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26話 レオの来訪、マイヤの未来(5)

「えっと、つまり、出て行かなきゃいけないというのは、マイヤがただ早とちりしただけ、です?」

「そういうこったな」

「…………」


 マイヤは唖然と立ち尽くした。

 その様子が妙に微笑ましく思われて、俺は小さく笑った。


「驚いたか? まあ、俺としては――」


 しかし、言い終えることはできなかった。

 マイヤの目から大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちてきたのだ。


「お、おい」


 俺は自分でも驚くくらい慌てた。


 一方、マイヤも自身の涙に戸惑っているようだった。

 目元をぬぐい、あれ?と首をかしげる。


 大きな衝撃を受けた場合、感情が停滞したまま体の反応だけが先行することがあるそうだ。

 まあ、大抵はすぐに感情の方も追いつくわけで――


「よ……」


 マイヤはぺたんと床に腰を落とす。


「よ、よ、よがっだあああああ! よがっだでずううううぅぅ!!」


 声を上げて泣きながら、そう言った。

 涙がさらにあふれて、柔らかそうな頬をぐしゃぐしゃにする。


「だんな様が、こ、怖いお顔をしてらっしゃるので、てっきり、マイヤが、ここを出て行くことになるのかと、思って、もう、マイヤは、もう――!」


 あとは言葉にならなかった。


 俺はというと、ただひたすらに混乱しうろたえていた。


 ――大泣きしている子供が目の前に居る。

 こういうときは、慰めるべきか、悪かったと謝るべきか、それとも落ち着くまで放っておくべきか……どうするのが正解なのだろう。

 竜を殺す以外、能のない男にはわからない。


 かつての俺はそうじゃなかったはずだ。


 子供のころは絵に描いたような腕白坊主で、近所のガキをまとめ上げつつ面倒をみていた。

 ケンカっ早かったため大人たちからの評判は真っ二つだったが、年下には懐かれ、それなりに信頼されていたと思う。

 少なくともチビどもをあやし、慰め、なだめ、泣き止ませる方法など、百通りは知っていた。


 今はもう、まったく思い出せない。

 そのことを認識して、俺は胃のあたりに大きな穴が空いたような頼りなさを覚えた。


「あー、悪い。その、騙すつもりはなかった」


 結局、芸もなく弁解めいた言葉を口にする。

 何だろうな、この情けないザマと自己嫌悪は。

 いや、身から出たさびなのだろうが。


「うっかり伝えそこねたんだ。何というか、お前を引き取るのが俺の中ではもう決定事項、当たり前みたいな感覚になってたもんだから、その後のあれこれに意識が向いてた」


 事実であるが、我ながら出来の悪い言い訳にしか聞こえなかった。

 しかし、マイヤはぴたりと泣き止んだ。


「当たり、前……?」


 涙に濡れた顔で俺を見上げる。


「今、当たり前とおっしゃった、です? マイヤがここに留まることを?」

「あ、ああ」


 俺はたじろいだ。

 恨み言の一つでも飛んでくるかなと思ったのだ。


 そうではなかった。

 マイヤはぎゅっと目を閉じ、小さな唇からぽつりと言葉を漏らした。


「……嬉しい」

「は?」


 思わず聞き返す。


「嬉しい。嬉しい嬉しい! マイヤ、すごく嬉しいのです! だってだってマイヤがここにいることが『当たり前』なのですよ!」


 抑えきれないというように声を大きくし、マイヤは床に座ったままぐいと身を乗り出した。


「追い出すとか、売り払うとか、罰を与えるとか……そういうこと一切無しで、マイヤの望んだ場所に居られるのが『当たり前』だと、そうだんな様は思ってくださったのです! こんな幸せなこと、初めてです!」

「それは、また――」


 ずいぶんとお手軽な幸せなんだな、と言おうとし、思い留まった。

 望み通りの居場所を手に入れるというのは、決してありふれた当たり前の幸福なんかではない。

 多くの者が家や財産や命を失った人竜戦争後は特にだ。


 俺は頭を一つ振って言い直した。


「あー、んじゃ、それに免じて、驚かせたことはチャラにしてくれねえか?」

「とんでもないです!」


 マイヤはぶんぶんと首を横に振る。


「受けたご恩を思えば、どんな扱いをされても文句などないのです。むしろ、マイヤ、お礼と感謝を込めてどんなことでもやります!」


 そして、少し申し訳なさそうに付け加えた。


「あの……最初のときみたいに、ここで雇っていただきたいからではないのです。今度のは、ゴミクズなりに、その、少しでもだんな様のお役に立ちたいと思って」

「あ、ああ、そうか」

「はい! 至らぬ身ではあるですが、いっしょうけんめいお仕えいたします! 今後ともよろしくお願いします!」


 マイヤは泣きはらした目を細め、これ以上ないくらい晴れやかに笑った。


「で、とりあえずは、だ」

「はい!」

「アデリナのとこで買ってきた食料、しまってこい」


 マイヤは、あ、と声を上げて赤面する。

 どうやらすっかり忘れていたらしかった。


 背負い袋を軽々と担いで小さなメイドが厨房の方へ消えると、俺は大きく息をついた。

 なんだか、どっと疲れた。


 純粋無垢というか世間知らずというか……どうにもこう、マイヤの感情の動きは突拍子もなくて振り回される。


(いや――むしろ、それで当然なのか)


 俺以外の人間は俺ではない。

 性格も、ものの考え方も、価値観も違う。

 だから驚かされたり、刺激を受けたり、ときには衝突したりしながら、折り合いを付けていくもの。


 ああ、そうだな。人と関わるってのは本来そういうことだ。

 他人と生活することなど久しくなかったから、忘れかけていた。


 もう一度、俺は息を吐く。

 動転したことで気分が切り替えられたのか、いつのまにかレオとの会談による不快感は消えていた。

 この点はマイヤに感謝するべきかもしれない。


 そんなことを考えていると、マイヤが戻ってきてひょいと応接室の入口から顔を覗かせた。


「あの、だんな様、お昼ご飯はどうされるですか?」


 そういえばそろそろ昼か。

 午前中に使いに出したマイヤが帰ってきてるわけだしな。

 俺は窓の外に目をやったが、今日は雲が厚く太陽の位置は確認できなかった。


「軽く食う。出来上がったら広間の方に持ってきてくれ」

「はい! かしこまりましたー!」


 元気よく答えて、また厨房の方に戻っていく。

 見るからに上機嫌な様子だった。


 のんきな亀のごとき速度ではあるものの、マイヤの料理の腕は一応上達の気配を見せている。

 現状、ほとんど肉を煮るか肉を焼くかの二択だが、火加減と塩加減のばらつきはどうにか許容範囲に収まるようになってきた。

 

 ……まあレパートリーの方はそのうち増えるだろう、と信じておく。

 確証があるわけではない。しかし未来には無限の可能性が広がっているのだ。

 希望はないよりあった方がいいに決まっている。


「無限の可能性、か」


 俺はつぶやき、半ば無意識に髪を掻き上げた。


 獣人たちに対して負い目を抱いているのでは、とレオに指摘された。

 当たっているとは思う。

 おそらくは、俺がマイヤを引き取る気になった要因でもあるのだろう。


 しかし、動機や経緯がどうあれ、このチビを引き受けて面倒を見ると決めた以上、責任が生じる。

 死んだような余生を送る俺と違って、マイヤの人生はまだまだ続くのだ。


 では――俺がすべきことは何だ?

 寝る場所と食べ物を提供して、それだけで十分なのか?


 いや、単なる憐れみや義務感以上のものが必要だろう。

 幼い子供に対して責任を持つとは、そういうことだからだ。


(つっても、具体的な指針がぱっと思い浮かぶものでもねえよなあ)


 俺は顔をしかめ、うーと唸った。

 まったく、竜を百頭殺すより、子供一人を真っ当に生かす方がずっと難しい。


 かつての俺は、弱いもの、小さいものとどう接していたか。

 そこから思い出さなければならないようだった。

 竜殺しになる前――平凡に生きていたころの自分の姿は、もう遠い世界の出来事のように感じられる。


「とりあえず、今まで通り家事を任せて……その中でマイヤ自身が何かやりたいことを見つけたら、できる限り叶えてやる、と」


 今はその程度だろうか。

 まあ、ほとんど自己主張をしない奴であるし、そんな機会がそうそう訪れるとも思えないが。

 そう結論を出して、俺は思考にひとまずの区切りをつけた。


 ――しかし。

 この『マイヤの希望を叶える』という俺の方針は、その夜のうちにさっそく試されることになる。


     ◆◇◆◇◆


 夜更け。薄暗い部屋の中。


「……あのな、もう一度確認するぞ」


 努めて無表情を保ちつつ、俺はそう言った。

 どんな顔をするべきか、自分でもわからなくなっていたのだ。


「つまりだマイヤ、お前は――この俺と寝たいと思っている。そういうことか?」


 うるんだ瞳で俺を見上げ、犬耳の娘はこくんとうなずいた。

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