27話 レオの来訪、マイヤの未来(6)
普段、俺は朝だろうが夜だろうが眠くなったら寝、起きたくなったら起きるという不規則な生活を送っている。
特になすべきことがあるわけでもないのに、時間に縛られるのはバカバカしいと思っているからだ。
一日の大半は広間の長イスで過ごす。
眠るときもそこで毛布にくるまって横になるだけだが、床の上かイスの上かはそのときの気分次第である。
寝間着のマイヤがやってきたのは真夜中近く。
俺は起きていて、晩酌でも楽しむかと酒瓶に手を伸ばしたところだった。
そして幼い獣人は言った。
『マイヤと寝ていただけませんか』――と。
「…………」
俺は返答を待つマイヤを前にし、冷静に頭を回転させていた。
当然ながら『自分と寝てほしい』という言葉の意味するところは、状況に応じて様々に解釈できる。
まあ、何を指しているのだとしても、俺自身はそんなことにいちいち動揺するほど純情ではない、のだが。
これがマイヤの口から出たとなると、少々問題があると言わざるを得ない。
自己評価が限りなく低く、自分をゴミクズ同然の奴隷とみなしている娘だ。
仮に親愛の情があったのだとしても、主である俺と身分差を越えてただ一緒に眠りたいなどと主張する性格ではないだろう。
(となると……)
やはり、その、いわゆる、男女の営み的な意味なのか?
だとしても、こいつがどこまでそれを理解できているのか怪しいものだ。
健全な知識を仕入れられる環境だったかは疑わしいわけで、間違った理解をしている可能性も大きい。
なので――
(なので、どうすりゃいいってんだよ! おい!)
行き詰まった。
こういう場合に保護者として取るべき態度も口にすべき言葉も、さっぱり思いつかない。
俺はあまりにも無力だった。
夕方から天候がさらに悪化し、月光は厚い雲に遮られている。
みぞれ混じりの雨が窓を叩き、遠雷の響きがその音に重なった。
室内灯のほの暗い光だけが、無言で向き合う俺たちを照らす。
――と、そんな膠着状態はすぐに終わりを迎えた。
稲光。ドォンという大きな雷鳴。
マイヤが大きく目を見開く。
「ひ――」
「ひ?」
「ひぃやああああああああぁッ!! やだああああぁぁぁ!!」
声と同時に、小さな影が長イスに座る俺に飛びついてきた。
そのまま顔を埋め、ガタガタと震えている。
「あー……そうか、お前、雷が苦手なのか」
分かってみれば単純な話だ。そりゃ一人で寝るのは怖かろう。
「え? な、なんのことでしょうか?」
しかし、マイヤは歯の根も合わない様子で俺の腰にしっかりと手を回したまま、無謀にもとぼけようと試みた。
「か、かかか、雷が、こわ、怖いだなんて、そ、そんな、小さな子供のようなこと、あるわけが――ひぁああッッ!!!」
再び閃光と轟音。
ものすごい力で胴を締め上げられ、肺から空気が押し出される。
俺は危うく潰されたカエルのような声を上げそうになった。
「……強がっても、雷が止むわけじゃねえぞ」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい怖いです怖いですぅ!!!」
俺は小さくため息をついて毛布を一枚手に取ると、犬耳の上からマイヤの頭に被せてやった。
「音と光が多少マシになっただろ。そのまましばらく耐えてろ」
「ふぁい……」
「ついでに講釈だ。恐怖に立ち向かう手段は主に二つ。まず、それ以上に強い感情で上書きして恐怖を消してしまうこと。それが無理なら、強がらずに自分が怖がってるのを認めちまうこと。こっちは恐怖が消えてなくなるわけじゃねえが、いくらか気持ちに余裕ができる」
そして俺は毛布お化けを腰にくっつけたまま、ちびちびと酒を飲み始めた。
このあたりの地方では、冬の寒い日に海上で雷雲の発生することがある。
さすがに夏場ほどの頻度ではないが、珍事というわけでもない。
しばらくの間、雷は断続的に鳴り続けた。
獣人ならではの馬鹿力でしがみつかれているため多少動きは制限されるものの、酒瓶を傾ける程度なら別に不都合はない。
そのうち雷が遠ざかったらしく、ほとんど音も聞こえなくなった。
「もう大丈夫なんじゃねえか?」
「ほ、ほんと、です?」
おそるおそる毛布から顔をのぞかせたマイヤだったが、ぴくっと耳を動かすとすごい速さで顔を引っ込めた。
「ま、まだダメです! ゴロゴロいってるです!」
うーと唸りつつ、毛布の隙間から涙目でこちらを見上げる。
「……俺にはもうほとんど聞こえねえんだがな」
感覚が鋭いのも良し悪しである。
結局、マイヤが落ち着くにはそれからさらに時間を要した。
「――もう、大丈夫……だと思うです、多分」
やがて、自信なさそうな表情と声でマイヤは言った。
毛布を羽織ったまま少し体を離し、改まった様子で俺の隣にちょこんと座り直す。
「あ、あの!」
「んだよ」
「だ、だんな様にはご迷惑をかけてしまって、その、しかも、ずっと付き添っていただいたりして、マイヤはたいへんもうしわけなく……」
「付き添ってたつもりはねえよ。お前が居ようが居まいが、俺はここでのんびり酒飲んでるだけだしな」
実のところ、はうぁ、だの、ぎゃあ、だのとバリエーション豊かな悲鳴を上げるこいつの観察が存外に面白くて、酒の方は大して減っていないのであるが。
「しっかし、筋金入りの雷嫌いなんだな、お前」
別に責めたつもりはなかったのだが、マイヤはしゅんと肩を落とした。
「はい、怖がりなのです。だから、マイヤは立派な兵士さんになれなくて……」
「危険を恐れるのは別に悪いことじゃねえだろ」
むしろ本来、優秀な兵士に必要とされる資質であるはずだ。
と、そこで俺はレオが皇国全土の獣人兵に対して集中的に施した『教育』のことを思い出し、胸糞悪い気分になった。
弱さは悪、臆病は罪。
戦場で華々しく散ることこそ美徳。
竜に対する戦意を植え付けるため、意図的に作り出され刷り込まれた価値観である。
(でも、そこではじかれたというのは、逆に幸運だったのかもな)
あれはマイヤを初めてアデリナの店に連れて行った日だったか。
店から屋敷に戻った折、軽い気持で『勁』の基本を教えてみたところ、この娘は最初の一回で遠くに置いた果物の皮を切り裂いてみせたのだ。
マイヤには間違いなく才能がある。
それも俺に匹敵するか、もしかしたらそれ以上のものが。
これはつまり、鍛えてやれば竜の首を一撃で落とすような戦士になるのも可能ということである。
しかし一方で、戦闘、殺し合い向きの精神を持ち合わせていないのも確かだった。
戦いを生業とするものなら、すぐに『勁』を操る利点――遠距離攻撃の優位性に気付く。
しかしマイヤについていえば、そのあたりの感受性が極めて鈍い。
戦うものとしての思考ができないのだ。
小心で受動的な気性についてはいわずもがなである。
戦いに向かない者が高い戦闘能力を持ってしまうというのは、不幸以外のなにものでもないだろう。
戦場におもむいた場合、いずれ心が負荷に耐えられなくなる。
「ま、何にしても人竜戦争は終わったんだ。軍にこだわることはねえよ。何度か言ってるがな」
「そう、ですね」
平和的な気質なのは本来誇るべきことだ。
マイヤが兵士になる必要はない。戦う必要もない。
おそらく、もうそんな機会も訪れないだろう。
「そういやお前、兵士以外に何か将来なりたいものはねえのか?」
俺が尋ねると、間髪いれず答えが返ってきた。
「お役に立つ立派なメイドになりたいです!」
「役に立つってのは、どういう?」
「もちろん、だんな様のお役に立ち、だんな様の望むことをなんでも果たせることなのです!」
「俺が望むこと、ねえ」
頭をかく。
「あー、お前、自分で自分の価値を証明しようとは思わねえのか?」
自分の価値の判定を他人に丸投げするってのはどうなのだろう、と思う。
少なくとも、俺は我慢できねえが。
「ん? んー……むしろ、マイヤの価値をだんな様以外のどなたが決められるのです?」
しかし、犬耳の少女はよくわからないというように小さく首を傾げた。
「マイヤは前のお家を『要らない』という理由で追い出されたのです。弱くて役立たずなゴミクズ、それがマイヤの今の価値。ですから、だんな様が価値を決めて下さらない限り、マイヤはゴミクズのままなのですよ?」
マイヤは屈託なく微笑む。
そこに悲壮感や諦めや怒りの色はなかった。
こいつの中で、それは当たり前のこととして処理されているのだ。
「ですから、何でもお申し付けください。マイヤ、何でもやります。今はできないことでも、きっとできるようになりますから!」
「…………」
一つうなずいて、そうか、とでも言ってやればよかったのかもしれない。
しかし、俺は返答の言葉に詰まった。
「……え、えっと、ですね」
黙りこんだ主に不安を覚えたのか、マイヤは少し早口になって言葉を継いだ。
「だからといって、その、ほめていただきたいとか、評価してくださいとか、催促しているわけではないのです。マイヤは完全にだんな様のもので、全てにおいてだんな様のおっしゃることを受け入れるですということを言いたくて――」
「ああ、わかってる」
俺がそう言うと、マイヤはほっとしたような表情を浮かべた。
その後、俺たちは他愛もないおしゃべり(話しているのはほぼマイヤだったが)に興じた。
野菜の皮むきが少し早くなったこと、街で見かけた野良猫のこと、天気が悪いと洗濯物が乾かなくて困ること、アデリナに少しずつ料理のコツを聞いていること、料理以外の家事については娘のレニが詳しいこと――
そのうち、マイヤは俺の毛布にくるまったまま、うとうとし始めた。
こてんと頭を俺の体に預け、穏やかな寝息を立てる。
雷の恐怖から解放され、緊張がゆるんだのだろう。
(最初のころの余裕のなさと比べると、こいつの表情もずいぶんと明るくなったもんだな)
寝顔を見ながら、そんなことを考える。
しかし、同時に思う。
――このままでいいのだろうか?
多分マイヤは、何であれ俺が命じてやれば喜んでそれに従うのだろう。
そしてただ褒めてやれば十分に満足し、また次の命令を待つのだろう。
しかしそれは同時に、確固とした『自分自身』を持っていないということでもある。
俺は自分の胸をそっと押さえた。
最近は安静にしていてもときおり心臓の鼓動が不規則に乱れる。
おそらく俺は、マイヤよりかなり早くくたばることになるはずだ。
その後、こいつはどうなる?
自分をゴミクズだと信じ続け、他人に寄りかかって生きていくのだろうか。
「……負債、か。確かにそうなのかもな」
俺は眠るマイヤの頭をなでながら、つぶやく。
こいつは弱い自分自身を無価値だと断じる。
その価値観は、俺たち『竜殺しの英雄』を引き立て輝かせるため、レオが施した教育によるものだ。
だから負い目があるのは否定しない。
それを解消するためにマイヤを利用すべきではないというのも、その通り。
しかし、それは負債を踏み倒していい理由にはならないのではないだろうか。
「決めた」
俺はマイヤを育てる。
単に衣食住を与えるってだけじゃなく、手に職をつけさせマイヤが独りでも自信を持って生きていけるようにする。
ゴミクズではなく俺の付属物でもない、何者かにならせる。必ず。
それができたら、わずかなりとも負債を返せたと胸を張れるだろう。
――と、そこで俺は我に返った。
なんでこんなややこしいこと考えてんだ。
「……いつ死んでもいいと思ってたはずなんだが、な」
マイヤの卑屈さが見ていてイライラするからかもしれない。
あるいはレオに煽られてムカついたせいかもしれない。
いずれにしても、これは俺がやりたいからやることであって、決して良心や親切心からの行動ではない。
そこまで俺は善人ではないのだから。
その思考はいかにも自分に対する言い訳じみていた。
俺は苦笑し、そして眠気を覚えてあくびを漏らす。
眠ったまま永遠に目覚めなくなっても別に構わない、などと、かつては思っていた気がする。
今は、そんな考えは浮かばなくなっていた。
――だって、やろうと決めた何かを途中で投げ出すってのは、信条に反するからな。
俺はそんなことを考え、肩にマイヤの重さを感じつつ目を閉じた。
エピソード「レオの来訪、マイヤの未来」了。
次回は「マイヤ、だんな様のことが知りたいのです(1)」