渡し守
川の流れは穏やかで、杭にあたる水が微かな音を立てていた。春も夏も秋も冬も、ない、暑くも寒くもない気温は、久しくいるとわからなくなってしまう。温度と言うものは、すでに彼女の感覚からほとんど消え失せていた。
水の温度も、もはやわからないでいる。
「そこのお嬢さん」
と、彼女に声が掛かった。――はい、何でしょう、と応える。無表情に。無愛想に。最後に表情を浮かべたのはいつだったか、と思い返してみても、彼女には思い出せなかった。
「わたしを向こう岸に連れていってくださいな」
彼女の片手のひらに硬貨を二枚握らせながら、老女は快活に笑って言った。そんな気力がどこから湧いて来るのか、彼女にはわからなかった。ただ、仕事を果たすだけだと思った。――はい、わかりました、と言って、すっともう一方の手を差し出す。掴まった老女の手は皮膚がささくれ立っていて、細く骨ばっていた。けれど、ほのかに暖かく感じた。彼女は少し驚いた。
どうしてこの人は暖かいのだろう、ここに来る人は、皆冷たかったのに、と。
よいしょ、とつぶやきながら、老女は舟に乗り、
「よろしくおねがい、ね」
と言って、また朗らかに笑った。――はい、と言うだけで彼女は精一杯だった。
杭から縄を外し、櫂で水を押しやった。鈍い音を一つ立てて、ゆっくりと舟は進み出した。
「あなたはいつから漕いでいるの?」
老女は彼女に背を向けたまま、尋ねた。大部分が白髪である老女は後ろでそれを束ねていた。小刻みに震える肩が彼女の目に入った。
川のほとりはもう見えない。霧が濃く、灰青色の雲が空を覆って、鉛白色が視界を取り巻いていた。
なぜだか今日は舟が重い。幾度も櫂で漕ぐけれど、なかなか前に進まない。水の色は、濁った青をしていた。
――さあ、忘れてしまいました。
「忘れるほど、長く漕いでいるのね」
明るい調子の声だった。その言葉の中に、労うような響きを彼女は感じ取った。おぼろ月の光のように優しく、やわらかな響きだった。
――そう言うことでは……。
「いいのよ。……大変だったでしょうねえ」
舟のへりから急に老女は身を乗り出した。舟はぎしりと鳴り、水面に波を立てた。
「どうして、渡し守を?」
彼女は何も答えられなかった。彼女が舟を漕ぐ理由を、此の人は本当に知らないのだろうか。知らないのであれば、単に好奇心によるものであって、他意はないのだろう。知っているのであれば、どうして訊くだろうか。彼女を苦しめるのは明白だった。
「冷たい水ね。それでいて、全てを流してしまいそう」
指先についた滴を唇に落とす。「甘い、わね」そうぽつりとつぶやいた。
「此の水を飲んだこと、あなたはある?」
――ありません。
「そう」
淋しそうに、老女はもう一度、指を水中に沈めた。
気の遠くなるほどの時間、漕いでいたように彼女は感じていた。けれど、疲れはなく、むしろ心地よかった。さらさらと左右を行く川の水は、全てを溶かし込むように透明だった。
彼女の目の前では老女が泣いていた。恐怖に泣いているのか。愁事に泣いているのか。そのどちらであったのだろう。彼女にはわからなかった。尋ねてはいけない気がした。
老女は全てを話した。彼女がこれまでにしたことを。渡し守は黙って聴いているしかできなかった。
涙が頬を伝う。川面に落ちる滴は同心円を作り出した。すぐに川の水と同化して、色を変えていった。
すっきりとしたふうに、老女は顔を上げた。何もかもを流し、空っぽになった心をさするように胸に手を当てていた。
――私は、罪を犯したんです。
渡し守は静かに言った。
「罪、ね」
赤く腫れた瞳を彼女に向けて、老女は訊いた。
――そして、罰を受けました。いいえ、受けているのです。ここで。此の川で。
「罰。……あなたは、どう思っているの?」
――どう、とは?
「罰を受けて、反省をしているのか、と訊いているの」
――どうでしょう。私にはわかりません。ただ対岸へ行く人を送るだけ。
ぎいと音を立てて舟は進む。水音は耳に心地よい。
――けれど、この舟の上であちらへ行く人の話を聴くと、苦しくなります。苦しくなって、怖くなります。私のしたことがどんなことだったか、はっきりと理解されます。
「そう」
老女は慈しむように笑った。彼女は軽くなったように感じた。ふと瞳から、滴が落ちた。
岸に寄せると、がたりと舟は止まった。老女は立ち上がり、渡し守の手を取って地に足をつけた。
――忘れ物はございませんか?
「ええ、ないわ」
しかし、彼女は手を離そうとはしなかった。
――硬貨は、一人一枚で十分です。
「そう。……だから二枚」
ぐっと手を引っ張った。彼女は抵抗すらできなかった。
誰も乗っていない、主を失った舟は水面に揺れていた。
「あなたは解放されたの。罪を赦されたの」
ほろほろと涙が雨のように溢れた。手を離し、ふらふらとした足で川のほとりに座った。
手を水の中に沈めた。
水は澄んでいて、とても暖かかった。
〈了〉
ありがとうございました。