21話 マイヤ、ご飯のお礼にお手伝いします(5)
お屋敷に入ると、マイヤは背負い袋を厨房に置きました。
本来はこの後、食材を食料庫に片付けるべきなのですが、今はリーン様のお話を聞かなければなりません。
そのリーン様はというと――先ほどマイヤが降ろした背負い袋をゴソゴソと探りつつ、何やら考え込んでおられるご様子。
「……んー、まあ、力を思いっ切り加減すれば反動もこねえ、か? 多分、大丈夫だとは思うが」
そんな呟きが聞こえます。
「あ、あの、どうかされましたです?」
「ん? ああ、いや……」
なんでもない、と言いながらリーン様は小さなリンゴを取り出しました。
召し上がるのでしょうか?
手の中でリンゴをもてあそびながら、リーン様はお話を始めます。
「さて。まず問題点の確認からだ。『自分が望む自分』を育てることがなぜ難しいか? ――それは、お前が自信を持ってねえせいだ。何が正しく何が間違っているのか、という自身の判断を信じ切れないから、何通りもの矛盾した『自分』を自分の中に飼うことになる」
その通りだと思うです。けど――
「……難しいです、自分を信じるの」
マイヤはぺたんと耳を伏せて、そう言いました。
少なくとも、前のお家――ブラウヒッチ家ではお役に立てたことがなかったですし、あげく要らないと言われて売りに出されたわけですし……
マイヤには、自分を信じられる根拠などないのです。
「マイヤは……どうすればいいのでしょうか?」
「『これが自分だ!』と言えるものを、一つでいいから身につける」
即答し、リーン様はリンゴをぽいっとこちらに投げました。
慌てて胸の前で受け取ります。
「例えば肉体的な強さ。――見てるとお前の場合、弱くて軍を追い出されたってことが特に大きな引け目になってんだよな。なら、鍛えて強くなってみるってのも一つの手かもしれない」
「マ、マイヤが強く?」
「『外には外の価値観がある』とは言ったが、強くなること自体は別に悪いことじゃねえよ。あの虎族をぶちのめせるほど強くなれたら、それはそれであっさり自信が付くだろ」
「ルアンさんたちをぶちのめせるほどって……む、むむ、無茶です!」
声がひっくり返りました。
「絶対無理です! そんなのっ!」
「……いや、やる前から諦めんなよ」
と、いわれましても……ルアンさんたちの強さはよく知っているのです。
過去の格闘訓練でも、かすりキズ一つ負わせることができませんでした。
「ま、他に自信がつけられるようなもんがあれば、別に何でも構わねえんだけどな。学問とか、料理とかでも」
「はあ……」
マイヤ、戦うよりもお料理とかのが良いですが。
「要するに、他人よりずっとうまくできること、あるいは他人に真似できないこと、そういうものを身につければいいってわけだ。そこで――」
リーン様は調理器具の棚から、小さな包丁を一つ手に取ります。
「今、リンゴとこれを使って、お前に教えてやれる技術が一つある」
「何か、リンゴのお料理を作られるのです?」
「まあ、見てろ。――お前に渡したリンゴ、手のひらの上にのせて前に差し出せ」
言われたとおりにして、腕を軽く伸ばします。
リンゴの大きさはマイヤの拳くらい。
片手の上に十分のりますですね。
「こう、です?」
「ああ、そのままじっとしてろよ」
そしてリーン様は、ゆっくりとした足取りで五、六歩ほどマイヤから距離を取り、こちらに向き直りました。
包丁は腰の高さ。
ちょうど鞘に収まった剣の柄に手を掛け、抜き放つ直前のような構えです。
「まず、余分な力を抜く。次に呼吸を整え、自分の体の内側に巡る力を意識する。そしてその力を――外側に解放」
軽く空気を裂くような音とともに、リーン様の右手が閃きました。
「わ……」
マイヤは思わず小さな声を上げていました。
――きれいでした。とっても。
舞踏のような、魅せるための動きではありません。
しかし、機能的な美とでもいうのでしょうか、目的のために限界まで研ぎ澄まされ磨きぬかれた理想の動きを、一分も乱れることなく完璧になぞってみせたような――そんな流れるような動作だったのです。
そしてリーン様が再び構えに戻ったとき――マイヤの手の上にあったリンゴは、四つに分断されていました。
マイヤは目を丸くします。
どんなに手の長い人でも、包丁の刃が届くような距離ではなかったはずなのですけど……どうやったのでしょう?
もしかして、お料理用の包丁魔術でも行使されたのですか?
やはりリーン様は魔術師で、厨房関係の魔術を研究されているとか……
「びっくりした、です。その、何かが包丁からぴゃっと出て、リンゴをすぱっと切り裂いたような……」
「え、お前、見えたのか?」
今度はなぜかリーン様が軽く目を見張りました。
「はい。あ、いえ……」
思い返してみると『見えた』わけではないと思うです。
光とか映像とか、そういうものを目で捉えたわけではありませんので。
ただ、何かがリンゴを切った、というのは確かにわかりました。
「えっと……見えたというより、感じ取ったというのが正確でしょうか」
「感じ取った、か。ふむ……」
リーン様は包丁を置くと、マイヤの手からひょいとリンゴを手に取り、口に放り込みました。
「お前も食え。もったいないから」
「あ、はい。いただきますです」
マイヤとリーン様は二切れずつリンゴを食べました。
まず強い甘味、その後にかすかな酸味がきて全体の味を引き締めています。
いいリンゴですね、これ。
「――『勁』って呼んでる」
「え……はい?」
「お前が感じ取ったものの名前だよ。もともと生物に備わっていて、誰もが無意識に使ってる力だ。ただし、その機能を理解して効果的に使いこなすには、それなりの訓練がいる。で、この『勁』を操る術のことを『勁功』という」
耳慣れない言葉です。
「東方の技法で、こっちの方にはあんまり伝わってないんだが。いきなり『勁』の動きを感じ取れたのなら、お前には才能があるのかもしれねえな」
「さ、才能……!」
胸が高鳴りました。
マイヤには縁がないものと思っていた言葉です。
「一度やってみるか?」
「は、はいっ!」
リーン様は背負い袋の中からリンゴをもう一つ取り出し、厨房の調理台の上に置きました。
「包丁を持って、三歩離れろ。――ああ、その辺でいい」
マイヤは先ほどのリーン様を思い出し、真似をするように構えます。
「さっき俺が口にしたコツは覚えてるか?」
「だ、大丈夫です」
「んじゃ、自分なりにやってみろ」
リーン様は一歩下がり、腕組みしてマイヤを見つめています。
(力を抜く、呼吸を整える、体の内側に巡る力を意識する、そしてその力を解き放つ――でしたっけ)
ひとまず、挑戦してみましょう。
まず、姿勢が崩れない範囲で脱力。
自然に呼吸が深くゆっくりとなり、鼓動が落ちついてきます。
一度リンゴのことは忘れて、自分の体の中を把握しようと集中。
普段は意識していませんけど、こうして立っているだけで体の色々な部分に複雑な力がかかっているのですね。
なのに、ほとんど努力せずとも均衡が保てているわけで――人体というのは実によくできているものだと思います。
さらに意識を深いところに沈めます。
生命を支え活動させるための力が、体の隅々まで根を張って循環しているのを感じます。
これが――『勁』なのですね。
(あとは……これを外側に――ッ!)
そう思った瞬間、体が自然に動きます。
マイヤは、ふ、と短く息を吐き、同時にびゅんと包丁を振り抜きました。
――どうでしょう? うまくいったのでしょうか?
「…………」
「…………」
二人の視線が、調理台の上のリンゴに集まりました。
が、しかし、リンゴは微動だにせず、そのままの形でそこに在り続けます。
何も起こりません、ですね。
マイヤはため息をつきました。
「ダメ、だったですね……」
「……いや」
リーン様は歩み寄ってリンゴをつかむと、マイヤの目の前に差し出します。
「あ」
皮にうっすらと切れ目が入っていました。
いえ、切れ目と呼べるのかどうかもあやしいくらいの、赤ん坊が爪で引っかいたような浅いキズですが……それでもマイヤがつけたものに間違いないのです!
「だんな様――!」
喜びに顔を輝かせてリーン様に視線を向け……そこでマイヤは、笑みが消えるのを自覚しました。
リーン様が眉をひそめ、難しい表情でリンゴのキズを見つめていたのです。
「……一度目がこれ、か。マジかよ」
小声で呟かれたそんな言葉が、耳に届きました。
――うん、そうですね。
リーン様はもっと遠いところからでも、正確に、余裕を持って、リンゴを切ることができました。
一方マイヤは、やり方を教えてもらっても、皮にキズをつけるのがせいぜい。 こんな程度では、お料理の役にはとても立ちません。
切れない包丁に価値はないのです。
がっかりされるのも当然でしょう。
マイヤは一つため息をついて、口を開きました。
「……そういえば、この『勁功』って、先日マイヤを人買いさんから助けていただいたときの術ですね?」
「あ? ああ、そうだな」
我に返ったようにリーン様は肯きます。
「そっか、マイヤはこのお料理魔術に助けられたのですね……。才能がないのは残念でしたけど、でもまあお料理なら、魔術がなくても何とかなりますし」
大丈夫です。がっかりすることにもされることにも、慣れてますから。
しかしリーン様は、戸惑ったようにパチパチと目を瞬かせました。
「お料理魔術? ってか、いや、今の台詞の中に何か所もツッコミどころがあった気がするが……」
……?
マイヤはまた何か変なことを言ってしまったのでしょうか?
「なあ、マイヤ」
「はい」
「お前、見習いとはいえ、対竜部隊の兵士だったんだよな?」
そうです。訓練だけで実戦は経験してませんけれど。
「一つ出題する。遠くにあるものを切る術を自分が自由に使えるとしたら、どんな用途を思いつく?」
「え? え、えっと、今みたいに、お料理するとき遠くから食べ物を刻むとか――あ、でも、盛り付けたり食べたりするには、結局近づかないとダメなのですね?」
マイヤは首をひねりつつ、考えます。
「んー、調理台が多数あれば、その場を動かずに材料を切り刻んだりできるかもですが――あ、そうだ! 高い木の枝になっている果物とか収穫するのに便利です! あ、あと、ウサギなんかを狩ったりするのにも……って、ここまでくると、お料理魔術って感じではないですね」
「まず、魔術じゃねえよ」
リーン様がぼそりと口を挟みました。
「『勁』を操るのは、どっちかというと武術の範疇だな。剣術とか弓術とか格闘術とかの延長線上にあるもんだ」
「そう、なのですか」
あんな不可思議な現象が剣や弓と同種のものとは思えないのですが――他ならぬリーン様がおっしゃるなら、その通りなのでしょう。
「では、お料理武術なのですね」
「…………」
「だんな様?」
いきなり無言になって、どうかされたのでしょうか?
――と思っていると、リーン様はぷふっと吹き出し、そして、こらえきれないように肩を揺らして笑い始めました。
マ、マイヤ何かおかしなことをしてしまったのですか?
「あー、お料理武術か。そっか、そういう発想になるのか。そりゃどう考えても、兵には向いてねえよなあ」
「え……」
一瞬、失望されたのか見放されるのか、と恐怖を覚えましたが……どうやら悪い意味ではないようです。
むしろ、マイヤに向けたその視線は優しくて、まるで無邪気な子犬を愛でているかのようでした。
「『勁』はお前に必要ない技術だったのかもな。――ああ、気にすんな。お前はあんなもの使わなくても、ちゃんとこっちの世界で生きていける。いつかは
絶対にゴミクズ以外のものになれる」
楽しそうな声でリーン様はおっしゃいます。
「お前はそのままでいい。俺が保証してやるさ」
「そ、そうでしょうか」
どうやら褒められた、ようです。よくわかりませんが。
ひとしきり笑うと、リーン様はようやく笑いを収めました。
「ま、さっさと自分に自信を持つのに越したことはねえけどな。――んで、今一番興味があるのは、料理なのか?」
「は、はい、今のところは……」
「なら俺でも多少は教えられるし――機会があればアデリナにも教官役を頼んでおくか。専門家に教わるのもいいだろ」
「あ、ありがとうございます!」
そして『疲れたから少し寝る』と言い、リーン様は厨房を出て行かれました。
しばらくマイヤはその場にたたずんでいました。
なんというか、こう……リーン様があれほどお笑いになるのは、初めて見た気がします。
勝ち誇るでも、見下すでもなく、今まで見た誰のものとも違う表情。
なぜ笑っておられたのか、よくはわからないのですが――一つ言えるのは、マイヤはリーン様の笑顔が大好きになったということです。
才能なんてなくても、リーン様に笑っていただけるなら、マイヤはどれだけでもがんばれる気がします。
リーン様が一緒にいてくだされば、いつかきっとマイヤは強くなれるでしょう。
「……あ、整理しないと、ですね」
マイヤは背負い袋の中身を取り出し、片付けにかかりました。
しかし、ふと手を止めます。
あることを思い出し、晴れやかな気分にすうっと影が差すのを感じたのです。
マイヤについてのもやもやは、リーン様が解消してくださいました。
しかし、もやもやのタネはもう一つ。
――そのリーン様のこと。
ファリンさんが去り際、リーン様に囁いた言葉――実は聞こえていました。
狼犬族は耳が良いのです。
『では、失礼します。――作りものの英雄様』
彼女はそう言っていました。
どういう意味でしょう。
リーン様とファリンさんは、お知り合いだったのでしょうか?
エピソード「マイヤ、ご飯のお礼にお手伝いします」了。
次エピソードは「レオの来訪、マイヤの未来」です。




