かあったのか?」
「あ、あの、荷が遅れてて、商会からの連絡を待っていたのです。どうも、災害で街道が止まってるようで、まだしばらく到着が遅れるそうで。それでえっと、今日はお野菜が少し、少なめになると……」
マイヤの声は自分でもわかるほど震えていました。
リーン様は体を起こし、眉をひそめてマイヤを見ます。
「別にそれならそれでいいがな。で、何でお前はそんなひでえ顔してんだ?」
「…………」
マイヤは言葉に詰まりました。
お使いすら満足にこなせないなんて、それもだんな様のものを他の人に渡してしまったなんて、本来合わせる顔がないのです。
でも、ご報告しないわけにも……
「話せ」
重ねて促され、マイヤはうつむきつつ覚悟を決めます。
そして起こったことすべてを正直にお話ししました。
「…………」
沈黙が降りました。
マイヤはただリーン様のお言葉を待ちました。
叱られるでしょうか。
出て行けと言われるでしょうか。
何を言われても、マイヤは受け入れなければなりません。
やがてリーン様はふんと鼻を鳴らしておっしゃいました。
「ま、取られたもんは仕方ねえだろ、別にいいさ」
いつもと特にかわらない口調と表情でした。
「え……? あの、それだけ、です?」
「他に何かあんのか?」
「えっと、マイヤ、だんな様のお肉を、渡してしまいました。ですから、もっとお叱りとか、罰とか、あるものかと……」
お料理をおいしく作れなかったとか、うっかりご機嫌を損ねてしまったとか、そういうのとは話が違います。
マイヤは、リーン様のものを勝手に他の人にあげてしまったのです。
これは盗みを働いたのと同じではないのでしょうか?
「怒ったところで取られたもんは戻ってこねえし、肉を一日二日食わなかったところで別に死んだりもしねえ」
「で、でも……」
「兵士たちの価値観では、強いものの方が偉いんだろ? どうあがいても勝てねえのなら、渡しちまって正解なんじゃねえのか?」
「では……マイヤのしたことは、まちがってなかった、です?」
リーン様はしばらく沈黙した後、小さく肩をすくめてお答えになりました。
「俺は知らねえよ。自分で考えてみろ」
もやもやした気分を抱えたまま、マイヤは自分のお部屋にさがりました。
寝台に倒れ込んで、大きく息をつきます。
強いものは偉い、とマイヤが思っているのは確かです。
少なくとも弱くて兵士にもなれなかったマイヤが、虎族の戦士であるルアンさんたちに蔑まれるのは仕方のないことなのです。
お肉を渡してしまったことについても、リーン様は特に腹を立てておられるようには見えませんでした。
仕方ないと言ってくださり、それ以上のおとがめもなかったのですから。
であれば、もうマイヤがあれこれ悩む理由は何もないはず――なのですが。
「…………」
じわ、と目に涙が浮かぶのを覚えました。
『自分で考えろ』というリーン様の声が耳の奥によみがえったのです。
リーン様からのお叱りは甘んじて受け入れるべきだと思います。
一方、もし何かの間違いで褒められることがあれば、それはもう、とってもうれしく感じます。
いずれにしても、マイヤはリーン様に価値を定めていただけなければ、何者にもなれないのです。
なのに、『良い』でも『悪い』でもなく『自分で考えろ』と。
どういうことなのでしょう?
「もしかして……だんな様にとってマイヤは、褒める価値も叱る価値も無い、突き放して遠ざけるべき存在になってしまったということです?」
そう呟くと、胸がとっても苦しくなりました。
ぎゅっと枕を抱きしめて、涙をこらえます。
これまでマイヤはゴミクスでした。
他の人にどう貶されても当たり前だと思っていました。
当たり前なので、何を言われても辛くありませんでした。
なのに……こんな気持ちになるのは初めてのことです。
「……やっぱり、マイヤは、まちがえたのですね」
だって、こんなに苦しくなることが、正しいはずがないですから。
ルアンさんたちは強く、怖いです。
でも、もっともっと怖いことがあるのです。
マイヤはリーン様をがっかりさせたくないです。見放されたくないです。
視界に入れる価値もないと思われるのが怖くて怖くて、耐えられないです。
だから――マイヤは決意を固めました。
(まちがいを、正さなきゃ……)
そう、リーン様のものを渡してしまったのがまちがいであるなら――取り戻さなければならないのです。




