標的
病室から子どもたちが消えたことに気が付いた看護師たちの話し声が聞こえる。屋上へ続く階段を昇る慌ただしい足音が次第に大きくなっていく。
「あおば……」
少年は、すぐそばで仰向けに倒れているあおばの上半身を抱え上げた。起きる様子は無いが、微かに胸が上下している。顔や手足に貼ってある絆創膏の箇所以外に怪我はしていないようだ。
元凶である【悪霊】を封印したので暫くすれば目を覚ますだろうと、鼻をひくつかせながら狼が語った。
桜緒は気を失って倒れている他の子どもたちも外傷や異常が無いか確認すると、看護師たちと入れ違いに屋上を離れる。自身の病室へと戻る途中、背中越しに大人たちの驚きと安堵が入り混じった声が聞こえた。
時刻はすっかり深夜である。少年は部屋の明かりも点けず、中途半端にカーテンが閉められた窓から漏れる月と街灯の光の中で狼に問う。
「さっきの【悪霊】も封印対象って言ってたけど、世界の綻びから出て来たんだよな? 杖の情報だと『人間界で神になれなかったもの』のなれのはてって言ってたけど」
『その通りだ。魔界からやってくるのは魔界で生まれた【魔族】だけではない。過去に我々や始祖の後継者達が封印した【悪霊】、【外星生物】、【呪具】等が流入してくる場合もある』
「人間界で封印対象が生まれることもあるってこと?」
『……理解が早くて助かるな。魔界は【人間界の理から外れたもの】全てを封印するための場所だ。魔界からの魔族の流入を防ぐだけでなく、人間界で新たに発生した封印対象を魔界に送るのも我々の重要な役目だ』
存在するだけで瘴気を振りまき、仮に倒せたとしても呪いを残す、人間界の理から外れたもの。それらを全て受け入れる魔界という場所は人間界の脅威の源でもあるが、都合のいい廃棄物処理場のようだとも少年は思った。
人の世の平和、社会や文化は、封印先である魔界がなくては維持することは難しいだろう。最初に魔界なる世界を発見し、魔族を封印することを思いついた【始祖の魔女】は相当な潔癖症だったのではないだろうか、と桜緒は想像する。
『しかし……この現状では全ての封印対象の探査にまで手が回らない』
「さっさと綻びをふさいで仕事を根本から減らさなきゃ駄目ってことか」
そう、狼が何度も説明した通り、このままでは純粋に敵の数が多すぎるのである。入り口自体を閉じないことには、魔界から流入する封印対象と人間界で発生した封印対象を両方同時に相手にし続けなくてはならない。
「杖に選ばれた俺なら魔界と人間界の間の綻びが直せるんだろ? その綻びっていうのどこにあるんだ?」
『この根久呑幌市内に複数個所……とりあえず一番近いのは……』
ヴィオラスが鼻先でごそごそと胸元の毛をかきわける。すると、ふさふさとした毛の間から折りたたまれた紙の地図が取り出された。
「夢の中でやった、あの便利なヤツ使えばいいのに」
『あれは精神世界だからできた芸当だ。別に見せて示すだけならこれでも問題あるまい……ああ、そうだ、このあたりだな』
広げられた地図は市内全体の地名と地形が分かる程度の簡素なものだ。何度となく出し入れされているのだろう、使えないほどに破けてまではいないものの、端の紙がところどころ切れており、うっすらついた肉球あとや、爪か牙で開いてしまったのだろう細かな穴が開いているのがわかる。
狼はその地図にいくつか書きこまれた赤い丸印のうちの一つを爪先で指し示した。
「この場所……区内? すぐ近所じゃないか! ほんとにこんな近くにあるのか?」
示された位置は根久呑幌市東区、桜緒の通う小学校から直線距離にして2kmも離れていない。
『ああ、この周辺は魔界のにおいが濃い。確実に綻びがある』
ヴィオラスは狼だけあって嗅覚はするどい。が、使い魔の身では場所を特定できても原因そのものの対処はできないのだ。
本格的に魔女の後継者、魔法少年の出番である。
「じゃあさっさと行こう、います……ぐ!?」
少年が部屋の出口に向かって歩き出そうとしたその時、パン、と何かが破裂するような音がした。近くで風船でも割れたのかと思われたがそうではない。音とともに、桜緒が纏っていたローブと戦闘服が弾け飛んだのだ。
「え?」
服の繊維が薄紅のきらめく糸になってほどけ、空中に四散する。気が付けば少年は幻術を使う前の病院着に戻っていた。
『幻術が解けた……魔力切れだ。どうやら今日はこれで限界のようだな』
「そんな、早く綻びを修復しないと!」
またさっきのような【悪霊】が誰かを襲うかもしれない、そう言おうとする前に、狼の姿をした使い魔は桜緒に告げた。
『焦る気持ちはわかる、それに我々としても綻びの対処は急務だ。だが無理に魔法を行使し続ければ反動も大きくなる』
「それでも!」
『いいか桜緒、杖に選ばれた後継者は”お前だけ”なんだ』
「……あっ」
最初に生首の怪物を倒した後に感じた、手足に残っていた熱、頭の奥底に残る痛み。あの時ほどではないものの、指先が震え、僅かに頭が重い。反動が残ったまま戦い続けることになったらどうなるのか。綻びを直す術式にちゃんと集中できるのか。
そして何より、羊飼いの声が鼓膜にまとわりついているような感覚が残っていることに気が付いた。元凶を封印したことで周囲の人間や場所自体への影響は消え去ったようだが、直接対峙した少年には【悪霊】の呪いが残留しているのだ。
「これじゃ、無理、だな」
『魔法の行使には精神力を使う。それを空にするまで無理をしたらすぐに廃人になってしまうぞ』
桜緒が無茶をして取り返しのつかないことになれば、綻びの修復ができなくなってしまう。そうなればまた巡り合えるかもわからない別の後継者を探し、魔狼は封印対象の相手をしながら駆けずり回ることになるだろう。そうなればますます綻びを放置してしまう期間が延びるだけだ。
ふと、桜緒の視線とヴィオラスの朱い眼が合う。この狼は単純に使命と効率のために後継者である少年を御そうとしているかに見えたが、どうやらそれだけではないらしい。
ヴィオラスが少年に向ける眼差しには心配の色が浮かんでいる……ような気がした。
「わかった……とりあえず今日はもう休んで、明日綻びのある場所に向おう」
『それがいいだろう。では明日。……ゆっくり休んでくれ』
桜緒が杖を手放すと、杖はふわりと浮かんでヴィオラスの口元の高さまで移動する。狼は目の前の杖をくわえ、少年に背を向けると夜の闇の中へ消えていった。
半開きになっている窓のカーテンを引くと、少年はすぐベッドに潜り込み目を閉じるのだった。
もしかしたらまだ夢で、次に目を開けた時には肝試しの怪物も、傷ついた幼馴染も、犠牲になった人たちも、耳に残る悪霊の声も、何もかもなかったことになっているんじゃないか。そんな希望と不安をごちゃ混ぜにした気持ちを残しながら。
*****
埃の積もった板張りの床。乱雑に押しやられた椅子やテーブル。塗装が薄れた崩れそうで崩れない壁。人が近寄ることも侵入することもないはずの廃墟に何者かの声が響く。
「あーあー【姫】も【羊飼い】も封印されちゃったぽいけどー?」
若い男性、いや、少年の声だ。
「駒のロストは厳しいからなー。引いちゃう? 単発いっちゃうかー?」
びし、と何かが割れる音がする。僅かな振動と黒い靄を伴って、廃墟内部の空間に亀裂が入った。
その様子を楽しげに眺めるのは携帯電話を片手に佇んでいる学生服の少年である。先ほどからする声も、彼のものであるようだった。
「一日一回無料ガチャー……こいこーい!」
空間の亀裂が大きく歪む。何かが低く唸るような響きと量を増した靄が廃墟中に充満する。亀裂はゆっくりと割れて闇を湛えた穴となり、中から巨大な影が姿を現した。
それが異形の化け物でなければ、さながら卵からひな鳥が孵るような光景であった。穴の中から出現した【それ】は、冷たい床にぼとん、と落ちるようにして這い出る。学生服の人物は繰り広げられる現象にも【それ】にもひるむことなく歩いて近づいてゆく。
「んー、なかなかレアなんじゃない? じゃあ早速で悪いんだけどー」
片手で携帯電話を操作しながら、彼は言った。
「ちょっとムカつくクソオオカミがいるからぶっ潰してきてくれない?」
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