第2話
ベンチに戻る。
もう何本目か分からないほど、ジャージの君は未だに煙草を吸っている。
煙草吸ってるってことは、二十歳は超えてるってことだよね。飲酒と同じで未成年は吸っちゃいけないはずだから。でも見る限り、二十年も生きてきたように見えない。せいぜい十七か十八くらいにしか見えない。
まさかもしかして見た目どおりの未成年? 町ん中じゃないから吸っても補導されないだろうって? いやいや、そんな素敵な知略をめぐらしたわけ……ありそうで怖い。そしてそこにもトキメく。
もういいよ。何にでもトキメいときなよあたし。どうせ一夜限りの恋と恥さらしだし。
この夜が終わったら、死んでやろうかな。
なーんてね。
死にたいとか言ってるうちは、まだだいじょうぶって聞いたことがある。
でも死にたくなる瞬間って、やっぱりあるわけで。あたしなんかしょっちゅうだけど、そういうふうに、死にたいとかって言うの良くないみたいだから言わないだけ。でも人間なんて心ん中じゃ何考えてるか分かんないから、案外いっぱい死にたがってたりして。
こういう、真っ暗な駅って結構ある。
三回くらいかな、降りる駅越して、終点まで寝過ごしたことがあった。
もう、人とか全然いなくて、この町って人住んでるんですかぁ? って訊きたくなるくらい、真っ暗で、ホームの電灯も薄暗くて、エレベーターもエスカレーターもなくて。すっげぇ遅れてる感じの駅。って言っちゃあ無礼だが。でもほんとのこと。
そういうとき、死にたくなる。吐きたくなる。
吐いたことはある。死んだことはないけど。あ、未遂もないよ。リストカットなんて怖くてしませんから。だいたいピアスにすら抵抗のある臆病人間ですよ? 刃物とかムリですムリムリ絶対ムリ。もし死に方選べるんなら、刃物系はぜーったい選ばない。
まぁそれはそうと、なんで死にたくなるかってぇと、ちゃんと降りてたら今頃はごはん食べてるなー、とか。ちゃんと降りてたら今頃はテレビ見てるなー、とか。比較しちゃって、落ち込む。すると、死にたくなる。なんであたしこんなとこにいるんだろってむかついて、自分に吐きたくなる。
結局あれだよ、思いどおりにいかないと捨てたくなるんだ。そりゃもう、残さず全部。今まで積み上げてきたモノとか、これから積み上げていくモノとか。リセットしたくなる。
それを自殺願望って言うんなら、きっとそう。でも「自殺願望」の定義なんて知らないから、あたしは死にたがりながら中途半端に生きてる、宙ぶらりんでいいかげんな人間。
でもさ、今日は死ななくてよかったよ。
トイレで吐いたりもしなくてよかった。
心からそう思う。
ベンチとトイレは近いからね、吐いたりしたら絶対聞こえるし。
それに、こんな綺麗なあなたに出逢えたんだし。
よかったよ。
ほんと、よかった。
電車、来なくていいよ。
来たらあたし、飛び込むよ。
なーんて、そんな度胸もないけれど。
どうしよっかな。も一度、音楽聴こうかな。でもイヤホン外したのにまた入れるのって、変だよね。だったら最初から外すなよって思われそう。あぁでもあたし、もう充分変な人か。
いいよね、もう。
いろんなこと、捨てていいよね。
恥とか、外聞とか、人の目とか。
出逢えたし、もういいよね。
パカッ、って、音がした。何かがくっつくような音。
ジャージの君を見たら、ケータイ閉じてた。あ、もう終わったんですか。そうですよね、そろそろ不審ネタも尽きる頃ですよね。おあとがよろしいようで。
って、なんでこっちを見るんですか! あたし今超絶根暗モードに入ってたのに。どうしろってんですか。えぇ、ほんと。困りますよ。どんな顔であなたを見ろと。
あたし、高望みなんかしてなかったはずですよね。だって、絶対好かれないって思ってたし。カッコよく言っちゃえば、報われぬ想い。受け容れられぬ恋。そんな感じ。
だから望まなかったんです。この、いつ来るか分かんない電車待ちの時間だけ、いっしょにいられればいいなって。自信持って言えますよ?
なーのにどーしてこっちを見るかなー? しかも人が絶望してるときに。
困る。困り果てる。
切れ長、っていうんですかね。目の形。二重瞼、かな。いや、三重瞼か?
いやいや、そんなことでなくて。そろそろ帰る時間なんだししっかりしようよ。
目の色は……あ、ふつうですね。そのまんまな色。黒色。カラーコンタクトとかしてるもんだと思ってました。
って、だからそうでなくて! もうちょっと緊張感持とうよ。じっと見られてんだしさぁ。
ジャージの君が、ふいと視線を逸らした。前を向く。
……なんか、すげぇショック。
いや、じっと見てたのはあたしの方が先だから、不審なのはあたしの方っちゃあたしの方なんだけどさ。
うわ、なんか重い痛みみたいにずーんっ、って来てる。こりゃ家帰ったらしばらくは無言だな。ま、家には誰もおらんからべつに気兼ねせんでもいいんだけど。だからショックだって受け放題。
でもなんでショックなんだろ。ていうか、あたしは何を期待してたんだ?
やだなー、これだから世間知らずの夢ばっか見てるお嬢ちゃんは。
参っちゃうよね。いくらこんな「運命の出逢い」っぽい状況でもさ、現実なんだよ? ちっとは考えろっつの。そうそうあたしを気に留めてくれる人間なんているわけないし。
今ここであたしが線路に跳び下りて、運良く電車が来てあたしが轢かれ死んでも、きっとあなたは哀れな人間がいた、くらいにしか思わないんだろうな。いや、哀れとも思わないかも。べつに目撃したことを自慢するわけでもなく、「あぁ、人身事故か」みたいな事務的な感じでしか思わないんでしょ。
べつに怒んないよ。人でなしとか思わないよ。
あたしだってきっとそうだもん。人身事故あるたび冥福祈ってたんじゃ、キリないもん。だから割り切る。興奮だって、しないと思う。
そういうことで興奮して語るのって、なんかヤだから。人の不幸の尻馬に乗っかって注目浴びるなんて、なんかゆがんでる。感じがする。んですが、どうでしょうかね? やっぱズレてますかね。
ぴろぴろん、って電子音がした。続いて「電車が来ますご注意ください」という聞いたことのある女の人の案内。またしても言うことはそれだけですか。不親切ですね。って、いかんいかん。電子の人に当たってどうする。
今度は逆方向から来るといいなー。早く帰りてぇなー。そうそう、こんな不吉な所とは早くおさらばおさらば。じゃないとあたし、また来ちゃいそうだもん。
間違って乗る、じゃなくて、今度は明らかにここに来るつもりで乗っちゃいそうだから。
そんなのバカじゃん? また会えるか分かんないのにさ、待つんだよ? ジャージの君を。この寒々しいベンチで。ぜってぇバカじゃん? そんなんでまた会えるかっつうの。
っと、来たよ来た来た。今度は逆方向。やりぃ! 帰れるぅ!
腕時計を見たら八時三十分。うへえ、あたし三十分も待ってたんですか。その間ずいぶんいろんなこと考えたなー。人間は考える葦である。なーんてね。
ちらりと横を見れば、ジャージの君も立ち上がってる。
一緒の電車に乗る。
一駅分しかいっしょにいられないのに、それだけでなんでこんなに嬉しがる自分がいるかなー? あまりにバカなんで、思わず自分を嘲りたくなるよ。
たぶん、乗車時間は三分くらい。ここへ来るはめになったときパニクッてたけど、時計見てたから確かそんくらい。っていうか、時計でも見てなきゃ、行き先間違った電車に座り続けられませんって。
こっそりと、あたしはジャージの君のうしろに並ぶ。いやぁ、乙女ですねぇ。ほんと、マジでおバカな乙女さん。
電車が停まる。見慣れない、ベージュ色の二両編成。扉が開く。
ジャージの君の口が、開いた。扉の開閉音に混じって聞こえてきたのは、思いもよらぬ言葉。だった。
「おまえ、死にたいんだってな」
電車に乗り込む、そのジャージの衣擦れの音がする。またしてもトキメキポイントアップアップ。
……はい?
って、しっかりしろー。ほらほら単線運転駅なんだし、早く乗らないと扉閉まっちゃうよー?
どうにか平静を保ちつつ、実は八割は、この電車を逃したらもう終電まで電車来ないんじゃないかとか、そういう世にも田舎差別的なことを考えたから乗り込めた。そんなあたしはひどい人間。
ジャージの君とは少し離れて、ガラ空きの座席に座る。
サラリーマン風のひどくお疲れさまな感じで寝そべってるおじさんとか、そのおじさんとは対になるみたいにきちんと両足そろえて座ってるお姉さんとか、爆睡して前のめりになってる男子高校生とか、なんか乗客層にバラつきのある電車だなー。
って、そうじゃないでしょ!
何なんさっきのあれ! えぇえ、もしかしてもしかしなくても、あたしは全部顔に書いていた? あの三十分間、ずっと? 超ネガティブ思想を? だからバレた? こっそり思ってたのに?
うーわー、吐く声聞かれるより恥ずかしいよー。
もう泣きたい。
早く着けぇ。あたしを帰らせろぉ。
ん? 待てよ?
ふつう初対面の名も知らぬ相手に「おまえ」とか使うかぁ? 最初のときみたいに、丁寧な口調じゃないし。
あぁ! まさか新手の宗教の勧誘? いやいやひょっとしたら新手のキャッチセールスかもよ? 変なもの売りつけられたらどうしよう。低反発のふとんとか、厄除けの壺とか、象牙の印鑑とか、高級石材で作られた数珠とか。
あたしまだ未成年だから、無条件でクーリングオフできるんだっけ? あぁでも、間違っても拇印とかサインとか捺さないようにしなくっちゃ。住所も電話番号も書いちゃダメだし、あ、ケータイも持ってないって言わなきゃ。でないとしつこくメールされるかも。
って、ついて行かなきゃいいんだって! まっすぐおうちへ帰ればノープロブレム! さーあおうちへ帰りましょー。乗り換えの準備をしなくてはー。変な人は無視無視ー。
う。視線を感じる。横っ面が痛い。視界の外れには、あの黒いジャージの君の気配。
な。何なんですか。あたし何か気に障るようなことしましたか。あたしはただ、おうちに帰りたいだけなんです。ひとときの夢を見れて幸せな気分のまま、でもちょっと自己嫌悪しながら、おうちに帰るって決めたんです。それがそんなに悪いことだとでもおっしゃりたいわけですか。
そおっと横目でジャージの君の気配を見れば、やっぱりベンチに座ってたときと同じ寛ぎ体勢でメールを打っている。
何ですか! 何を報告してるんですか! いいカモが見つかったから今晩中には借金返せるとか? ひぃい、そのカモはあたしですか? そんな目であたしを見てたんですか?
さ、三分って長い。
は、早く着いてクダサイ。そしてあたしを降ろしてクダサイ。あたしはすぐにでも家路へと運んでくれる電車を待つんデス。
えぇそりゃもう、ついて来られようが待ち伏せされようが、むっちゃ無関係な他人のフリして電車を待つんデス!
日が落ち切った、夜の底を車窓ガラスに映し、それに映るのはあたしの姿とジャージの君の美しき姿とお姉さんの姿。揺れて、車輪が回転する音だけが心地よく響いて、でもあたしは気が気じゃない。
泣きたいよぅ。
帰りたいよぅ。
でももう一度、あなたの顔を見たいよぅ。
ブツッ、と車内放送の入る音が聞こえた。
「まもなくー**。**。終点**です。この電車は回送電車となります。お忘れ物ございませんよう、ご注意ください」
やる気があるのかないのか分からない、とぼけたような男の声が案内をする。
や、やっと帰れる……。
も、もう二度と、電車乗り間違えたりするもんか……。
減速が始まり、切り替えポイントに差しかかって大きく振られる。滑り込むように、駅に辿り着く。さすが主要乗り換え駅。蛍光灯の白さがまぶしいわ。
ジャージの君が立ち上がる。
あたしも立ち上がる。今度はジャージの君とは別の乗車口に向かい、そこで扉が開くのを待つ。
スッ、とジャージの君が動いた。衣擦れの音が、静かな車内に落ちる。
誰もが立ち上がった空席の前を通り、あたしが並ぶ乗車口に向かってくる。
おじさんを挟んで、ジャージの君はあたしのうしろにつく。夜の底の窓ガラスに、絶世の美貌が映る。
……こんなん、反則や。
電車が停まる。扉が開く。ホームに降りる。歩き出す。
尾行、されてる。
多くのヒール付の靴音の中に、運動靴のぺたぺたって音が混じってる。それは常に一定の距離を保ったまま、あたしのうしろをついている。
いや、そりゃあさぁ、改札口に向かってみんな同じ方向かってるけどさぁ、何もそんな、気味の悪い向かい方せんでもええんとちゃいます?
改札口のある橋に向かって、人々が階段を上っていく。
それだけのことなのに、あたしは緊張してる。心臓がばくばく波打って、勢い任せてそのまま口から飛び出そう。こんなん感じてるの、あたしだけに決まってる。
最終段に、足の裏が着く。アスファルトを感じる、その固い地面。
さ、さぁホームへ行こう。えーと、何番線かなー?
立ち止まり、電光掲示板を見上げて、確認。一番線。まだ発車まで五分弱ある。
その立ち止まった一瞬を、ジャージの君は見逃してくれなかった。
隣に、立つ。電光掲示板を、見上げる。ニット帽を含めてあたしよりも五センチほど高い、ジャージの君が。
あぁあ、あたし今日は帰れないかも。帰れたとしても、いろいろ買わされまくって、品々とともにお帰りかも。しかも使い道のない品々。お代は後日。利子付で。最近の利子はトイチじゃなくてトゴだっけ。十日で五割。それ以上もあるって聞いたことがある。平成の時代は、世知辛いと書いて世の中と読む世間様。
隣から、抑えたようなククッという笑い声が聞こえてきた。
「なかなか愉快なあたまをしているな」
間違いなく、それはジャージの君のお声。
絶世の美貌に話しかけられたことに、飛んで回って喜びの舞でも踊りたい気分だけど、うまい話にはたいてい悲惨な結末が待っている。そう、強面(こわもて)に囲まれてどうでもいい品々を買わされるという結末が。
もはや心臓は喉元までせり上がり、緊張とトキメキと諦めが混在した、微妙にいい感じの混ざり具合で煮え立っている。
「あの、何ですか……?」
べつにやましいことなんかしてないのに、なんであたしはこうもバカ正直なんだろ。声がところどころ裏返って、しかも震えてる。
ジャージの君は口角を上げた。
あぁ、それでもたとえどんな目に遭っても、きっとあたしはこのお方を憎めない。嫌いになんかなれない。
あぁそうさメロメロだよ。このわけ分かんない不審人物に。顔もしぐさも一発でトキメいてて、それで嫌いになれるわけがない。
「おまえ、時間はあるか?」
見下ろされ、問われる。
今このジャージの君の瞳には、あたししか映ってない。
かあっ、と頬が熱くなった。
スキップしたくなるような衝動に襲われながらも、悲しきかな関西人、あたしは借金背負うほどマヌケでいたくはないんです。そこまでアホとちゃうんです。
「ないです。もうすぐ電車来ちゃいますし」
あぁ、あたしって最高におバカ。せっかく向こうから振ってくれたチャンスに、強烈ビンタ食らわすなんて。
でもいいじゃない。どうせ一夜限りの恋と恥さらしだったんだし。むしろこんなにしゃべれて見つめられた、この恵まれた環境に感謝しないと。神様ありがとう。今度お礼参りしに行くわ。お賽銭はご縁の倍の十円でいいかしら?
ジャージの君は目を伏せ、ひどくおもしろそうに薄く笑う。どんなしぐさを取っても、どんな表情をつくっても、その美貌が崩れることはない。
「安心しろ。ふとんも壺も印鑑も数珠も売りつける気はねぇ」
な。何この人。あたしがさっき思った順に物を挙げた……!
何? こんな田舎で超能力者? はっ、まさかもしやこの辺りの山中に、透視した死体が?
ほら、よくあるテレビ番組。相談者がさ、ナントカさんがずっと行方不明なんですけど、今はどこにいるんでしょうって言うの。そしたら透視能力者とかがさ、ナントカさんは山中に埋められていますとか、海中に沈められていますとか、紙に書いてこういう所にいますとか答えるやつ。んで、取材班が見つけるっていう筋書き。
どこよどこ? テレビカメラはどこ? どこから撮ってんのよ? あたしカメラ大嫌いなんだって!
そもそもカメラ付ケータイに存在意義を問うようなズレた人間なんだよ? 何なのよあのわけ分かんないオプション。使う奴の神経とセンスを疑うわ。
腹立たしいことに、あいつらは人がすんげぇ無防備にしてるときに限ってカシャッとかいう景気のいい音を立てやがる。肖像権なんてアウト・オブ眼中。そういう無神経な奴はマンホールの下にでも落っこちてしまえ。そこで下水にまみれて吐いてしまいやがれ。
カンベンしてよ、あたしほんとにカメラ嫌いなの。ICチャージ機よりも嫌い。そうよあのピッピ言うヤツ。あれよりも嫌いなの。
ジャージの君は耐え切れなくなったように声を漏らして笑った。
「ふふっ、傑作だぜおまえ。――ますます口直しに欲しくなった」
……く、ち、なお、し?
って、何の?
いや、そうでなくて。
この人、一般市民じゃない。どう考えても絶対どっか違う。
いや、みんな違ってみんないいんだけどさ。でも何っつーか、こう、根本的に違うっていうか?
「そのとおり、俺はおまえたちと同じ生き物じゃない。それでも顔に出てるぜ」
図星な指摘。
じゃなくて、心読まれてる。
しかも顔にも出てるそうで。
あらら、好意は隠せない、っていうかそうですよねバレバレですよね。ベンチに座ったあのときから見てましたし。そりゃもうフォーリンラブでしたし。
って、違ーう!
そうじゃない。そうじゃなくって!
「あ、あなた、いったい……!」
とか小さく非難したら、ホームから警笛の音。続いて「発車しまーす駆け込み乗車はおやめくださーい」と言う中年男性の声。そしてバシッ、と扉が閉まって、車輪が駆動し出す音。
まぁなんてタイミングがいいんでしょう。
電光掲示板をちらりと見上げれば、約十分後に次発の案内。
これで十分くらいは、また待たなきゃいけなくなっちゃったじゃない。
つまりあと十分くらいは、まだいっしょにいられるってことじゃない。
きゃあラッキー。
……バカだ。あたし、大バカだ。
何やってんのさ。すっかり乗せられちゃってさ。バカだよバカ。手のつけられない大バカ者だよ。
と、冷笑のような微笑を浮かべて、ジャージの君はあたしに背を向けた。
「付き合え、娘。すぐにすむ」
すっ……?
いやいや、すぐでも何でもダメだってば。これはヤバイってばぁあぁあジャージの君がぁあ遠ざかって行くぅうぅう。改札を通り抜けて行ってしまうぅうぅ。
名残惜しく思ふ自分もまた自己なり。
いや違う。そうじゃない! カッコつけたってダメ。ついて行っちゃダメだってばぁあ。
逆らえぬ引力。その名は慕情。もしくは恋情。あるいは恋の奴隷。
結局あたしは心の忠告を無視して定期を取り出し、この駅は経由駅だから途中下車可能なんだよなと調子こいて改札を抜けてしまった。