病院・3
ぐねぐねと病室の空間が歪む。その光景は先ほど杖とヴィオラスを召喚した時のものと似ているが、肌に感じるおぞましさと、狂ったような笑い声を伴う具現は異質というほかなかった。
空間の歪みから白い手足が生える。ちょうど子どもの大きさのそれは緩慢な動きで上下に揺れ、手招きをしながら桜緒少年の方へ歩み寄ってきているように見えた。
――アア、ミツケタ、カワイイヒツジ……――
手足に続いて胴と頭が現れる。
姿形は見た限り幼い男児のようであった。短い癖のある薄灰色の髪の少年だ。背丈は桜緒よりも頭一つほど低いだろうか。よれたチェック柄のシャツとオーバーオールを纏い、首には持ち手の付いたベルがぶらさがっている。血の気の全くない青く見えるほど白い肌は淡く光っていた。
『封印対象だ。有害霊種……【悪霊】だな』
鼻にシワを寄せて威嚇しながら、ヴィオラスがつぶやく。杖から流れ込んできた情報の中に【悪霊】の定義があった。未練のある霊魂、命が宿った自然物……そういったものが「人間界で神になれなかった」場合【妖精】となり、【妖精】が長い月日を経て負の感情を取り込み凶悪化したものが【悪霊】である。具現するだけで瘴気をまき散らし呪いを伴う、災いそのものであるため、最大限封印に努めなくてはならない。
出現した【悪霊】は空中に浮遊しながらくすくすと笑い、闇と見紛う黒い瞳で桜緒とヴィオラスを見つめている。
「さっさと封印しちゃおう」
『ああ、頼む』
手順は肝試しの時と同じ。対象を意識して集中すればよい。桜緒はヴァルボルグを構えて【悪霊】に向けた。
――オビエテイルンダネ カワイソウニ――
頭の中に声が響く。幼いが、優しい、どこか懐かしい響きだ。【悪霊】の虚無を映す眼差しが、慈しむような視線に変わる。
『桜緒、耳を貸すな!』
注意を促す狼の声がやけに遠い。墓地で逢った生首、そしてこれから出会うだろう魔界のものどもへの恐怖が今になって少年の奥底から湧き上がる。
――オイデ イッショニイコウ カワイイヒツジ――
小さな白い手が桜緒に伸ばされた。彼に付いてゆけば惑うことがなくなるような、恐怖をすべて取り払ってくれるような、絶対的な安心が得られるような気がする。街路樹の葉ほどの広さの掌が、不思議ととても温かそうに思える……。
『桜緒!』
ヴィオラスの叫びと同時に、杖が激しく明滅した。
「あっ、つ!!」
少年の身体に電流が走る。針で刺されたような痛みを感じた途端、混濁した意識がはっきりとしてきた。
あの【悪霊】の声には催眠のような効果があるようだ、と身をもって理解する。
「いきなり面倒なヤツにぶつかっちゃったなあ」
これでは封印のために必要な「集中」を欠いてしまう。どうにかあの声を妨げる方法がないものか、と少年が杖に尋ねようとした時だった。
――マダマダ ココニハ ヒツジガイルネ――
桜緒が手を取らなかったのを認めるや否や、【悪霊】が無邪気な笑顔を浮かべながら病室の扉から廊下へ飛び出して行った。
「待て!」
慌てて少年と狼がそのあとを追って病室を出る。白いもやと化して病院内を巡る【悪霊】は、桜緒の病室がある3階のフロアを一周すると、階段に飛び込み上へ上へと昇って行った。
「あいつすばしっこいな」
『上だ、急ぐぞ桜緒』
一人と一匹も階段を駆け上がる。【悪霊】は階段を昇りきり、行き止まりの扉をすり抜けて屋上へ出たようだ。桜緒はでかでかと掲げてある「立ち入り禁止」の札を無視し、生まれた時から知っていたかのような手際の良さで鍵開けの魔法を行使し、扉を開け放った。
『いたぞ!』
「とりあえず逃がすとまずい、動きを止めないと」
夜空を臨む屋上の中心に、淡く発光する【悪霊】の姿があった。生ぬるい風が少年の頬をかすめ、くすくすという笑い声が不気味に響く。
――ミンナデユコウ アンシンオシ ヒツジタチ――
【悪霊】は首から下げていたベルを手にすると、高く掲げて振り鳴らした。
がらんがらん! がらんがらん!
ベルの音がやむと、屋上は驚くほど静まり返る。突然のベルの音に不意をつかれ、桜緒は一瞬頭が真っ白になった。ヴィオラスも同じく面食らったようで、耳を伏せて数歩退いている。
「え、な、何をしたんだ?」
『わからん、だが警戒を怠るな』
桜緒は杖を強く握り直す。これ以上集中を乱されては封印が長引くだけだ。まず、妙な行動をされないように足止めをしなくては。少年の思考に応えるように、杖から今必要とされている魔法知識が流れ込んできた。
「拘束……術式? これなら!」
頭の中に呪文が浮かぶ。あとはこれを口にするだけでいい。
「術式展開!」
杖にあしらわれた文様が波打つように輝いた。
「対象捕捉、チェインクラフト!」
少年の詠唱が完了すると、杖の先端から表面に刻まれた文様を崩したような細長い光の束が放出される。光の束は複雑に絡み合いながら対象である【悪霊】に素早く伸びてゆき、身動きを奪わんと手足に巻きついた。
どうやら効果はあったらしく、【悪霊】はじたばたと身をよじらせているものの、絡み付いた光の束……いや、鎖を解くことはできないようだ。
「やった、このまま封印……」
桜緒は手ごたえを感じてすぐさま封印術式に切り替えようとした。だが、【悪霊】は再び笑い出す。
――オイデ ヒツジタチ――
『後ろだ!』
ヴィオラスの声で振り向こうとした時にはもう遅かった。開け放った扉から入ってきたのであろう何者かが桜緒を羽交い絞めにしたのだ。狼も同様に押さえつけられ、無理やり「ふせ」の体勢をとらされてしまった。
まだ仲間がいたのか、となんとか首だけ動かして自らを拘束する者を見やる。そこには少年がよく知る少女がいた。
「……あおば?」
健康的な褐色の肌、ベリーショートの髪は変わらない。だがその眼は虚ろで焦点が合っていないようだった。先ほどまで少年も着用していたものと同じデザインの病院着を身に着け、頬と額には大きな絆創膏が貼られている。彼女もまた、この病院に入院していたのだろう。
屋上に侵入してきたのはあおばだけでは無かった。3階、小児病棟に入院していたのであろう子どもたちが桜緒たちを取り囲んでいく。
病室からあの【悪霊】が逃げた時、真っすぐに階段へ向かわずフロアを一周していたのには意味があったのだ。月の魔力が満ちたこの時間、子どもたちには【悪霊】の声が届く。先ほど桜緒が体験した、誘うような懐かしい声が。
「まさか、あいつが、あおば達を操ってるのか?」
幻術で桜緒たちの姿は普通の人間には見えないはずだ。にも関わらず子どもたちはそこにいることがわかっているかのようにしっかりと体を固定している。子どもたちの意識があの【悪霊】の手の内にあるのだとしたら説明がつく。焦る少年をよそに、【悪霊】は拘束されながらも微笑んでいた。
――タクサン タクサンノ ヒツジタチ アンシンオシ――
桜緒の耳元で、聞きなれた、しかしいつもの活発さも、肝試しの時の震えもない、無感情な声が発せられた。
「メエ」
幼馴染の口から出た声はまるで子羊の鳴き声だった。
動揺、焦燥、恐怖。少年の集中力が妨げられる。同時に、【悪霊】を拘束していた鎖も脆くなっていく。
「メエ メエ」
「メエ」
「メエ メエ メエエ」
周囲の子どもたちが一斉に鳴いた。
――イタイオモイ コワイオモイ――
――シタクナイ シタクナイ カワイソウ――
――ボクハ ヒツジカイ――
――カワイソウナ ヒツジタチヲ ミチビクタメニ――
【悪霊】に絡みついていた鎖がぼろぼろと崩れ解かれた。
――イッショニ イコウ――
【羊飼い】の声を聞くと無力な羊になってしまう。ただ導かれ苦痛を取り除かれるのを待っているだけの存在に、安心できる絶対的なものに身を委ねるだけの存在になってしまう。病や怪我の痛みに耐え、両親や友人に会えない寂しさと不安に耐えている子どもたちは【羊飼い】にとって格好の「羊」。
――モウ クルシクナイヨ――
子どもたちに取り囲まれた桜緒に【羊飼い】が近づいてくる。見るものを安心させる笑顔をたたえながら、不思議と懐かしい声で囁きながら。
そう、桜緒少年もまた、【羊飼い】にとって導いてやるべき「羊」なのである。
『桜、緒……!』
子どもたちの重さによってほとんど潰されている状態のヴィオラスが、少年の名を呼ぶ。すると【羊飼い】は歩みを止め、地面に押さえつけられている狼を見やった。
――オオカミハ ヒツジヲタベチャウ……――
どこに隠し持っていたのだろうか。【羊飼い】は身の丈の半分はあろうかという赤黒いものがこびりついた鉈を取り出した。
――アンシンオシ タイジ スルカラネ――
月明りに照らされた刃が振り上げられる。【羊飼い】の首元のベルが揺れ、がらんと音を立てた。
「ヴァルボルグ!!」
鉈が狼の首元に到達する寸前、魔法少年は声をあげた。【羊飼い】の注意がヴィオラスに逸れた一瞬、虚ろだった意識が復帰するとともに杖から熱い波動が流れ込んできたのだ。
杖の文様が紅く輝く。素早く放たれた鎖が【羊飼い】のベルを絡めとった。
――ウ、ア!?――
ベルはそのまま巻きついた鎖によって粉々に砕け散る。すると、少年を拘束していた幼馴染の力が抜けた。そして糸が切れたように地面に倒れ、どうやら気絶したようだ。周囲の子どもやヴィオラスを押さえていた子どもたちも、意識を失ってその場に崩れ落ちる。
――ア、ア、ボクノ ボクノヒツジタチ……!――
【羊飼い】から笑みが消え、代わりに焦りの表情が浮かんだ。倒れ込んだ子どもの周りをうろうろと歩き回っている。
『今しかない!』
「わかってる!!」
魔法少年は杖を構え直し、【羊飼い】に意識を向ける。
「術式展開! 転写! チャージ! ロック解除! 対象捕捉!」
光の檻が【羊飼い】を捕らえる。【悪霊】は未だに戸惑ってあたりを見回しているだけだ。
「封印!!」
収束する光とともに消えゆく中、【羊飼い】は抵抗を見せなかったが、封印が完了する瞬間一言だけつぶやいた。
――アア カワイソウナ ヒツジ……――
誰かに向けられたものなのか、それともただの独り言なのか。【羊飼い】の最後の声は何故か桜緒少年の耳に暫く残って離れなかった。




