夢の終わりに (短編ファンタジー)
「夢の果てに(短編)」
(一)トンネル
電車がトンネルに入ったところで俺は目が覚めた。
たぶん国境を越える長いトンネルだろう。
ここを越えれば、雪国の銀世界が車窓から見えるはずだ。
北国のローカル線だけに利用者は少なく、
この車両にいる客は俺一人だった。
突然、車内の蛍光灯が全部消えてしまった。
真っ暗だ。そして電車はゆっくりと減速し、
ブレーキのきしむ音もなく、自然に止まってしまった。
トンネルの中でだ。
登山用ザックの中からLEDランタンを取り出して点灯した。
車内を見る、客はやはり俺一人だけだ。
窓の外はコンクリートの灰色の壁が見える。
車内放送は無い。不安になった俺は車掌に話を聞こうと
思い、最後尾の車両へ行った。
ランタンで真っ暗な車内を照らしながら歩く。
どういうわけか客の姿が無い。
車両の最後部に行ったが、何故か車掌は居なかった。
運転席のドアが開いていた。窓から外を見る。真っ暗だ。
ライトを照らすと線路と枕木が闇の中に浮かび上がる。
トンネルの先を見る。真っ暗で何も見えない。
とにかく状況を把握したい。
先頭車両へ、運転手のもとへ、行こうと思い、
俺は再び真っ暗な車内をランタンの明かりを頼りに
歩き始めた。
いくら歩いても一号車にはたどり着かない。
たしか四両編成ぐらいの短い電車だったのに。
もう二十両ぶんは歩いたが、まだ着かない。
しかも誰もいない。いくらローカル線とはいえ、
誰か一人ぐらい乗っていてもいいはずなのに。
明らかにおかしい。
怖くなった俺は、慌てて最後尾に戻った。
車内がダメなら外はどうだろうか……そう思った俺は、
最後尾車両にある運転席の横のドアを開けて電車の外に降りた。
線路の枕木を踏みながら歩く。
トンネルの入口を目指して歩いた。
だが入口はいっこうに見えてこない。
それでも俺は歩く。歩き続けた。ただひたすらに。
出口まで三百メートルの看板。
歩いた。
出口まで二百メートルの看板。
歩いた。
出口まで百メートルの看板。
歩いた。
そろそろ出口が見えてくるはずだ。
だが光など一条も見えなかった。行き止まりだった。
天井が崩れて大きな岩がトンネルを塞いでいたのだ。
架線も切れている。
俺は絶望した。枕木に座り込む。
携帯電話は持っているが、なにしろトンネルの中だ。
助けを呼ぼうにも電波が通じない。
空腹感を覚えた俺は食事を摂ることにした。
いつ救助が来るか分からない。食料は最小限に留めた。
乾パン、干し葡萄、チョコレート、
そして少量の水でマルチビタミンの錠剤を流し込む。
一息付いたあと、今度は先頭車両のほうに向かって歩きはじめた。
四両目、三両目、二両目、そして一両目は完全に潰れていた。
天井から降ってきたであろう大きな岩の下敷きになっていて
もはや原型を留めていない。その先も当然行き止まり。
出口などまったく見えない
おかしい。車内を歩くことは出来た。二十両ぶん歩いたが
まだまだ先が見えないほど続いていたのだ。
しかし外から見ると二号車から先は潰れてしまっている。
ありえない……これは現実ではないのか?
慌てて最後部の運転席に戻り、電車の中に入って、
改めて車内通路を通って先頭車両を目指して歩き始めた。
四、三、二号車まで歩く。
そして一号車。ちゃんとある。
外から見たときは完全に潰れていたのに、ちゃんとある。
しかし運転席の無い中間車両だ。
一号車なのに中間車両? 一体どうなっているのか。
なんだか進むのが恐ろしくなってきた。
では救助を待つか? 救助隊が来るまで一体何日掛かる?
それまで食料が持つのか?
このままじっとしていても埒があかない。
とにかく進めるところまで進んでみよう。
俺は一号車のさらに先を目指すことにした。
ゼロ号車、マイナス一号車、マイナス二号車……
車内にある奇妙な表示板を見ながら延々と車内通路を進み続ける。
そしてマイナス百七号車まで俺はたどり着いた。
どれだけ歩いただろう。
車両一台あたり二十メートルとして、ざっと二キロ。
電車の中を二キロ以上も歩いたのか。
こんな長い電車、世界のどこにもない。
もうトンネルの外に出ていてもおかしくないような距離だ。
だが窓の外を見ても暗灰色の壁がある。まだトンネルの中なのだ。
やはりこれは夢だ……現実じゃない。
こんなこと現実では絶対にあり得ない。
そうだ、やはり夢なんだ。そう思うと少し気楽になった。
マイナス百八号車に入った。
車両の中ほどに、誰かが立っているのが見えた。
ライトを向ける。
白いニット帽、赤いダウンジャケット、灰色のズボン、
紺色の登山靴……俺だ、俺が立っていた。
そっくりさんなんかじゃない。正真正銘、俺だ。
もしかして、これがドッペルゲンガーという奴だろうか。
だがこれでハッキリした……こんな奴が出てくるんだから
これは間違いなく夢だ。
そう思った途端、絶望感と恐怖感がスッと薄れてゆく。
「おまえは何者だ?」
突然、目の前の俺が、俺に話しかけてきた。
否、話しかけられたのではない。
誰何の言葉が頭の中に流れ込んできたのだ。
「おまえは何者だ?」
また頭の中で声が響いた。
俺が俺をジッと見つめている。
「俺は、俺だ」
俺は声に出してハッキリと言った。
「ならば俺は誰だ?」
ドッペルゲンガーはまた口も開かずに尋ねてきた。
「知らん」
「ならば、おまえは何を知っている?」
「何をって言われてもな……これが夢だということなら
知っている。早く目を覚まして現実に戻りたいんだけどな」
「夢とは、現実とは?」
「何を言ってる? それより、おまえは誰だ!」
俺はイライラしながら聞き返すと、
眼の前にいるドッペルゲンガーは少し呆れたような顔をした。
「分からないのか?」
「は?」
「おまえは俺、そして俺はおまえ」
いくら夢とはいえ、ひどくおかしな問答をしている。
俺の精神はどうかしてしまったのだろうか。
突然、目の前の俺は光に包まれ、そしてどんどん身体が縮んで
少年時代の俺になった。
紺色の半ズボン、白いランニングシャツを来ている。
手足が細い。そして顔……実に憎たらしい顔だ。
髪は丸刈りで鼻水を垂らしている。
「おまえはボク、そしてボクはおまえ」
少年は口を動かし、今度はハッキリと声に出してそう言った。
白い歯がこぼれる。
昔の自分を見ているとなんだか恥ずかしくなってきた。
少年は無邪気に笑い、俺の手を取った。
「付いてきて」
少年は俺の手を引っ張って、百九号車の方に歩き始めた。
百九号車の扉を開けた。
突然、目の前に小さな光の球が現れた。
まぶしさに目がくらむ。そして光は次第に大きくなり、
やがて視界全体を覆い尽くすほどの巨大な輝きとなった。
(二)氷壁
目が覚めた。
車窓から入ってくる陽光と雪景色の白い光で目が覚めたのだ。
電車はトンネルを抜け、雪原の中を快走している。
ずいぶんと長いあいだ寝ていたような気がする。
「ご乗車ありがとうございます。
まもなく終点、シュミ山麓、シュミ山麓です」
車内のスピーカーから声がした。
シュミ山麓? この路線にそんな駅があっただろうか。
乗り過ごしてしまったのか。
ぐぐっとブレーキがかかり、列車の速度が落ちはじめる。
車窓から見える雪原の流れが次第にゆっくりとしたものになる。
それにしても妙な夢だった。
何故、子供の頃の自分が夢に出てきたのだろうか。
やがて電車が止まった。
「シュミ山麓、シュミ山麓、終点です。
お忘れ事なさいませんよう、後悔なさいませんよう、
御注意下さい」
なんだか妙なアナウンスだった。ここが終点なのか?
俺はもっと別の場所に行くはずだったのに。
いや、俺は一体どこへ行くつもりだったのだろうか?
混乱していた。
とにかく電車は終点。あとは歩かなければならない。
ザックを背負って電車から降りた。
シュミ山麓駅……大雪原の中にポツンとある無人駅。
石造りの粗末なプラットホームがひとつあるだけだ。
降りた客は俺一人だけだった。周囲には誰もいない。
駅から出た。
青い空の下、広大な銀世界がどこまでも続いている。
そして彼方には天高くそびえる山がある。
蒼天を切り裂くように伸びた鋭い峰。
険しい岩盤と氷壁が織りなす白と黒の斑模様。
どうやらあれがシュミ山のようだ。
そして俺の目的地だ……目的地なのか?
よく分からないが、とにかくあの鋭鋒の頂点を目指して
ここまでやって来たのだ。多分そうだ。
理由は分からないが、何故かそう思った。
俺は大雪原を歩き始めた。
シュミ山が徐々に近づいてくる。
想像を絶する巨大さだ。
成層圏を突き抜けて宇宙まで達しているのではないか
と思うほどの高さだ。
やがて雪原は山麓のなだらかな斜面にさしかかり、
そして斜面は急峻な山道になった。
一日目は巨岩のオーバーハングの下にテントを張り休んだ。
雪中の宿営ではあったが、何故か寒さなど感じなかった。
二日目は大氷壁への挑戦となった。
靴にはアイゼンを付け、左右の手にアイスバイルとアイスハンマーを
それぞれ握り、ダブルアックスで絶壁を登って行った。
かなりの高度まで達しているのだが、
どういうわけか濃密な大気があるようで、
呼吸が苦しくなるということはない。
妙に身体が軽い。手足に乳酸が溜まることもない。
急峻な氷壁を順調なペースで登ることができた。
ザックに詰めてある食料はいくら食べても
尽きることはなく、また湯を沸かすための固形燃料も
どれだけ使っても減っていない。
現実にはありえない。奇妙なことばかりだ。
俺は自分の頬をつねった。
案の定、痛みはなかった。
やはり……まだ俺は夢の中にいるのか。
登攀を続けること四日、氷壁登りには飽きた。
いくら登っても頂上が見えないのだ。
寒くもなく暑くもなく、ずっと晴天で風は穏やかだ。
おかげで身体の疲労など微塵もないが、毎日ずっと
同じことを繰り返していると、いい加減うんざりしてくる。
ふと思った。
氷壁から落ちれば現実に戻れるのではないか。
飛び降りれば、目が覚めるはのではないか
現実の俺は電車の中で居眠りをしているのではないか。
早くこの長い夢を終わらせたい。
俺は下を見た。氷壁と雲海が広がっている。
思わず足がすくむ。
これは現実ではない。夢の景色だ。
分かってはいるのだが、やはり恐ろしかった。
山を降りて麓に戻るか?
駅に戻ってまた電車に乗れば、この夢の世界から
解放されるかもしれない。
近場にある岩場の棚に移動した。
広さは一畳ほど。寝泊まりするにはちょうど良い場所だ。
ザックをおろしてあぐらをかいた。
風はやんでいる。寒くもなく暑くもない。
雲海を眺める。
雲海を眺めた。
雲海を眺め続けた。
やがて日が傾き、西の彼方に落ちてゆく。
真っ赤な光が雲海の向こうに落ちてゆく。
眺めながらずっと考えた。
この状況から脱するために。
この夢から脱するために。
自分の頭をガンガン叩いた。痛みはなかった。
目が覚める気配など微塵もない。現実に戻れない。
いくら登っても頂上が見えない。終わりが見えない。
これでは先ほどの無限電車の中と変わらないな。
俺は思わず苦笑してしまった。
いよいよ気が狂ってきたようだ。
この岩棚から飛び降りようか。
それとも、少年時代の俺が……あの憎たらしい鼻タレ小僧が
また現れるまで、この巨大な氷壁を登り続けるべきか。
日が落ちた。あたりは闇に包まれている。
空が藍色から黒に変わってゆく。
星の数が次第に増えてゆく。
テントも寝袋も出さず、俺は横になって眠った。
翌日、雲海から朝日が顔を出した。
結局、俺はこの大氷壁を登り続けることにした。
状況を変えるために。
アックスが、アイゼンが、氷に刺さる。
穏やかで心地よい涼風が吹く。
もう下は見なかった。ただ頂上を目指して登り続ける。
途中、休憩できる岩棚はいくらでもあった。
あまりに都合が良過ぎる話だが、夢であることを思えば
至極当然であろう。
こうして来る日も来る日も登り続けた。
何日経っただろうか。髭も髪も伸び放題。
たぶん仙人のような顔になっているだろう。
岩棚に座して俺は絶景を眺め続けた。
空が暗い。空というより、もはや大気圏外だ。
宇宙空間に俺はいる。眼下には地球の輪郭が見える。
青い海が、雲が、日本列島が、ユーラシア大陸が見える。
本来ならば空気など無いし、生命など存在し得ない高度だ。
たぶん標高三万メートルは軽く越えているはず。
まるで宇宙飛行士にでもなったような気分だ。
地平線の向こうから太陽が登ってきた。
光がだんだんと強く大きくなってくる。
その光の中から、一点の小さな黒点が見えた。
点は次第に大きくなってくる。
否、何かが俺の方に向かってふわふわと飛んできているのだ。
全裸の赤ん坊だった。身体を丸め、指をくわえている。
閉じていた目をすっと開き、俺の方を見つめた。
徐々に近づいてくる。
近づくにつれて、その小さな身体が伸びて膨らんでゆく。
赤ん坊はやがて少年の姿になった。
俺は動揺した。電車の中で見た少年時代の俺の姿だ。
憎たらしい鼻タレ小僧だ。
ああ、ようやくお迎えが来たか。
さて次はどんな場所に俺を連れていくのか。
少年は岩棚で休んでいる俺のすぐそばにふわふわと飛んできた。
「こんにちわ、また会ったね」
鼻タレ小僧がニコリと笑った。
「もう疲れた。いいかげん、この夢を終わりにしたい。
どうすればいい?」
「夢? どの夢?」
「どの夢って……一体どういうことだ?」
すると少年はヤレヤレといった表情をして溜め息を付いた。
「まだ、分からないの?
この山は夢だし、トンネルの中で立ち往生した電車も夢の産物だ。
そしておまえがかつて生きた現実世界も、実は夢だったんだよ」
「なにを言っている……」
「夢も、現実も、同じってこと」
「そんなはずがあるか! 現実世界があり、
そこに実体があるからこそ、夢も存在できるはずなんだ!」
俺は思わず声を荒げてしまった。
すると少年の身体は急激に伸びて、大人の姿の俺になった。
「たとえ実体が無くても、夢は見ることが出来る。
生き物には魂があるからな。そしてその魂には、
それぞれ固有の世界がある。
そう……魂の数だけ世界はあるんだ。幾千、幾万、幾億のな」
全裸の俺はそういうと、目を閉じた。
「何を言っているのかさっぱり分からん。
もういい、とにかくこの状況をなんとかしてくれ」
「それは、おまえ次第だ」
「は?」
「あと一日登れば、この山の頂上に着く。そこに何があるのか
自分で確かめろ」
全裸の俺は光に包まれながら遠ざかり、
そして彼方へと飛去ってしまった。
「自分で確かめろだと? いいだろう、確かめてやろうじゃないか!
おまえに言われるまでもない!」
俺は絶叫した。
ザックを眼下の雲海へ蹴り落とし、ダウンジャケットも投げ捨て、
俺は再び大氷壁に向き合い、挑んだ。
アックスを氷に叩き込み、アイゼンを蹴り込み、
脇目も振らず、全速力で登った。
まるで重力が無くなったかのように、まるでクモかトカゲにでも
なったかのように身体が軽い。
登攀史上に出てくるどの名クライマー達よりも、今の俺は素早く
力強く登って行ける。
見えてきた。
大氷壁の終わりが、宇宙が、見えてきた。
そして頂点に立った……この山の一番高い場所に。
この夢の世界の一番高い場所に。
達成感があった。両方の拳を天に突き上げ
思わず言葉にならない雄叫びを上げた。
何故か涙が出てきた。
広さ二畳ほどの狭い頂には石の台座があり、
そこから深紅の彼岸花が一輪だけ咲いていた。
ここが俺の夢の果てなのか。俺の旅路の終着点がここなのか。
彼岸花に触った。
何のことはない普通の彼岸花だった。
俺は数瞬の躊躇いのあと、台座から花をブツリと引き抜いた。
思ったよりも強い手応えがあった。
刹那、石の台座はまばゆい光を放ち、その光はやがて山全体を
覆いはじめた。
そして、山が、煙の、ように、消えた。
足下にあった巨大なシュミ山が消えてしまったのだ。
俺は浮遊している。
人口衛星のように宇宙を漂っている。
眼下には日本列島と雲海と碧海が広がっている。
手足を掻いたが、まともに動くことが出来ない。
いくらあがいても身体はふわふわと宙を浮いたままだ。
もうどこへ行くことも出来ない。
もうどうすることも出来ない。
夢よ、覚めてくれ。
俺の夢よ、もう終わってくれ。
俺は心の中で強く念じ、ぎゅっと目を閉じ、
彼岸花を放り投げた。
すると身体が急に重くなった。
自分の体重が急激に増えたような気がした。
そして……眼下の日本列島が俺を引っ張り始めた。
いや、俺は落ちていったのだ。大地に向かって。
ものすごい速さだ。
何故か風圧は感じなかったが、とにかくものすごい速さで
落下していく。
ふと周りを見渡した。
俺が居た。青年の俺、少年の俺。乳幼児の俺もいる。
皆、同じように地球に向かって、落下していく。
日本に向かって落下していく。
大地がぐんぐん近づいてくる。
雪原がぐんぐん近付いてくる。
地表に激突する瞬間、目の前に閃光が走り、火花が散り、
次第にまばゆい光が視界全体を覆い尽くす。
身体が……暖かい……光のなかに溶けていく……
そんな感じがした。
(三)父
母はお手製のスクラップブックを居間の本棚から引っ張り出し、
ぺらぺらとページをめくっていた。
そしてとあるページで手を止めると、それをボクに見せてくれた。
「あったあった、お父さんがエベレストに登頂した時の記事よ」
新聞記事の切り抜きが一枚、大学ノートに貼り付けてあった。
かなり古いものだ。
黄ばみが酷く、印刷もかすれてしまっている。
登山家の父が成し遂げた偉業を讃える記事だった。
”エベレスト無酸素単独登頂”
”日本人初の快挙”
大きく書かれた見出しの下には、
白いニット帽、赤いダウンジャケット、灰色のズボンを
纏った山男の写真があった。
父だった。日焼けした顔には満足げな笑みが浮かんでいる。
世界最高峰の頂にある氷雪の足場に立ち、
手には日本の国旗を持っていた。
父のことは良く知らない。
ボクが生まれる一ヶ月前に死んだのだ。
ざっと今から十五年と一ヶ月前、身ごもっていた母を家に残し、
父はトレーニングのため真冬の八甲田山へ向かう電車に
乗っていたが、その電車がトンネルを通過している最中に
局地的な大地震が発生し、トンネルは崩落。
父は乗っていた電車ごと巨大な岩盤に押し潰され、圧死したのだ。
あまりに不運な事故死だった。
世界的なクライマーとして認知されていた父の訃報は
ネット、テレビ、新聞など多くのメディアで取り上げられた。
奇妙な話だが……ボクは父と会ったことがある。
ボクが生まれたのは父が死んだ一ヶ月後なのだが、確かに会ったことが
あるのだ。母には何度かそのことを話した。
話すたびに笑われてしまうのだが、本当にボクは父に会ったのだ。
崩落したトンネルの中で、電車の中で、大氷壁で、険しい表情をした
父と会ったのだ。そして何かを話したような気がする。
それがどんな内容だったかは分からないが。
ボクはスクラップブックをそっと閉じた。
洗面所に行き、手を洗ったあと何気なく鏡を見た。
鏡の中のボクは、どこか父に似ていた。
目鼻や輪郭などに父が混ざっているのだ。
そうか、そういうことか。
ボクは鏡を見ながら、ひとりで納得していた。
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