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7話

「おう、隆博。」

(先輩・・・)

 水木先輩だった。

「まだ、店開いてないか。早いかな。」

「ああ、いいんですよ。どうぞ。」

 僕はカウンターを勧めた。彼が店に来たのは初めてだし、むろん僕がバイトしてるなんて知らないはずだ。

「あの。何飲みます?」

 メニューをさしだすと、

「トムコリンズ。」

(えーと、ジンベースだったけ?)

 変わった物を注文されて一瞬躊躇した。

「ジンだよ。」

 僕の考えていることを見透かすように先輩が言った。

「メニューにないな。だめか?」

 メニューにトムコリンズが載っていないことを彼は指摘した。

「いや、いいですよ。作りますよ。」

 うろ覚えだが、シェーカーに材料を入れ始めると、

「お前、けっこうしゃれたところでバイトしてんな。」

 彼が話し始めた。

「で、先輩どうしたんですか?僕がここでバイトしてること知ってたんですか?」

「いや、健二に聞いた。」

(なるほど、で、何の用事?)

「お前さあ、なんでワークショップ、最近来ないの?」

(ああ、そのことか。まさかあなたに顔を合わしにくいからなんて、言えないよな。)

 僕はシェーカーを振りながら

「最近、ずっと忙しかったんです。」

 言葉を濁した。

「そうか。」

「でも、勉強だからな、来た方がいいぞ。」

「ええ、わかっています。」

 僕はなんとなく先輩の顔を見るのが気恥ずかしく、カウンターの中でいろんな雑用をしながら、彼と言葉を交わした。

 先輩はそれからグラスを2、3杯おかわりして、たわいもない話をして出ていった。

 そして、次のワークショップの課題を置いていった。

 僕は目を通して、はっとした。


『レイモンド・カーヴァーもしくはリチャード・アダムスの著書の一節』

 組み合わせは先輩とだった。課題に沿う文献を選んで、規定のページ数だけ訳しお互い交換する。それに目を通し、お互いの訳にたいしてのうんちくを述べる。

 さて、はっとしたのは『リチャード・アダムス』という作家の名前だ。僕の原点。

「…芙美。」

 その名前をつぶやくと、胸が苦しくなる。せつなくて、今でも心を離れない。

 芙美は高校の同級生。英語が好きな女の子で、いつも原書でいろんな本を読んでいた。僕も英語が好きな科目で、読書も好きだった。だから、芙美が図書館でいつも本を読んでいるのを見ていた。何とはなしに声をかけてみたのがきっかけで、僕らは図書館で会うといろんな話をした。読んだ本についてとか、クラスのことや、学校の行事や先生のことや。そして、この本は良かったとか、あの作家のこんな本を読んでみたらって、勧めあったり・・・。

 リチャード・アダムスは彼女の好きな作家のひとりだった。彼女が僕に残してくれた本。リチャード・アダムスの「ウォーターシップダウンのうさぎたち」。原書だった。僕は芙美が残してくれた本が読みたくて一生懸命勉強した。その上・下巻の本を辞書をめくり、わからない所は先生に聞いたりして、読み終わったのには3ヶ月がかかった。それほど僕は英語が好きなくせに全くだめだったんだ。

 芙美のことを思い返していると、オーナーが帰ってきた。


「大丈夫だった?店?」

「ええ、とりたてて何もなく。」

「客は?」

「ひとりです。」

 先輩のことだ。

「でも、隆博はある程度カクテルも作れるし、客あしらいもうまい。俺が留守にしていても大丈夫だから、安心だ。」

「それほどでもないですよ。」

 そう言って、トムコリンズを注文されてレシピに迷ったことを話した。オーナーは、ああ、メニューにないからなあと言って、どこかにレシピ集があったと探してくれた。そして2人でそれを見ながらカクテルを作る練習をしていたら、客がどんどん入ってきたので中断した。


 その2、3日後に僕はT市にある洋書の専門店に向かった。目的はワークショップの課題を探すためだ。地下鉄に乗り、その専門店がある駅に降りると、そのホームで見覚えのある女性を見かけた。

(あ、おばさん。)

 芙美の母親だった。細面の優しい雰囲気の女性だ。あまり変わっていない。向こうも気がついたらしく、

「隆博くん。」

 と、声をかけてきた。

「おばさん、ひさしぶりです。」

 頭を下げると、

「ちょっと見ない間に大人びたわね。」

 彼女は笑顔を見せた。

 おばさんはこの駅の近くにあるデパートに買い物に来たらしい。僕が学校の勉強で使う洋書を探しに来たのだと言うと、勉強熱心なのね、と褒めてくれた。そして、少し立ち話をした後別れ際に、たまには芙美に会いに来てやってね、と言って人混みの中に消えていった。


 ああ、そうなんだ。何年だろう。あれから何年経ったんだろう。最後に芙美に会いに行ったのはいつだったんだろう。僕はいてもたってもいられず、芙美に会いに行こうと思った。

 今からでも。すぐに。

 そう思ったけど、思っただけだった。僕は駅のホームのベンチに座ったまま、じっと電車が行き交うのを見ていた。見ていただけだった。心とは裏腹に体が動かなかった。

 まだ、芙美に会えない。僕は自分の気持ちをまだ整理していなかった。


 僕はリチャード・アダムスの短編を何冊か買って家に帰り、読み始めた。洋書を読んだのはこの人のが初めてだ。そして、何故かそれがきっかけで僕は翻訳の仕事がしたいと思い始めた。その言葉の裏にあるものが知りたい。訳し方によっていろんな解釈がある。読み手にどんなふうに原作者の思いが伝えられるだろう。僕の中で言葉は魔法だ。言霊という言葉がある。言葉には魂がある。どんな思いをどんな言葉にしたら、真実のことが伝えられるだろう。僕が今思っていること。言葉にしたら壊れそうだ。でも、僕は自分の心の中で何度も、何度も復唱する。その言葉を。それは誰にも知られたくない。


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