12話 犬耳娘を連れて街に出た(1)
道ばたの枯れ草を揺らしながら、一陣の風が吹き抜けた。
「…………」
俺はぶるりと体を震わせ、首をすくめた。
まだ本格的な冬の到来には早いはずなのだが、今日はことさらに風が強く寒気が身に染みる。
――くそったれ。
「んー、今朝はいいお天気ですねー。お散歩日和です♪」
一方、隣の少女は上機嫌だった。
一歩ごとに、ふさふさした尻尾がぴこぴこと揺れている。
「……なあ、晴れてるのにクソ寒いって、タチの悪い詐欺にでも遭った気分にならねえか?」
「え、そんなに寒いです?」
マイヤはそうかなあという顔で首を傾げた。
着込んだ俺とは対照的に、こいつの服は屋内にいるときと変わりない。
メイド服のまま上着すら羽織らず、平然としてやがる。
多分、体の構造がどこか違うのだろう。
――うらやましいな、おい。
「これからもっともっと寒くなんぞ。も少し行けば広い河が見えるがな、真冬になるとそこもガチガチに凍り付くんだ」
「へえええ」
怯むどころか目をキラキラさせながらマイヤは声を上げた。
「すごいのですね! 冬は氷遊び、夏は水遊びができるです!」
「……俺はどっちもごめんだがな。寒いのは嫌いだ。泳ぐのはもっと嫌いだ」
ついでに言うと、歩くのも好きではない。
屋敷から街中へ出る程度の距離であってもだ。
実際、日の高いうちに街に出るのは、ずいぶんと久々である。
前回の外出は 真夜中にレオの要請で駆り出され、奴隷商人をとっつかまえた(そしてマイヤに出会った)ときで、そのもひとつ前となると――もう記憶がおぼろげになる。
身を切るような寒風もだが、日差しが目に刺さってチカチカするのもこたえる。
太陽ってこんなに眩しいものだったのか。
街外れにある屋敷から市街地へ向かう段階で、早くも俺の心は挫けかけていた。
そもそもの始まりは、俺がマイヤに買い物を命じようと考えたことだった。
食料の蓄えが予定より早く底を突いてしまったのである。
人数が二倍になったのと、あとマイヤがちっこい割にかなり食うのがその原因。
普段、食料は定期的に屋敷まで届けてもらっているのだが、次の配達は早くても明日だ。
そこで、街へ行って調達してこいとマイヤに金子袋を渡したのだが――
「あの、だんな様……この中のピカピカしたのは何なのです?」
中をあらためたマイヤは不思議そうに言った。
「白っぽいのと赤黒いの、二種類あるですね……」
「何って……銀貨と銅貨だろうが」
ああ!とマイヤは声を上げた。
「うわさに聞くお金というものですね! 何でも、これがあれば色々な品物と交換してもらえるのだとか!」
「……お前、もしかして、買い物したことねえのか?」
「はい、一度も!」
なぜか嬉しそうにマイヤは肯定した。
まあ……幼い頃から訓練兵として扱われ、自由な外出も許されず、ほとんど世間を知らないまま育てばそういうこともあるだろう。
それ自体は別にマイヤの責任ではない。
が――だからといって、そんなメイドに金を預け、買い物を任せるというのも大いに不安である。
で、俺がマイヤに同伴し、貨幣の価値と買い物のやり方を覚えさせる必要が生じたのだった。
「……メイドに仕事を任せようとしたら、逆に俺の仕事が増えた。いったいどういうことなんだろうな」
ゆっくりと足を進めながら、俺は嘆いた。
「だ、大丈夫です、だんな様! マイヤ、すぐに覚えますから!」
「そう願いたい。あー、寒い寒い帰りてえ……。俺のひきこもり生活は深刻な危機に瀕している」
「でも、あの、たまには運動とかされた方が、体にいいかと――」
と、そこでマイヤは言葉を切り、少し真剣な顔になって続けた。
「えっと、もしかして……だんな様は、何か重いご病気だったりするですか?」
「……なんでそう思う?」
「マイヤが初めてお屋敷に来たとき、とても具合が悪そうでしたし……」
そういやそうだったな、と思い出す。
「あれは……体質みたいなもんだ。ときどき体調を崩す。体力がありあまってるとは言えないが、別に病気ってわけでもねえよ」
「でも、あまりお外にも出られないようですし」
「面倒だし用もねえからだ」
「何より、お体が細いです」
「……お前だって細いだろうが。何の関係があるんだよ」
だって、と犬耳の少女は言った。
「マイヤはお仕えする立場ですから。細くて当たり前なのです。でも、お仕えされる立場の方々は、たくさん食べてふくよかになられるものではないのです? マイヤの知っている貴族様たちは、みんなもっとこう――」
マイヤは自分の体の前に、両腕で大きな円を作った。
「丸っこい体つきをしておいででした。特にお腹のあたりとか」
まあ、貴族ならそうなんだろうな。
下僕が飢えて細ることがあっても、主がそうなってはいけない――というのが、上流階級における一般的な価値観だろう。
あいつらにとってやせた体は貧しい生活の象徴であり、恥ずべきことなのだ。
「あ、でも、だんな様は細いですけど、腕や肩やお腹にしっかり筋肉が浮いているですね。まるでマイヤたち獣人の、それも戦士みたいな――あ、いえ……」
そこでマイヤは慌てたように付け足した。
「だんな様が獣人に似ているとか、言うつもりではなくて……」
「いいさ、別に。切った張ったは柄じゃねえが、たるんだ体と言われるよりは光栄だ。そもそも俺の実家は貴族じゃなく、田舎の下級騎士だったしな」
――もう、実家も故郷も存在しないが。
「細っこいのが気になるなら、お前がうまい飯作って俺を太らせりゃいいだろ。専属の料理人なんだから」
「あ、なるほど、確かにです」
軽口のつもりだったのだが、マイヤは真面目な顔で肯いた。
とはいえ現状、料理の腕前という意味では、あまり期待できないのだが――
「マイヤ、がんばってお料理上手になるですよ、うん」
俺の考えを読んだのかマイヤは先回りして言い、そして花のほころぶような笑みを浮かべた。
「……ま、努力する気があるのはいいことだ」
その過程において量産されるであろう失敗作を誰がどう処理するかは、この際考えないことにした。
マイヤがやってきて、今日で四日目。
新しい環境にも慣れたのか、口数はずいぶんと多くなった。
もともと陽気な性格ではあるようだ。
(ただ……な)
この少女の中には、病的な自己評価の低さも同居している。
命を差し出すなどと口走ることは少なくなったが、自己否定がマイヤの中から完全に消え去ったわけでもないだろう。
まだまだ自分自身を『ゴミクズ』とみなしているのがかいま見えるあたり、むしろ除去困難なほどにがっつりと根を下ろしている気もする。
マイヤの人格形成に対して俺個人が責任を取ろうなどと思うのは、筋違いで、かつ傲慢な考えだ。
しかし……無関心でもいられなかった。
自分のやってきたことを思えば、なおさら。
間接的にであれ、関わっていたのは――確かなのだから。
(……まあ、すべてはレオの野郎に一言二言文句言って、それからか)
俺は小さく息を吐いて、気持ちを切り替えることにした。
これからマイヤに金の使い方、およびその他一般常識を教えるという、大仕事が待っているのだ。