第3話
駅舎を出て、まっすぐに歩いてく。
夜なのに活気のある町って、ちょっとびくびくしてしまう。
だって、うちの駅前商店街は夜の八時にはシャッター下ろすんだよ? そんな環境で育った十九の娘さんなんだよ? 世慣れた顔して歩けませんって。
ジャージの君は、世慣れた顔どころか勝手知ったる自分んちの庭のような余裕さで歩いてる。しかも「付き合え」って言ったくせに全然こっちの歩調に合わせてくれない。おかげであたしは半分走りながら足を動かしてる。歩くの速いなぁ。男の人ってみんなこんなんなん?
息が切れてきた。
待ってください、って言えるほど気軽な感じの人だったら、ここまで苦労はしません。ついでに靡(なび)いたりもしません。そういう人懐っこい笑顔振りまく人ほど、あたしは信用できんのです。だって、なんか、博愛じみてるから。
博愛じみてる人は嫌いだから。誰にでも優しくする奴より、ほんとに自分がそうしたい奴にだけ優しさを振りまいてくれる方が、分かりやすいから。嫌いなら嫌いって態度取ってくれる方が、こっちだって変なふうに気をつかわなくてすむから。
だから、あたしはきっと、この人が好きなんだろうな。
あたしがどんなに小さくてつまんないことにメソメソウジウジしてても、この人はそんなこと全然お構いなしで、いつもどおり歩いてくれる。励ましもなじりもしないで、相槌さえも打たないで、すたすた歩いてくれる。こんなに孤高な人、めったにいないよ?
町は明るい。オレンジ色の街灯とか、黄色に光ってる本屋の看板とか、ファストフード店の窓から落ちる白い電灯とか、素直に綺麗と思える。
ジャージの君は右に曲がった。少し奥まった路地の、その奥に向かう。
なんか、ちょっと洒落た感じのお店が建っていた。
赤いレンガ造り。
切妻型の屋根。
木戸みたいな扉は閉まってる。
でもアーチみたいな形の窓からは、レモン色の柔らかい光が漏れている。その光の数、扉を挟んで一つずつ。
ココはドコ?
さっき、ふとんも印鑑もその他いろいろ押し売りしないって言ってたけど、確かにそんな雰囲気じゃない、よね……? いやいやいや、最近はこういうアットホームな空間に閉じ込めて押し売りするのが流行りなのかもよ?
ジャージの君が扉を押す。カランカランと降りそそぐのはのどかなベルの音。あたしも店に入る。
中は、外観どおりレモン色の光で満たされていた。
板張りの床。
左の奥にカウンター。椅子は五脚。
その右横に、向かい合わせにソファ二脚と間にテーブル一脚。ソファは両方とも三人掛け。
真横に首を動かせば、関係者専用の扉。位置的に見て、その扉の向こうは、この店の隣にあるような感じ。
特に不審なところはない。いかがわしい感じもしない。でも、変だった。
だって、誰もいないんだもん。
客も、店員も、一人もいない。明かりが点いてるだけの、もぬけの殻な店。ていうか、カウンターとソファしかない時点で、席数少なくね? それで足りてたら、赤字なんじゃ……。
で、えーと? ここは、何のお店なんでしょうか? 見たところは、食べ物を提供するお店、でしょうかね?
と、ジャージの君は自分ちのように悠々と店内を歩いて、革張りのソファにどっかと座った。ガラスの灰皿を引き寄せ、また煙草を吸い始める。
おいおいおーい、あたしはどないしたらええんですかー? せめて指示を! そこに座れとか適当にそのへん立ってろとか、プリーズ指示! ギブミィ指……
ガチャッ、と関係者専用の扉が開いた。
自然、あたしはそっちを向く。
扉を後ろ手に閉めたのは、十代前半のかわいらしい女の子でした。
頭頂近くでポニーテールにまとめ上げた、天然パーマなのか、ふわふわとした茶色の髪。
大きくてくりくりした黒色の瞳。
ジャージの君と同等の、けどベクトルの違う魅力を存分に振りまいてる、素敵美少女。
白いフリルのついたシャツに薄桃色のロングスカート。
いやぁ、かわいいなぁ。学校ではさぞやモテモテなライフを満喫……って、えぇ? 何それぇ? まさか深夜(でもないけど)労働? いや、それよりも確か中学生以下ってそもそも労働禁止、じゃなかったっけ? あたしのカン違い? あぁ、もしかして、あたしの知らない間に法律変わった? 今日のダイヤみたいに。
と、彼女はいきなり声を上げた。
「仕事以外のメール、いきなりしないでよぉ、ゼロォ! 本文に『生き餌持って帰る』って、何かと思うじゃないさぁ!」
ぜ、ろ?
いき、え?
すっかり置いてけぼりなあたしを無視して、素敵美少女はソファへ歩み寄り、腰に両手を当ててジャージの君を覗き込んだ。
いったい何がどうなったらこんなわけの分からないことに。
ぽかんとしてるあたしを彼女は認め、つかつかと寄って来た。うわ、身長低っ。あたしより二十センチ近く低いぞ、この子。
「あ、こんばんはぁ! ゼロ……零月(れいげつ)に唆されたんでしょう? イヤなら断っていいんだよぉ? あたしが何とかするからさ?」
な、何なんだ? 話が全然見えない。
レイゲツっていうのはジャージの君の本名か? んで、ゼロってのがあだ名? いや、それよりも、イキエって何? 脳内変換できた文字がものすごく物騒なんですけど。つまり、「生き餌」。
ギシッ、と革張りの音がした。ジャージの君――レイゲツさんが煙草を指に挟んだまま座りなおした音だった。
「固いこと言うな。それにおまえは何とかしたあとで喰い尽くすんだろ、花音(かのん)? おまえのお守り役はどうした? 慎まないその口、あとで孝都(たかと)にひん曲げられるぜ?」
ぷぅ、とあからさまに少女は頬をふくらませた。なんだかお人形さんが動いてるみたいで、ちょっとかわいい。でも、「生き餌」に続き「喰い尽くす」って、何ですかその不穏な単語は。
「こーちゃんは買い出しに行ってるよ。珍しくゼロが彼女付きで帰ってくるって大喜びしながら」
「ふん、下世話なことだ。――おい、そこの人間の娘」
そこの人間の娘。あたし? あたしか? いや、あたししかいないんだけどさ。背の低いこの子はカノンって呼ばれてたし。
「あ、はい。何ですか?」
まぁなんて律儀。状況がすげぇ怪しいのに、あたし返事だけはちゃんとしてる。あぁこれも、惚れた弱みってやつですかね。
「ちょっとこっちへ来い。話がある」
言われたとおり、向かいのソファに座る。
こうして面と向かって座るのは初めてだから、当たり前だけど緊張してきた。ばくばくと心臓が動いてる。音が聞こえて、体が震えるみたいに揺れてる。あたし、今日絶対に寿命が縮まった。
意外に知らない人多いけど、ネズミもゾウもニンゲンも、一生の間に打つ鼓動の回数は変わんない。だから速く打てばその分短く生き、ゆっくり打てばその分長生きできる。だから小動物の寿命は短いのさ。
んで、あたしは、レイゲツさんに会ってから今この瞬間まで、もっとゆっくり打つ予定だった鼓動をフルスピードで打っちゃったもんだから、短命になっちゃったかもしんないってこと。あぁ、美人薄命。
そんなかわいそぶりっこは置いといて。
人の瞳が見れないあたしの視線は、どうしてもジャージの君、もといレイゲツさんの足元しか移動しない。組んだ足。片方だけ宙に浮いてる。黒がベースの運動靴。
あとは木製テーブルの脚がおまけで見える。猫脚っつうんですか、そういう形の脚。すっごい磨かれた感じの焦げ茶色。
ちょろっとだけがんばって視線を上げてみる。テーブルの天板が見えた。天板にはガラス板が嵌め込まれ、凶器になりそうな灰皿を逆さまに映し、磨かれた焦げ茶色が縁取っている。でも、それ以上は上げれない。すっごい恵まれたチャンスなのに、レイゲツさんのお顔を拝謁できない。うぅ、もったいないよぅ。
レイゲツさんは煙草を灰皿に押しつけた。両手をジャージのポケットに突っ込み、背もたれにどっしりともたれる。怠惰そのものな動作。でも、この美貌に減点をつけることはできない。
「面倒だ、用向きだけ話す。――おまえ、俺の生き餌になれ」
……すみません、あんまり簡潔すぎると話が全く分からないもんなんですよ、人間っていうのは。手短なのはありがたいんですが、もうちょっと分かりやすく細部を詳細に話してくれなきゃなー、なんて、思うのはあたしだけですか。
ていうか、命令形? 名も知らぬ女の子に向かって?
「えーと……はい?」
「生き餌。文字どおり生きた餌。生きたまま飼われ続ける餌だ」
あたしの間抜けな疑問に、レイゲツさんはあっさりと答えてくれた。
ものすごく、非人道的な答えを。
いや、分かってたんだけどね、生き餌の意味くらい。でもね、なんかこう、あぁやっぱり一般人じゃなかったのねって、ちょっとクラッと来ちゃってね。もちろんショックのクラッ、でもあるし、トキメキのクラッ、でもあるわけなんだけど、じゃあつまりあたしは今ここで、今日ここで死体になるってことなんですかね? 餌なんだし。食べ物なんだし。
あたし、享年十九?
短かったなぁ、あたしの人生。美人薄命ってほんとだったんだぁ。
って、いや、ちょっと待てよ。
「生き餌」って言ってんじゃん。
つまり、食べられるにはまだ猶予があるってこと?
キッ、と木の軋む音がして、あたしは無意識にそっちを向いてた。カウンターのテーブル形の仕切りが持ち上げられ、カノンちゃんがカウンターに入ってる。
なんか、未成年を働かしてるみたいで、あんま居心地よくない。
おっとと、今はそんなこと考えてる場合じゃなくて、レイゲツさんに神経を集中集中。
顔を向けると、うっかりレイゲツさんの顔を正面から見てしまいました。レイゲツさんは、なぜかおもしろそうに口角をゆがめていました。
あたし、そんなにおもしろいでせうか。
「なかなか愉快な女だ」
一言、きっぱり。
さっきも似たようなこと言われたんだけど、これは、褒められてるんでしょーか。それとも、バカにされてるんでしょーか。
カウンターの方から、ビンの王冠を開ける音と一緒に、カノンちゃんの抑えたような笑い声も聞こえてくる。
なんか、すっげぇ居心地悪い。
笑われてるって、けっこーきついんだよ。
軽くイジメだよ。
そういう気持ち、知ってる?
知らないんでしょ。
知らないからそうやってお構いなしに笑えるんだろ。そうなんだろ。えぇい人の気も知らんでぇ!
カノンちゃんがガラスのコップに、ビンに入ってた液体を注ぐ音が聞こえてくる。
何だろ。何淹れてんのかな。というか今注いでるそれはあたしに出されるもの? だったら炭酸はやめて欲しーなぁ。淹れてもらっといてなんだけど、辛いの苦手なんだよね。リストカット並みに苦手。
あ、でも、炭酸ジュース飲むのとリストカットすんのとを天秤にかけたら、炭酸を取るかな。ぐいっと一発飲み干してやろうじゃないの。腰に手当ててさ。
そろそろ現実に戻りましょか。イジメに屈してちゃいかんぞ大学生!
「えーと、話を要約しますと。私がとても愉快な人なので、生きたまま飼い続けたいと」
「そういうことだな」
目を伏せて、めんどくさそうにレイゲツさん。
「そういうことでいいんですか」
怪しいのでもういっぺん契約内容の確認。ほら、コマーシャルによるとそれが大人のマナーらしいし。
「あぁ」
ことん、ことん、と猫脚テーブルのガラスの上に二杯のコップ。色から察するに、オレンジのジュース。ぷちぷち泡が弾けてないので、どうやらふつうの、氷入りオレンジジュースらしい。
ありがたく、ストローに口をつけてちうーと飲む。
ちうー。
ちうー。
ずごー。
ずごー。
スヒー。
完飲。
少し平静を取り戻す。
「……。はぁああぁぁああ!?」
あたしの叫びに、はた迷惑そうにレイゲツさんは顔をしかめた。
「黙れ小娘うるさいぞ」
一息に切り伏せられる。睨んだ顔もまた良し。
って、違う! 乗せられちゃダメッ!
「何ですかその非人道的かつわけの分からない要求はぁああぁ!?」
「うるさいぞ、人道など知ったことか。おまえは『喰い物』だ。おまえが牛や鶏やマグロを『食い物』だと思うようにな」
一刀のもとに切り捨て。討ち死にの我。
いや、カッコつけても状況変わんないから。
とにかく落ち着け。落ち着くんだぁああぁあ!
とりあえず頭のこのぐっちゃぐちゃを何とかすべく、レイゲツさんとは目を合わせない。今目ぇ合わせたら絶対パニクる。というわけで、代わりにガラスの天板を見る。そこに映った、逆さまの二杯のコップ。あたしのはもう氷が解けかかってて、コップの底を水で満たしつつある。レイゲツさんのは、オレンジジュースがたっぷり入ってる。
つまり、レイゲツさんはあたしを食べようとしていて、それも何っつーか、常備食? 非常食? みたいな、人権無視もいいところな食べ方というか、保存方法というか。まぁそんなんで、そんなことをする理由は、あたしが愉快人だからで。
んー? って、あれぇ? なんかおかしいぞ?
これじゃまるで、人肉を食べたいんじゃなくて、愉快なところ、どっちかってーと心とか思考とか、そういう目に見えないものを食べたいとおっしゃってるような……。
もうちょっと落ち着こう。というわけで、オレンジジュースが入ってたコップの底の水を、ストローで吸い上げてみる。解けかかった氷と沈んだ液体が摩擦し合ったような、ずごーっていう音がも一度店内に響く。
ずごー。
スヒー。
ストローが空気を吸い上げる音。虚しい音。食い意地の張ったような、あんたまだ飲むんかい、そのうちコップ仰いで氷まで食べるんとちゃうか、ってな音。
その音に混じって、カランカランと聞いたことのあるのどかな音が鳴った。
扉は、レイゲツさんの座ってるソファの奥にある。つまり、あたしが座ってる位置からは、扉がよく見える。
来たよ来た来た。入って来た。いらっしゃいませー。
入って来たのは、あたしと同い年くらいの男の人でした。
両手にはコンビニの袋を抱えています。
レイゲツさんと比べたら長身です。だいたい百八十センチくらいでしょうか。
眼鏡をかけた、いかにも好青年って感じの人です。
あれですか。
この店には美形を吸い寄せる、いわくありげな招き猫とか人魚のミイラとかスピリチュアルアロマとか、そういうオカルトグッズが置いてあるんですか? あの、それ、どこに飾ってあるんですか? そんな便利なものは、やっぱり一家に一台ないと不平等だと思うんですが。
って、何だぁこの美青年はぁあ?
レイゲツさんともカノンちゃんともまた違う、美しさというか魅力というか吸引力というか。
何っつうんですか。
こう、人当たりの柔らかそうな、たぶん押し売りセールスで客にいろいろ買わしても、客は買わされた、とか思わなくて、むしろいいもの買っちゃったわーオホホホホ今日はいい日だわー、みたいな、そんなことができそうな人。
なんかだんだん、怪しげな展開になってるような、そんな気がするのは気のせいですか。むしろその袋は何ですか。さっきカノンちゃんが言ってた買い出し担当の方ですか。つまりあなたが「こーちゃん」さんですか。
と、その眼鏡君が口を開いた。
「店の外にまで微妙な『ココロ』が漏れ出してますよ、ゼロ。新しい彼女に何吹き込んだんです?」
まぁなんてセールスに向いてそうな声なんでしょう。見た目どおりの好印象。
きっと社長さんから直々に「このブロックは全部君に任せる」とか言われてるんですね。だからこんなへんちくりんな店にいらっしゃったのですね。借金の取り立てに。あるいは商品を買わせるために。
あたしほんとに今日中におうちに帰れるかな。
ちらりと横目で店内を見回してみる。
もしも逃げるとしたら、やっぱ全力疾走かな。フルダッシュして駅に駆け込む。
あー、でも絶対追いつかれそう。カノンちゃんならまだ振り切れそうだけど、レイゲツさんやこーちゃんさんはムリだわ。振り切れない。たぶんその辺の路地で捕まる。くっそう、こんなことなら陸上部にでも入っときゃよかった。走るの大嫌いだから全然眼中になかったんだよ、体育会系クラブなんて。
目の前に視線を合わせれば、レイゲツさんが相も変わらずすっかり寛いだ体勢で、ソファにもたれていらっしゃる。
「ふん、まだ説明の途中だ」
言って、レイゲツさんはオレンジジュースのコップを持ち、あたしをまっすぐに見た。
トキメキに胸を高鳴らせるも束の間。
レイゲツさんは言ってくれた。あたしをまっすぐに見たまま。コップを持った手の、人差し指であたしを指しながら。
「こいつはおもしろいぞ? 一の事象に十の感想を返してくる」
さらっとひどいことを言われたような気がする。
「こーちゃぁん、おっかえりぃー!」
カノンちゃんがカウンターから飛び出してきた。あぁやっぱり、その人はこーちゃんさんなんですね。
「ただいまです。花音の好きな『ばあさまの知恵袋煎餅』もちゃんと買って来ましたよ」
にこり、とカノンちゃんに微笑んでこーちゃんさん――タカトさんは言う。
わぁこれ、絶対レイゲツさんは浮かべないタイプの微笑だぁ。眼鏡の奥で細められた目は、それこそ年上のお姉様方を悩殺しそうな、黄色い悲鳴を上げさせそうなカッコよさだ。
っていうか、カノンちゃん。そのお歳で煎餅が好物とは、結構渋いですなぁ。
と、つい、とタカトさんがあたしを見た。
「初めまして。ゼロがお世話になります」
にこっと笑って頭を下げられて、あたしもついつい深めに会釈した。
こういうところが日本人なんだなー。あたし外国に行っても絶対うっかり頭下げちゃうタイプだ。ま、外国に行くほど英語能力高くないから、もともと有り得ない話なんだけど。だってもう高校のときに習った英語、スポーンって忘れちゃってるし。関係代名詞なんか憶えてないし。
「あ、いえ、こちらこそ……」
何がこちらこそなんだよ。何をお世話する気かあたし。
――まぁ要するに。
あたしは顔を上げた。
いつまでも現実逃避しててもしゃーない。
突然現れた眼鏡の美男さんにどきりとはするけれど、本命は彼じゃないから。ほんとに惹かれてる相手からのお言葉を整理して、今分かってることを総合すると。
顔を上げたら、レイゲツさんとばっちし目が合った。
レイゲツさんが、ん、と少しだけあたしを驚いたように見る。
あたしは状況が呑み込めてきたことを伝えるために、口を開いた。その間にも、タカトさんはカノンちゃんと一緒にカウンターに入っていく。
「つまりあたしは、レイゲツさんに何かを――思考とかそういう目に見えないものを、提供し続けなくちゃならないってことですね?」
レイゲツさんが、驚いた瞳のままあたしを見てる。
「ほぉ……」
顔と同じ色の声が、レイゲツさんの口から漏れた。ほんとに、感嘆。そういう感じの、声。
あたしってそんなにバカに思われてたのかにゃー? こんだけ時間が経てばちょっとくらいは状況を呑み込んで、受け容れ態勢を整えるっつーの。いつまでも拒否ってたって苦しいのが長くなるだけだし。だったらさっさと受け容れて、自分が納得できるように、この状況を咀嚼するしかないし。そう、レイゲツさんに惚れたときのように。
「なかなか度胸が据わっているな」
素直に驚嘆した、みたいなセリフだった。つくづくひどいお人やなぁ、レイゲツさんは。でもそういう冷たさがあるから、あたしは逃げないんですよ?
「そうですか?」
「あぁ、大した理性だ。自分のココロを守るための手っ取り早い手段を、俺たちの素性を知らない段階で使うとはな。理解力も適応力も早い。――悪くないな」
何が悪くないのか知らないけど、今のは褒め言葉、かな?
「なんだ、まだ説明してなかったんですか、ゼロ?」
カウンターから優しげな、誰に対しても親切に振る舞えるだろうタカトさんの声が入ってきた。
タカトさんの質問には答えず、レイゲツさんは足を組みかえて、もう一度目の前のオレンジジュースのコップを手に取った。
「おまえたちが自分たちの種族を『ニンゲン』と呼ぶように、俺たちにも種族名がある。全くもってどうでもいい『仕分け』だがな」
一口飲んで、レイゲツさんは本当にどうでもよさそうに続けた。
「『心喰(ココロくらい)』。古くは人喰い鬼などと勝手に名づけられて勝手に恐れられたこともあったが、今はそれが種族名だ」
「こころくらい?」
あたしがおうむ返しにした途端、カノンちゃんがテーブルの傍に寄った。その手には、オレンジジュース。
おかわり頼んでもいないのに。
お冷とかお茶とかのサービスならよく見るけど、オレンジジュースのサービスは見ないなぁ。あとで金取られるんかな。どうしよ。今日はあんまりお金持ってへんのですけど。でもツケにしたら、それこそトゴにされそうで恐ろしい。いや、この場合、一日で五割とかかも。ぼったくり通り越して、もはやあくどい。
「そう。心を喰らう生き物。あたしたち心喰にとっての栄養源は、人間の心――感情なんだ」
ことん、とガラスの天板の上にジュースが置かれる。同時に、テーブルの振動を感知してか、一杯目のコップの中の小さくなった氷が、カラン、と言った。
「どっかのエセファンタジーみたいですね」
「だが実在する。そうでなければおまえなど生きる価値もない」
打てば響くようなレイゲツさんのセリフ。しかも何気にひどい。
「で、あたしは感情を提供すればいいわけですか? 生き餌ってことは、しばらくはそうしろってことなんですね。でも、感情の味なんて、あたしは責任持てませんよ? おなか壊しても、慰謝料とか払いませんからね?」
見えないものにまで責任感持つほど、あたしの心は広くないんです。
レイゲツさんはククッと低く笑った。その動きに呼応するみたいに、手に持ったコップの氷がカラカラと揺れる。
「信じるのか、こんなエセファンタジーを?」
「現実に目の前にいるんだから本当なんでしょう? だいたいあたしは、宇宙人肯定派ですから」
案の定、どういうことだ、という視線が目の前から突き刺さる。
カノンちゃんが一杯目のコップに手を伸ばし、うしろに立ってるタカトさんに手渡した。タカトさんはそのコップを厨房に持って行くこともせず、あたしの突飛なセリフの説明を期待してる。
レイゲツさんとは大違いだ。
レイゲツさんは宇宙人なんぞと一緒にするなオーラだけど、タカトさんは何何それ? みたいな興味を示してくれてる。カノンちゃんはこの状況そのものをおもしろがってるみたいに、あたしとレイゲツさんを交互に見てる。
いやぁ、熱いですねぇ。人生という名のステージのスポットライトは。実際のスポットライトの下も熱いらしいけど。世界の中心で、スポットライトを浴びる。
「宇宙人とか幽霊とか魂とか、目に見えないものの実在を信じない人は多いですけどね。でもそんなこと言ったら、心の実在だって疑わなくちゃいけなくなります。そうなったらあたしのこの不安定さは何のせいなのか、説明つかなくなっちゃいます。だからあたしは、目に見えないものは信じる――宇宙人肯定派なんです」
この論理には結構自信がある。
見えないものを信じないのは個人の趣味だから、べつにとやかく言うつもりはない。
でもそれだったら心の実在だって疑ってかかれよ、とまぁ夏によくある心霊番組で討論してるおっさんたちを見て思うわけだ。
あれって本当に最低で低俗な番組だと思う。要は霊をダシにして、自分の言いたいことを言ってるだけでしょ。どれだけ「霊」についての自分の論理を他人に納得させられるか、それをやってるだけのしょーもない番組。まったく、オトナとは救いようのないイキモノであーる。とは言いつつあたしも来年の三月頃にはハタチですが。
やだなぁ、オトナになりたくないよぅ。メンドーだし、自分のせいじゃなくても責任取らなあかんし、付き合いで酒の一気飲みせなあかんし、それで死んだら呪ってやらなあかんしな。
もう、オトナになるだけで大変。てんてこ舞いや。大忙しや。オトナになんかなりたくないよぉ。あぁ、これぞまさしく典型的なピーターパン症候群。分かっていても年に一回は歳を取る。
氷がガラスにぶつかる音がして、あたしはちょろっとだけ視線を上げた。
レイゲツさんが、コップを持った方の腕をソファの背に上げていた。
ククッ、と噛み殺したような笑い声を上げる。
「おまえ、本当に愉快なあたまをしているな」
にやり、とまるで瀕死の重傷を負ったトムソンガゼルを放して一旦自由にさせて、あとから仕留めようと眺めてるクロヒョウみたいな顔で言ってくれた。
「それって遠回しに、『おまえはバカだ』って言ってますよね?」
意味もなく二杯目のストローを回しながら言ってみれば、これまた本当におもしろそうな顔をして、底意地の悪そうな笑みを浮かべるレイゲツさんがいて。
トムソンガゼルは理不尽なものを感じながら小さくなるしかない。肩身の狭い思いをしたまま、あたしはこっそり二杯目を吸い上げる。
「つくづくおもしろい奴だ。――まぁいいだろう。で?」
「で?」
「おまえは生き餌になる気があるのか?」
おおっとと、そうだった。ピーターパンに憧れてて本題をうっかりすっかり忘れてた。
あたしはも一度、クルクルとストローを回してみる。氷同士のぶつかる音が、コップに当たって涼しげな音を立てた。
「つまり、あたしは心を提供すればいいわけですよね? だったら一つ質問なんですけど、心ってどこにあるんですか?」
回る氷から視線を外して、レイゲツさんを見る。
レイゲツさんは目を細め、あたし自身を指差した。
まぁ、まんざらでもない答えですね。
あたしの中にあるはずのモノですからね、その指差し回答は当たってます。でも、聞きたいこととはちと違うんですよ。
ま、世の中そんなもんですよね。知りたいことと教えてもらうことは、いつだって微妙に違う。たとえばあたしの長所は何だと思う? って訊いたら秘密主義なところ、とか。それは特徴であって長所じゃないと思う、とか、そんなツッコミは一切鮮やかに軽やかにスルー。そんな世の中。
「あー、えーと。一般的には脳ですよね、物事感じてるのは。でも心臓だって負けちゃいませんよね。だって名前のとおり、『心と連動する臓器』、なんですから。ということは、心っていうのは頭か心臓か、どっちかか、もしかしたらどっちにも、あるってことですよね?」
知りたいことは、要は、どうやって喰うのかってこと。
目に見えないものが食材なんだから、食べ方とか気になるわけでして。さすがに人肉食うように腹かっさばいて、ってことはないだろうけど、やっぱ契約内容の詳細確認はしとかなあかんかなーと。
レイゲツさんは口元にいやーな予感をもたらす笑みを浮かべた。
「それは生き餌になってからのお楽しみだ」
あららー。撃沈。沈没。大破。
しょーがない。この質問の回答は諦めよう。
ちうー。
ずごー。
スヒー。
二杯目完飲。
顔を上げて、さぁいざゆかん、君のもとへ。
「いいですよ。あたし、生き餌になっても」
要は傍にいられる理由があればいいだけ。たとえその「理由」が、「喰われること」でも、べつに気にしない。
傍にいたいのは、あたしの心。その結果くらいは、引き受けてみせようじゃない。
「いいのか? 結婚前のお嬢さんが」
「案外考え方が古風なんですね。結婚前だろうが未成年だろうが、愛は危険をかえりみないものですよ?」
愛と書いて恋の奴隷と呼ぶなら、そう呼べばいい。
あたしはそんな体裁に構ってチャンスを逃すほど、おバカさんじゃない。
傍にいられるなら、どんな理由だろうと構わないのさ。
「ふん、いい退屈凌ぎになりそうだな。――おまえ、名は?」
退屈凌ぎ。
はぁ、あたしの恋心はそんなもんですか。前途多難な恋路の果ては、どこでしょう?
意味もなくストローを氷の隙間に突き立てる。カチャン、と氷が文句を言った。
「大野(おおの)ひよりと申します」
言った瞬間、横から抱きつかれた。
ずっと立ってた、カノンちゃんに。
「ようこそ! 心喰の世界へ! あたしはねー、浅見(あさみ)花音! 花の音って書くの。あ、かのちゃんって呼んで! あたしはひよりんって呼ぶから! ちなみにひよりんは、ゼロに意見した初めての生き餌だよん」
……。目の前に好きな人がいるのに、何なんだろうこの浮気っぽい現場は。
しかも目の前の人は完全無視。それどころか煙草を取り出してる。
ほんとにあたしのことなどどーでもいいようですね。ここまで無関心主義だと、いっそすがすがしいです。
「ようこそ。申し遅れましたが、私は浅見孝都。親孝行の孝に、京都の都。タカトでもこーとでも、好きなように呼んでください」
一旦あたしの一杯目のコップを厨房に持ってったものの、かのちゃんと同じようにずっと立ってたタカトさんが自己紹介をしてくれた。あぁ、それでこーちゃんさん。
ん? 浅見?
あたしの心を察知したのか、こーとさんがにこ、と微笑んだ。
「はい。私と花音は兄妹です」
ほえー、ずいぶん歳の離れた兄妹だー……。うちのゼミクラスにもそういう子いるけど、本物を間近で見るのは初めてだ。二十歳くらいのお兄さんと、十四歳くらいの妹さん。
「そうでもないぜ。孝都は二百五十。花音は百。そんなに離れてはいない」
親切にも、煙草を咥えたレイゲツさんはそう言ってくれたのですが、あれぇ? 今の数字は何を表してるんでしょうかね? まさか、いやいや、そんなはずは。っていうか、もしもそれが年齢なら、余計に離れてると思うのですが。
かのちゃんがあたしのコップを手に取り、仰いで氷を噛み砕き始めた。がりがり言う音が、聞こえてくる。
そのままで、かのちゃんは説明してくれた。
「人間のココロはねぇ、目には見えないでしょぉ? ガリ。その分何て言うのかにゃ、『力』があるんだよ。ゴリ。だからその力を喰(た)べたら、あたしたちも力を手に入れちゃうわけ。ごっくん。そして『力』は、長命という形で表れてるわけだ」
「あなた方人間は分からないでしょうが、人間が持ち得るエネルギーの中で最も強いのが意志の力――何かをしようという感情の力なんですよ。意志の力は時として時代や常識を変えてしまうことがあるんです。それくらい強力ですから、その力を喰らったものは同じように強力になってしまうんですよ」
かのちゃんの頭を押さえて、こーとさんが補足してくれた。
「あぁ、そうなんですか。それはどうもご丁寧に……」
一応会釈して、レイゲツさんに向きなおる。本命の本名は、いかに?
まぁ、だいたいどんな字書くかは分かってるんだけどね。ゼロって呼ばれてるってことは、レイは「零」。ゲツは……よほど変わってるんじゃない限り「月」。
「高尾(たかお)零月。おまえの考えてるとおりだ」
「ちなみにゼロは、なんと九百歳! 古参中の古参だよん。そのくせ見た目は十八歳だよ? 詐欺だよね」
かのちゃんがあたしに同意を求めてくる。
やっと名前を知れてルンルン気分のままメモに書き留める間もなく、驚きで声が出ない。
きゅ、きゅう、ひゃく、さい?
きゅうひゃくさい?
九百歳ぃいいぃ!?
「驚くな。心喰は有史以前から人間の隣にいる。言っておくが、キリストより古参の奴もいるぜ?」
「キリスト! ってことはつまり二千七年、いえ、二千七歳以上の方もいらっしゃるってことで……?」
西暦はキリストの暦。キリストが生まれた年が西暦零年。つまり今は、キリストが生まれてから二千三年経ってるんですよー……って高校生のときに聞いたけど、あれ? 違ったっけ?
「そう聞こえなかったか? ついでだ、予備知識を入れておけ」
そう言って、零月さんは息を吐く。煙草の白い煙が、口から漏れた。
「心喰といえど、こんなふうに煙草は吸うしジュースも飲む。むろん、それら『人間の食べ物』も栄養源になる。感情に比べれば劣るがな。味も分かるぜ」
言って、煙草に口をつける。
「はぁ、それはまたすごいですね」
人間を食べ物にしてるくせに、その食べ物が食べる食品も食べれるなんて、心喰ってちょっとレパートリー広すぎやしませんか。
「そしてヒトの心を喰らう者は人間離れした美しさ、魅力を持っている。だがそれは、相手(エサ)を誘き寄せるための擬態にすぎない」
言って、足を組みかえる。
「つまり、容姿が整っていると、あたしみたいな人間がわんさかついて来ると」
「あぁ。なんとも扱いやすいエサだ」
ニヤリ、と見下し感いっぱいの笑みを浮かべる。
あぁ、あたし今ものすごくバカにされてる。でもこんなんで今さら嫌いになれるわけがない。
「それはどうもお褒めに預かり光栄です」
むっちゃ棒読みで返しておく。
「さて、さっそく仕事だ。明日は空いてるか?」
「明日……?」
「言っただろう? おまえは俺の口直しに要るんだぜ?」
いや、それは聞きましたから。なんでそれが明日のあたしの予定に繋がるんですか。しかも仕事? 給料出なさそうなのに? 明らかに労働基準法とか無視してそうなのに?
「細かいことは企業秘密だ。で? 空いてるか?」
「……午後二時からなら空いてます」
なんかもー、何とも言えない気分。思ってること筒抜けって、厳しいなぁ。
「あぁ、そうだな。聞きたくなくても聞こえる心(エサ)の声は忌ま忌ましいな。では明日、二時までにここへ来い」
灰皿に煙草を押し潰して、テーブルを指差す。
なんかもー、どーでもいいっす。
アホーアホーと鳴くカラスみたいに、零月さんのガラスのコップから、カランコロンと氷が笑いやがった。
そんな四月十三日の金曜日、午後九時二十八分五十二秒。