第6話
受付を無視して、零月さんはエレベーターに乗る。
エレベーターは車椅子の人も、その介添えの人も乗れるように、めっちゃ余裕。四人で乗っても、まだ誰か乗れる。
六階のボタンを、零月さんが押す。
箱は上ってるはずなのに、全然振動とか感じない、親切安心設計。
止まって、扉が開く。
初めて見た。
ナースステーション。
丸みを帯びたガラスの向こうに、引き継ぎでもしてるのか、輪になって立ってる。
さっき受付の前を通ってるのを見たけど、最近の看護師さんは、スカートじゃなくてパンツ姿。それがなんだかかっこいい。生命のエキスパートって感じ。でも、大変なんだろうなぁ。体力勝負って聞くし。
零月さんは迷わずすたすたと歩いてく。相変わらずマイペースな歩調。
「昨日の人は、富豪さんだっけ」
かのちゃんが、声を落として訊いた。それでも、なんとなく響いてるような静けさが広がってる。
「あぁ、自宅に呼びつけられた」
「どうでした?」
「さぁな。自分以外の全てを呪っていたな」
「今日のはマシだといいですねぇ……」
こーとさんの期待の声に、零月さんは答えない。
「エサの思惑など、関係ないな」
一拍ののちに、一言。
廊下の壁に、男の人がもたれかかってた。壁に隈なく張りめぐらされた茶色の手摺(てすり)が、太腿あたりに当たってる。
男の人が、顔を上げた。遠目じゃ気づかなかったけど、なんか老け込んでる。五十代? いや、四十代かも。と、その人が会釈した。
零月さんは少し距離を置いて、小さく頷くように頭を下げる。昨日のあたしが、終点まで何分かかるかを訊いたときとおんなじ。仕方ないからやってる、みたいなオーラ。
「氷上(ひかみ)さんですね?」
零月さんが問えば、男の人は頷く。
「連絡した高尾です。あとの三人は見習いのようなものですので、ご安心を。守秘義務は怠りません」
見習い。
何のさ。
ココロを喰らうのに弟子も師匠もあるんかい。
「では、始めます。氷上さんは院長室で待っていてください。終わったら連絡に行かせます」
男の人は一瞬だけあたしに(たぶんあたしだけじゃないと思うけど)不審そうな目を向け、次いで渋々、といった表情で歩き出した。どうやら、おとなしく院長室に行ってくれるらしい。
零月さんは歩き出す。
男の人が立っていた奥の病室の前で、立ち止まる。
黄緑色の引き戸の扉は閉まってて、「面会謝絶」の札がかかってた。
入院患者の表札を確かめると、零月さんはためらいもなく引き戸に手を掛けた。
音もなく、扉が横に滑る。
薄桃色のカーテンが、閉まっていた。
保健室のベッドみたいに、カーテンがベッドを囲んで隔離してる。
何にもない部屋だった。
花瓶もないし、折り紙の鶴とかもない。日用品とか――たとえばコップとか、ティッシュとか、そういうものも、ない。
なんか、ゾクッとした。
生きてる気配がない。生かそうとする気配もない。なのに、カーテンの奥、ベッドから、それは、じいっとこっちを見てる。そんな気配が、刺さってくる。
「いつものことだ」
胸中察したかのような、零月さんの声。
零月さんはベッドに近づき、カーテンを開けた。
今度こそ、引いた。
ベッドには、人が寝ていなかった。
ベッドには、人が座ってた。枕元から延びてるパイプの柵っていうんですか、そういうのに背を預けて、じっと前だけを見ていた。
前――壁だけを。
あたしより年下だと思う。たぶん、高校生くらい。女の子が、座ってた。
まばたきを、していない。
パジャマの下の心臓もゆっくりとした動きを繰り返してるけど、それはゾウの心拍にも似た、ひどく遅い動き方だった。まるで一回一回深く息を吸って、吐いてるみたいな、そんな呼吸法で、心臓もそんなペースで、動いてる。
異常、だった。
少なくとも、外傷があって入院してるわけじゃない。内臓がどうかしてるわけでもない。明らかに、目には見えないところを病んでいた。
声が、出なかった。
壊れてるのに、壊れてる部分が見えない。
治したいのに、治すべき箇所が見えない。
「驚いた?」
不意の声に、あたしはぎょっとする。その女の子がしゃべったのかと思った。ら、かのちゃんだった。
「ココロが壊れると、あんなふうになるんだよ。まぁあの子はちょっとひどいタイプだけど。あたしたちが喰べ尽くしちゃったときと同じだね、いわゆる廃人になるんだ」
「ココロのなくなった人間は、もはや人間とは呼べません。ココロあってこそ、ヒトはヒトたる価値がある」
こーとさんが、痛ましげに呟く。あたしはそれを、聞くことしかできない。
だってあたしには、見えないから。ココロなんて見えないから。でもかのちゃんたちは――ココロをエサとする者ならば――見える。
ココロが。その、エサの形が。色が。ちゃんと見えている。
ギシッと、スプリングの軋む音がした。
見ると、零月さんがベッドに乗っかり、女の子を抱きしめていた。
右手を上げ、女の子の頭を支える。その手に、ぶわっと何かが取り憑いた。
あたしのときとは全く違う、球形ではない、むしろ球形になり損ねた形。
それはどろりとした粘性を持ち、見る見るうちに零月さんの指に絡みついて、中華料理の餡のように垂れ始めた。もはや球形は完全に崩れ、溶けたアイスみたいに形を失ってる。
色は、青かった。水色みたいな、薄い青。それがやけに透明感を持って、とろとろと零月さんの指を這う。
正直言って、気持ち悪かった。
でも、これがあの子のココロなら、あたしが気持ち悪がる権利なんてない。だって、今まであの子はそのココロといっしょにいたんだから。気持ち悪がれない。そんなことしちゃ、ダメだ。
やがて、青色のどろどろの中から何かが見え始めた。
てらてら光るタレの中に、見たことのある形。
ランドセルだった。水色の、ランドセル。
急に、この子がこうなってしまった理由が分かったような気がした。
うちんとこも結構田舎だから、よくあること。
女子のランドセルは、赤だと決まっている。そして男子は、黒。そういう意識が、根付いている。
この子は、好きな色で六年間を過ごそうとしたのに、できなかった。たぶん、いろいろ言われたんだ。
なんで違うの? とか。青なんて男の子みたい。とか。ものすごく余計で大きくて下世話なことを。学年が上がるたびに。登校するたびに。バカみたいに。何度も、何度も繰り返されて。
その傷が、今になってもまだ疼いてて、それはココロを病んで、腐らせて、体を機能させなくなった。
こんなことで? なんて、軽く見ない。だって、それは「宝物論」と同じだから。
他人にはガラクタに見えても、本人にとっては宝物。
それと、同じ。
他人にはどうでもいいことに見えても、本人にとっては耐え難く苦しいこと。
突然、零月さんの指に絡みついてたココロが、行き場を失ったみたいに動き始めた。
もぞ、もぞ、と救われたくて手を伸ばすように伸びたり、あるいは救いを諦めたように縮む。
「言っただろう、よくあることだと」
零月さんの声が、病室に響く。
まるで自分の指に絡みついてるモノなど、大したことじゃないとでもいうように。
「人間は、些細な理由で他者を排除する。そういう生き物だ」
指を、口に持っていく。粘性のあるそれが納豆みたいに糸を引きながら、零月さんの舌に巻き取られる。
あたし、震えてる。
なんで?
好きな人が自分以外を見て、喰べているから? それとも――得体の知れないモノを喰べているから?
どくん、と嫌気が心臓を動かす。
落ち着け。落ち着けあたし。
だいじょうぶでしょ? こんなことで、嫌ったりしないでしょ? あたしはそんな、無責任な人間じゃないでしょ?
自分で決めておきながら、こんなことで覚悟が鈍るくらいなら、さっさと病室を出て行って、二度と零月さんに会わなければいいんだ。だって、もう会う資格はないんだから。こんな無責任な人間に付き合う零月さんの方が、よっぽどかわいそうだ。
顔を、上げる。
ぎゅっと、こぶしを握りしめる。
ベッドを、見据える。
零月さんの「喰事」は終わってた。粘性の液は見る影もなく消え、代わりに女の子の瞼が落ちてた。
まるで、眠ることを思い出したかのように。
……よかった。
これで、あの子は苦しみながら眠りについて、結局眠れない日を送ることは、もうないんだ。
異様に力を入れてた体が急に弛緩して、めまいを起こしたみたいに視界が白くなる。
零月さんが、顔を上げた。
「孝都、院長室に連絡。ギャラももらって来い。三百五十万だ。ついでに院長と父親の記憶も喰べとけ」
「はい」
言って、こーとさんが引き戸を開ける。
さん、びゃく、ご、じゅう、まん。
三百五十万円。
えーと、確か百万で一センチの高さだったはずだからーえーと、三センチ五ミリ。
三センチ五ミリももらって来るんすか!
こーとさんが出て行ったあと、零月さんはベッドから下りてあたしに近づく。と思ったら、目当ては引き戸でした。
開けて、無言で出て行く。
残された、かのちゃんとあたし。どないせぇゆうのん。
女の子は、眠ってる。今度はベッドに横になった体勢で、そこにいる。少しだけ、生きてる気配がある。
そっか、ココロって、生命(いのち)なんだ。
だから、それを喰べるんだ。
あたしたちも、他の生命を食べてるように、零月さんたちも、あたしたちの中にある生命を喰べてる。
「行っちゃった。また吐いてるのかな」
ぽそりと、かのちゃん。
吐いてる。
吐いてる?
吐いて……
「えぇっ!?」
驚いて見下ろせば、かのちゃんは「うん」と事も無げに頷いた。
「あたしたちは、心喰。ココロを餌とし、その味を味わい、栄養とするもの。ひよりんがヒレカツ食べたりコーンスープ飲んだりするのと同じこと。味わって、糧とする」
「うん」
それは聞いた。
かのちゃんは壁にもたれる。
「だからね、ココロにも味があるんだよ。牛が自分のどの部分がおいしいか、なんて分からないように、ひよりんたち人間も、自分の味は分からない。それは惜しいことだけど、仕方ない」
やれやれ、というように肩をすくめられて、なんだかちょっと、知らなくてすみません、みたいな気持ちになる。
「まぁとにかく、ココロには味がある。でも味は、『おいしい』だけじゃない。甘くて、辛くて、酸っぱくて、塩辛くて、――苦い。知ってるよね?」
「……うん」
いわゆる五味というやつだ。中学んときに習った。舌のどの部分が何を感じるか、色分けさせられた記憶も残ってる。でもあれ、間違いなんだよね。ほんとは舌のどの部分でも、五味全部を味わえる。アイス舐めるときみたいに、先端だからって甘さしか分からないわけじゃない。吐きやすいように、舌の奥しか苦味を感じられないわけじゃない。
「苦しいってさ、苦いって字と同じだよね? だから人が『苦しむ』ココロは、あたしたちにとっては『苦い』の。あたしは結構何でも喰べちゃうからそんなこと気にしないけど、ゼロはグルメさんだからね。吐いちゃうんだよ。コレマズイって」
納得できる。
それくらい、零月さんは孤高の人だ。
そのマズイココロの提供者を思いやることなく、零月さんは残さず吐き出すだろう。
あたしが惚れたんだもん、そんくらいのことは太鼓判押しとくよ。
「今日の子ね、あたしが喰べてもよかったんだけどさ、ゼロに来た依頼だったから。ゼロはさ、ああ見えて結構責任感あるんだよ。ま、九百歳だからね。そういうのに厳しいんだ。だから、あたしやこーちゃんと交代っていうのは、自分が許さない」
「そっか」
それも納得できる。
孤高の人はたいていそんなもんだ。
だって孤高ってことは、誰にも頼らないってことだもん。かのちゃんたちに頼って交代してもらうなんて、きっとすごく許せないんだろうな。
誰の助けも借りないし、そもそも助けて欲しいとも思わない。自分の面倒はきっちり見るけど、見れるのはそれだけで、他の奴らなんか知ったこっちゃない。
それって案外、勇気のいることだ。
だって助けを求めてくる奴らを「知ったことか」って言うのは――助けを求めたその手を振り払うのは――ほんとに冷たい人じゃないとできないことだと思うから。
光ない眼差しで振り切れること、無表情のまま見捨てられること、そのことをどうとも思わないこと。
そんなことできそうな人は、あたしの今までの人生ん中で、零月さんしかいない。
だから好きなんだ。
零月さんなら、傷つける言葉だと知っていても、はっきり言えるだろう。
全然気まずそうにも、居心地悪そうにもしないで、自分の思ったことを言うんだろう。
そしてそれを言っても、何にも思わないんだろう。
罪悪を感じることも、自己嫌悪に陥ることも、もっと他に言葉があったんじゃないかと悔いることも、あんなこと言わなきゃよかったと詫びることも、ないんだろう。
こんなに冷徹な人は、きっといない。
こんなに孤高な人は、きっといない。
こんなに安定してる人は、どこにもいない。
あたしは始終不安定だから。だからこそ「安定感」をいっつも余裕で持続してる零月さんが、好き。
頷いたら、かのちゃんが顔を上げた。ばっちし、目が合う。
「だからさ、ひよりん、ゼロを支えて。ゼロがマズイモノばかり喰べて、いいかげん嫌になってきて、喰べることをやめちゃわないように。こんなにもおいしいものがあるんだよ、すぐ傍に、いつでも手の届くところに、いるんだよって」
かのちゃんの瞳に、あたしがいる。エサとしてじゃなくて。一つの可能性として。
さっきの、病院前で交わした会話を、思い出す。
喰べるって、大事なことだと気づいた。たぶん、死と同じくらいだと。だから、怖がってられないと。
かのちゃんの口が、開く。
「だって喰べることは」
あたしも辿り着いた答えを、言う。
「生きることだから」
食べることは、大事なこと。
何かを犠牲にして食べる行為は、生きることなんだから大事だ。そして生きることには、死がつきまとう。死だって大事だ。一回しか体験できないものにこそ希少価値を置かずして、何に価値を置けって言うんだ。
生と死は隣り合わせで、生には食べることが必要不可欠。みんな――生も死も食事も、一つのところにいる。
あたしは続ける。
「喰欲がないことには、何にも始まらないもんね。そしてあたしたちは、弱肉強食の関係なんかじゃない。支え合ってる、共生の関係」
零月さんがあたしのココロを喰べるように、あたしもいろんなものを食べてる。
あたしが零月さんを支えてるように、今日食べたものがあたしを支えてる。
ありがとう。
今日もあたしは、元気でいられる。考えられて、動けて、好きな人の傍にいられて、しゃべれる。
「そうだよ、ひよりん」
にこっと、かのちゃんが笑う。
当たり前のことに気づいただけなのに、なんだか、涙が出そうだ。
それはきっと、いっしょにいたい人が、いるからだ。
生きていられることに、感謝できるからだ。
「さ、出よう?」
かのちゃんに促されて、あたしは病室を出た。
女の子は、小さな寝息を立てて眠り続けてる。いつか目覚めることに、かすかな希望を感じながら。今はそのために、体力を溜めているんだろう。
病室を出て、後ろ手に引き戸を閉める。
こーとさんが戻って来たところだった。右手には、すんげぇ厚みの白い封筒。
あぁそれが、三百五十万円ですか。
すげぇ。ぼろ儲け。でも、そこにはいつだってそれなりの対価がある。
零月さんは、まだ帰って来ない。
耳を澄ませば、かすかに連続的な水音が聞こえる。
人がいる所で吐くときは、蛇口をひねりきってやるものだから当然だ。
水音で吐く音を消し、すぐに流し去ることで臭いを嗅がずにすむ。
吐瀉経験を持ってるので、なんとなく零月さんの行動が見えてしまう。あたしの場合は便器に向かって吐くから、水洗レバーを立て続けに押すんだけどね。
零月さんは……たぶんこれは便器までもたなかったかな。だから手洗い場で吐いてそう。
今トイレに入った人は大変だ。零月さんに睨まれて、ほうほうのていで逃げ出してそう。
早く帰って来ないかな。
伝えよう。
そう決めたんだから。
水音がやみ、扉が開く。
零月さんが、出てきた。
水に濡れた口元をジャージの袖で拭いながらのご帰還。
何をやってもサマになりますねぇ。
「ゼロ、もらって来ましたよ。院長と父親の記憶も喰べといたので、私たちの情報が外に漏れることはありません」
「そうか」
零月さんのその言葉を皮切りに、あたしたちは歩き出す。
今度はかのちゃんたちが先頭を歩いてる。かのちゃんはこーとさんの手を覗き込み、「それがだいたい三百万かー」なんて感心してる。
気持ちが分かるので、あたしはこっそり笑ってしまった。