シャッター通り・1
桜緒は住宅地とスクールゾーンからやや外れた道路沿いを、狼とともに歩いていた。ヴィオラスが地図で示したのはこのあたりのはずである。辺りを見渡すと、見慣れたファミリーレストランやスーパーが並ぶ、交通量も人通りもそれなりに多い場所だ。本当にこんな所に”綻び”があるのだろうか。
「このあたり、だよな?」
『ああ、魔力の臭いが濃い。こっちだ』
狼はすんすんと鼻を鳴らすと、前に出て少年を先導する。導かれるまま大きな道路の脇にある細い通りに入ると、古びた看板と錆びついたシャッターが並ぶ商店街のアーケードが現れた。
「……こんなとこがあったのか」
少年が生まれる前には既にこの周辺には先ほどの道路沿いで見たような大型スーパーや量販店が出店しており、買い物などの用事はほぼそちらで済んでしまうので、こちらの小さな商店街があることすら知らなかった。賑わっていた頃もあったのだろうが、ほぼ廃墟となっている現在の光景からは想像もできない。埃を被った電飾で縁どられた「はしどい商店街」という文字がどこか物悲しい。
かろうじて電灯には明かりが点いており、入り口のあたりは違法駐輪と思われる自転車が何台か停められている。通りを抜ければ住宅街近くに出られるようで、近道として使っている人間がいるのだろう。
『臭いの出元はこの中だ』
ヴィオラスは車止めの石柱をすり抜けて、煉瓦が敷き詰められた商店街の道に入っていく。少年も様子を伺いながら後を追った。
「ほとんど閉まってるみたいだな」
人の気配はまるで感じられない。店は閉まっていても住んでいる人がいるかと思ったが、不法投棄された家電の山や、いつの時代のものかもわからない商品の看板やポスターを見るに、無人なのだろう。まるで時間が止まっているようなこの空間が、取り壊されず残されているのは不思議な感覚だ。桜緒は施設を解体するにも資金や手続きが必要であることは知っていたが、今の彼にそこまで考えていられるほど余裕は無かった。
「……うん?」
前を進んでいた狼の足が止まっていることに、少年が気付く。
ヴィオラスは、じっと一点を見つめている。桜緒はその視線を辿ると、ちかちかと点滅する切れかかった電灯の明かりの中に、バスケットボールほどの大きさの【何か】がいた。
遠目から見ると、それは薄汚れたぬいぐるみのように見えた。パステルカラーの布で覆われ、糸と木製のボタンで胴体に足が留められた、子鹿を模したシルエットのぬいぐるみだ。それだけなら捨てられた玩具か何かだと思えたが、その物体は電池で動作する安易な玩具の動きではない、しなやかで、生物的な動きをしていた。耳を上下させ、短い尾を震わせる細かな所作は機械じかけとは思えない。
そして何よりも、その物体の足元に赤い水たまりと、原形を留めていない肉塊が点々と広がっていた。
「……!」
『人間界のモノではない、しかも狩りの真っ最中だったようだな』
「な、ん、それって」
人間の世界で、魔界にあるべきものが殺傷を犯した。その現場を少年は目にしてしまった。テレビニュース越しではない。今まさにあの物体によって行われているのだ。
「封印するぞ!」
『ああ!』
魔法少年と狼が戦闘態勢に入ると、気配に気が付いたのか、ぬいぐるみのようなそれはびちゃびちゃと血だまりを踏みしめながらこちらに近寄ってきた。よく見ると、返り血を浴びて赤黒く染まった脚と腹と対照的な、澄んだ青いガラスの眼が顔にはめこまれている。
言い知れぬ不気味さを感じた桜緒は、杖を構え、その先端を向かってくる小鹿のようなものに向けた。杖から情報を引き出そうとするが、何故かなんの情報も流れてこない。
「なんだ、なんなんだこいつ?」
神になり損ねた【悪霊】ではない。魔界に住まうという【魔人】でもないようだ。
「ヴィオラス、こいつ封印対象なんだよな!?」
『そのはずだが……魔力の臭いはする、しかしこれは……』
「なんか杖の情報がうまく出てこないんだ!」
『ああ……これは、こいつは……』
ヴィオラスの紫紺の毛並みが、ぶわっと逆立った。
『桜緒、来るぞ!』
ヒュッ、と風を切る音が耳元を駆け抜けた。横に目をやれば、ローブの端がすっぱりと斬れている。
「な、なっ!?」
背後で金属同士がぶつかる甲高い音がした。何か、撃たれた。目の前のぬいぐるみが、何かを放った。それは分かったが、何が放たれたのかまでは理解が追い付かない。
だが、一回のまばたきを終えた瞬間、いやでも理解させられてしまった。
鈍く光る鋭利な刃が空中を浮遊している。
形状はナイフに近いが、宙に浮くそれは普段少年が目にするものよりも、柄が短く、異様に反りが深い。刃渡り15cmほどの刃が何振も、何重にも連なってこちらに切っ先を向けていた。
「このナイフどっから!?」
『あれだ、桜緒!』
少年と同じく、かろうじてナイフをかわしていたヴィオラスが、ぬいぐるみに視線を向けている。大量の刃の波は、あの玩具のような物体の背中、その縫い目の狭間から発生しているようだった。あの大きさのどこに、これだけの量の凶器が入っているというのだろうか。明らかに外観から想像しうる容積を逸脱している。
『あのぬいぐるみにナイフ、おそらく魔力を持った【呪具】だ。だが、それだけじゃない、何か別の臭いもする』
「別の……?」
狼の言う【呪具】については、すぐに杖からの情報が見つかった。長い年月をかけて魔力を帯びたもの、もしくは呪術的な儀式により魔力を吹き込まれたもの。他者を傷つけ、狂わせ、殺めるために用いられる強力な道具のことだ。人の世の理から外れ、血を求めさまよう【呪具】も、魔界に封印するべき対象である。
しかし、今対峙している物体からは【呪具】の気配以外にも別の魔力が感じ取れるというのだ。
「! また来る!」
少年は、刃の連なりが波打つように揺らぐのを見た。薄暗い廃墟の通りの中、唯一と言っていい光源である頼りない電灯の明かりが刀身に反射し、煌めく直線を描く。
数本のナイフが桜緒の幻装着と狼の毛先をかすめ、地面の煉瓦の隙間や閉じられたシャッターに深々と突き刺さる。
「……あいつ、もしかして」
何かに気が付いた様子の桜緒は、杖を握り直してつぶやいた。
「わざと攻撃を外してる?」
最初の不意打ちで、狙おうと思えば心臓でも、脳天でも狙えたはずだ。ついさっきの攻撃も、あれだけの数を一斉に打ち込めば確実に急所に当たるだろうものを、全てではなく数本に留めている。
「なんで……?」
少年が思わずそう漏らすと、ぬいぐるみにはめ込まれたガラスの眼がナイフの刃よりも鋭く光った。
――威嚇、いや、警告だよ、少年――
低く這うようなその声は間違いなく、目の前の小鹿を模した物体から発せられていた。




