第4話
土曜日も授業がある。
ゆとり教育なんて大学にゃ関係ない。週休二日制なんてどこ吹く風。我関せずな感じで、今日も元気に九十分も授業。九十分。とどのつまりは一時間半。
どーでもいいけどさぁ。
これって反則じゃない?
だってさ、高校生のときはさ、五十分授業だったんだよ? それがいきなり一時間半!
座ってられるかー!
聴いてられるかー!
起きてられるかー!
教授なんてクソ食らえ!
てめえの身分なんざ知ったこっちゃねえ!
と、まぁこう思ふわけですよ。
口には出しませんが。当たり前ですが。
要するに耐えられんのです。
束縛されてると思うとなおのこと。受けたくもない必修とか、そういうのを受けてる時間をもったいないと感じるけふこの頃。
でも仕方ない。世の中仕方ないことばかりなのさ。フッ。
えー、ただいま乗ってますのは、進行方向に座席を向けられる、親切設計の快速電車。腕時計を見やれば、午後一時二十分。あと十分間揺られたら、主要乗り換え駅に着く。はず。人身事故とか急病人とか出て停まったりしなければ。
二時までに、零月さんのところへ。
高尾零月。
漆黒の瞳。
絶世で白皙の美貌。
九百年を生きた心喰。
「……」
会いたい気持ちと会いたくない気持ちが混ぜ混ぜで、心の中でこっそり溜め息。
何て言うんかな、こう、たとえば楽しい授業があるとするやん? めっちゃ口のうまい先生の授業。授業中は笑いの渦。分かりやすいしノリもいい。チャイムが鳴ると、あぁもう終わってしもたんか、みたいな気になる、そんな授業。でも、評価はされたくないなー、みたいな。テストは嫌やなー、みたいな。
今の気分はまさしくそんな授業のテスト前日。
授業中笑って聞いてたけどいざ真剣に向き合ったら、結局わけ分からん、みたいな。んで、放り出したくなってるような気分。
いや、嬉しいよ? 零月さんとまた会えるんだから。
こんな夢みたいなチャンス、絶っ対ないもん。むしろこのチャンスのせいで、あたしの一生分のチャンス、使てしもたんちゃうやろか、くらいのでっかいチャンスやもん、ありがたくて涙ちょちょ切れるし。でもなぁ、なんかなぁ、ちょっと違うんだわ。
イヤホン垂らして窓を見やれば、飛ぶような景色。快速ですから飛ばす駅もびゅんびゅんで。駅名さえ見えないほどの速さ。田舎の山々を抜けるトンネルは三つ。ゴー、って言う、闇の底。
会いたいんだけど、素直に喜べない。
何っつーか、やっぱ、何の用事か分からんことが最大の理由かな。
口直しって何やろ。
喰われんのかな。
道端では飲喰(いんしょく)禁止。だから時と場所を考えて喰ろうてください。少なくとも路上で喰って、ゴミみたいに車道に放り出さんでください。
今さらながらに、食べ歩きがよろしくない理由が分かりました。
そんな食われ方じゃ、浮かばれない。そんなありがたみのない食われ方じゃ、牛肉ハンバーグも鶏肉カラアゲも、死んだ意味ない。
座って、落ち着いて、手ぇ合わせて、喰べてくれなくちゃ、悲しい。
川を渡ったら、もう目的の駅。
主要乗り換え駅で降りる人は結構いるわけで。あたしも席から立ち上がって、隣に座って口開けて寝てるおっさんの前を擦り抜けて、通路に出る。
渡された地図を片手に、改札を出る。
昨日、「ここへ来い」と言われてから、あたしは控えめに言い返した。
なにせ扱いやすいエサなもので、浮かれながら零月さんのうしろを歩いてましたから、全然道順が分かりません。
とか言ったら、
じゃあ来るな。
にやりと意地悪く、一蹴。
うしろで笑ってるかのちゃんが、
あたしは会いたいから地図あげるね。
にこりと満面の笑顔で、手渡し。
なんかねー、違うんだわ。
でもまぁ、違ってようとズレてようと、あたしは零月さんに会いたいので会いに行く。理由はそれだけ。不安もあるけど、それ以上にチャンスをふいにしたくないって気持ちの方が上回ってる。だから深呼吸して気合いを入れる。おっしゃあ行くぜ!
いやぁ、恋って恐ろしいですなぁ。どんどん自分がバカになってるような気がするよ。
日傘を差して、駅舎出て。
真昼の太陽は、温暖化現象ゆえか、もう夏みたいな強さ。白い弾丸、空より注ぐ。なんちって。
夜とは違う、陽光下のファストフード店やら本屋やらは、なんだか違うものみたいに見える。あえて言うなら、昼用の健全な顔。添加物そんなに入ってませんよとか、出入口で不良がたむろしてませんよとか、そんな感じ。見え見えな嘘なのに、信じて入ってしまいたくなるような健全感。
店への道は、思ったよりも分かりやすかった。
右に曲がって、はい到着。
腕時計は午後一時四十五分ちょい過ぎ。
扉を押して、カランカラン。
扉を開けると、そこは無人でした。
昨日と同じ、レモン色の灯りと、カウンターと椅子、ソファとテーブルの組み合わせ。
だからさ、ここはさ、何のお店なわけ?
渾身の疑問が湧き起こる。
「しつれーしまーす……」
疑問ゆえにか思わず場違いと思われる言葉まで出てしまう。
何だよ、飲食店なのに「失礼します」って。職員室じゃあるまいし。
なぜかおっかなびっくり足音を忍ばせて、店内に入る。
……なんか、あたし、不審者みたい。
昨日座ったソファにでも座っときゃいいか。
カウンターの前を通り、ソファに腰かけようと右見た、ら。
昨日と同じソファで零月さんが、おやすみなさっていらっしゃいました。
ニット帽をかぶったままで。ソファの肘掛を枕代わりにして。背に腕を上げて。どっちかってーと寝てるっつーよりだらしなく寝そべってるような感じで。
寝てる。
九百歳が、寝てる。
寝るんだ。
睡眠、必要なんだ。
しかも、ベルの音にもあたしの声にも起きやしない。
爆睡。
そおっと、近づく。
寝ても覚めても目の覚めるような美貌。
ニット帽からはみ出した髪が頬にかかって、その髪の下から黒い石のピアスが覗いてて。
閉じた瞼。
スリーピング・ビューティー。
いや、ちょっと違うか。でも「ビューティー」ってべつに「美女」って意味だけじゃないはず。だからきっと、零月さんにも使えるはず。だと思うんだけどなぁ。帰ったら辞書引いてみよ。
ますます、近づく。
前のめりになって、眠る零月さんを覗き込む。あたしの両手には、握りしめた日傘の柄。
絶世の美貌と、至近距離。
めったに、というか絶対有り得ない、シチュエーション。
近づいて見て、発見。
睫毛、長っ。
何センチくらいあるんやろ?
ていうか、睫毛の影が下瞼に落ちてる時点で、結構な長さということに。
すげぇ。
美貌の秘訣は睫毛の長さに隠されていた?
いやいや、そーでなくて。
そろそろ座っとこう。
こんな状況、見つかったらメンドーやし。
零月さんに背を向けた、瞬間。
手首にひんやりとした感触が、来た。
その感触はあたしを捕まえるように、手首を巻いてる。ぎゅっと、力が強い、五指の感触。
予感が、する。
でもその予感に、嬉しいよりも冷や汗が出てくる。
零月さんが、あたしの手をつかんでる。
喜ぼう。そうだ喜ぶんだあたし。好きな人の体温がここにあるんだ、もっと喜べ。きゃあ手ぇつながれてるーって。
でも湧いてくるのは、もう思いませんから、二度と思いませんから、という謝罪。
振り返れない。
じっとりと、嫌な沈黙。
どっち? どっちの感情(こころ)?
手首つかまれて嬉しい? それとも気まずくて後悔?
心臓が、高鳴ってる。心と連動してる、臓器が。
寿命が、今日も縮む。
「堅苦しいことは考えるな。分類に意味などない。肩に力が入れば、楽しむこともできないぜ?」
さらりとした、心中慮るということは全く考えてないセリフ。
……あのですねぇ、あなたの睫毛に感心してて、本人起きちゃって、手首つかまれて、そんな状況で楽しもうとか、ふつう考えませんって。
肩越しにそっと振り返れば、軽く身を起こし、目覚めすっきりな零月さんのお姿。
ほんと、あなたはあたしのことなんてどーでもいいんですね。まるで踏んだ小枝ほどにも感じてないみたい。ま、そこがいいんですが。
「あー。おはようございます。今日の天気はまた格別ですねぇ。とても春とは思えないくらいのビシビシ陽気ですよ」
アーチ型の窓の方に目をやって、イマイチなかわし方。
と、手首が引っぱられた。
日傘が床に叩きつけられるような、固い音がした。
あたしにずっと触れてるくせに、少しもぬくくならない、誰のぬくもりにも染まらない孤高の手が、あたしをソファ側へ引っぱり込む。
抵抗ぐらい、きっとできた。
でも相手は男。
しかもそんじょそこらのモロヘイヤみたいな男じゃない。九百年も生きた、心を喰らう種族。
反転。
まばたきしたら、なんでか天井が見えた。プロペラみたいなファンがゆっくり回ってる。電球みたいな灯りが吊るされて、ぽっかり光ってる。
天井だけじゃない。死の深淵のような、零月さんの黒い瞳も見える。
……はい?
さっきまであたしのうしろにあったはずの零月さんの瞳が、なんで天井と共に見上げる体勢になってるん?
えーつまりこの体勢は世に言う……、いわゆる、押し、倒、され、た?
あたし立ってたはずなのに、なんで背中にはソファの感触があるんさ? 革張りの突っ張った感と、その下の柔らかさがあるから、たぶん現実。
いやいやこれは、夏みたいな春の陽気の蜃気楼が見せる幻かもよ?
首をめぐらせば、あぁ、幻じゃなかった。
頬の横で伸ばされた、黒い腕。黒いジャージの、腕。あたしの肩を挟むように、白い両のてのひらがソファに突いてる。細く長い指が、零月さんの体重を支えてる。
も一回、首をめぐらし前を向けば、やっぱり天井と零月さんのお顔。
「……えーと?」
やっぱりこれは、とーっても危険な状態?
なのになんであたしの体は動かないのか。驚愕と緊張のハーモニーで、体はすっかり硬直中。
し、しっかりしろ! 今度ばかりは目ぇ覚まさんと!
落ち着け! 落ち着くんだぁああぁ。ここで焦っては敵の思う壺! 零月さんにとってあたしはただのエサなんだから、間違いとか過ちとかは起こらない。はず。
「何だ?」
すがすがしいほど心中慮らない口調で、パニクるあたしを見下ろす零月さんは言った。
「この状況は……?」
あたし、今、半笑いみたいな顔してる。引きつったみたいな笑顔。声も震えてる。今、言葉と共に吐いた息が、微妙に熱くて乾いてる。
しかも今さら胸が爆発しそうになってる。これはどういう感情ゆえの動きなんだろーか。まさかこんな状況でもトキメいてたりしないだろうな……。
じゃなくて! ヤバイ! ヤバイヤバイヤバイ! これはどーにかしてこの体勢を崩さんと!
しかし体は動かず。動くのは心臓ばかりなり。
「急いで理解しろ」
一蹴。
それ、人を押し倒しといて言うセリフとちゃうと思うんですけど。
「えー……それは、ちょっと、無理です……」
消え入りそうな声。
顔が熱い。
ものすごく熱い。
なんか汗まで出てきた。
「理解したくないのなら、しなければいい」
言って、零月さんは右手を上げた。
体が、動かない。
目も、逸らせない。
もはや、何の感情で自分が動揺してるのか全然分かんない。
ぺち、と音がした。それが、あたしの頬を軽く叩くように触れた音だと、何秒かして気がついた。
五指の形に、零月さんの冷たさが頬に広がってる。
視界が、ぶれる。激しく打つ心音が、視界を狭くさせる。
する、と右手が頬をなぞって、離れた。
長く白い指に絡みつくように、三センチくらいの球形があった。
球形は紅くて、木星みたいに縞模様ができていた。鮮紅色と淡紅色が混ざった、マーブル模様のビー玉みたい。じっと見てたら、色が、もぞ、と動き始めた。
球形は変わらなかったけど、色がもっと濃い赤になったり、縞の位置が変わったりと、まるで炎みたいに不安定に動いてる。片時もじっとしてられない、生き物みたいだ。
「見えるか? これがおまえのココロの一部だ」
開いた口が塞がらない。
状況が理解できた途端、あたしの体は急に動くことを思い出してくれた。
「なっ……、十九歳の純真無垢な乙女に対して昼の日中(ひなか)からいったい何してくれるんですか!」
起き上がろうとソファに手を突くも、零月さんが邪魔で起き上がれない。
人の行動を邪魔しておきながら、零月さんは全く無関心で指に絡みついてるそれを口に持っていった。
ぎひぃいぃいいぃー!
「おなか壊しても知りませんよ? 慰謝料払いませんよ? 下しても、敏腕弁護士とか呼ばないでくださいよ? はっ、証文! 今からでも遅くはありません、証文! 証文書いてください!」
紙! 紙は! あっ、この紙ナフキンでええわ。
テーブルの端に置かれた、タバスコやら爪楊枝やらの奥に置かれた紙ナフキンに手を伸ばす。
視界の端で、紅い球形が零月さんの舌に攫われるのが見えた。ような気がした。
顔を零月さんに向けたら、確かに二秒前までは指にあったはずの紅い球形は、すっかりなくなっていた。
伸ばしかけた手もそのままに、あたしは茫然と零月さんを見る。
なんだかなぁ。自分の一部が喰べられたのを見るのは、いい気がしない。
「まぁ、予想どおりの味だな」
味の感想を述べられて、なんか、めっちゃ恥ずかしい。なんであたしが気まずい思いせなあかんのん?
「さて、行くぜ」
零月さんはぱっと体を起こすと、体重を感じさせない軽やかさでソファから離れた。
あたしも急いで起き上がる。
「はい? 行くって……?」
「こんなつまらんことをするためにおまえを呼んだと思うか?」
つまらんって……。あたしの一大事につまるもつまらんもないでしょうが。
「つまり、どこかに出かけることが、今日あたしを呼びつけた理由。っていうわけですね」
「あぁ」
ジャージのポケットに手を突っ込んで、零月さん。
と、ガチャッ、と扉の開く音がした。聞いたことのある、関係者専用の扉が開く音。
「もー二時なんだけどさー、ゼロォ、ひよりん来てるー?」
「ゼロ、いつまで寝てるんですか?」
すばらしいタイミングで、かのちゃんとこーとさんの声。
二人分の運動靴の音が、こっちに近づいて来る。
それを見て、零月さんはソファの上のあたしに人差し指を向けた。
「もう来ている。行くぞ」
言うなり、扉へ。
把手(とって)を引こうとして、未だソファから立ち上がれてないあたしを振り返る。
「何をボサッと座っている? さっさと行くぞ、生き餌」
さっきの詫びでも入れるのかと思ったら、さらりと人権無視。
いや、分かってましたけどね、謝罪するような人じゃないってことくらい。
「あのー……、その『生き餌』って呼ぶの、やめてもらえません? 名前、知ってるんでしょう?」
恐る恐る勇気を振り絞って言ったのに。なのに、零月さんは扉を引きながら、
「ふん、エサが人権などとご大層なことを言うな。おまえも牛や鶏に権利など認めないだろう? それと同じだ、おまえに権利など存在しない」
一刀のもとに切り伏せて、すたすたと陽光のもとへ。
ほんっとーに、あたしなんてどーっでもいいんですねぇ。喰べ物にしか見えないんですね。なんだか本気でむかつきますよ。
あたしはソファから下りる。日傘を拾って、零月さんを追う。
そしてあたしも、陽光のもとに出た。