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59話(最終話)

 5年後。

「和可!」

 砂場にうずくまって、2、3人の友達と遊んでいる娘を見つけて声をかける。

「パパ!」

 スコップを投げ出して走ってくる和可を門の所で迎える。

 大勢の母親に混じって子供を迎えに来ている父親は僕くらいのものだ。最初は気恥ずかしさを覚えたが、だいぶ馴れた。先生とも顔見知りだ。

「いつもお世話になります。」

 担任の三原先生に頭を下げる。

 先生は迎えに来た親たちに、それぞれの子供を引き合わせながら僕と会話を続ける。

「和可ちゃんはお父さんが好きなのね。朝から今日はパパが迎えに来るのって。嬉しそうに。」

「そうですか。」

「パパ。」

 和可が僕の足にまとわりつく。紺色のセーラー服の幼稚園の制服を着た娘を見つめる。ぷくっとした頬をした和可は小さい頃のレナにそっくりだ。

 先生や友達に手を振って園を後にする。僕と和可は道沿いに咲いている花の名前を当てたり、街路樹の数を数えたりしながら、歩いて家へ向かう。


 今日は土曜日。土曜日はいつも和可のお迎えの当番だ。

 あれから、大学を卒業して就職した年に僕は結婚した。相手は、悟が東京へ行って1年程たった頃に、紹介で知り合って付き合いだしたレナだ。レナは薬科大の学生で、卒業してすぐに大学の付属病院の薬局へ就職が決まった。結婚してすぐに和可ができたが、せっかく就職できた職場を辞めるのが嫌で、産休と育児休暇を取って、和可を育てた。そしてこの4月、本格的に彼女は職場復帰をした。

 それで、僕が仕事のあるウィークディは、子供が小さいうちはと、パートタイムにしてもらったレナが仕事を早めに終わり迎えに行く。土曜日も診療のある病院なので、彼女は出勤する。代わりに週休2日制の僕が和可の面倒をみる。

 僕は卒業後、森下さんの勤める会社、そう、僕が翻訳のアルバイトをずっと続けさせてもらった㈱ダイナランゲージサービスに好待遇で迎え入れてもらえた。出版社も兼ね、翻訳業界でもトップクラスのその会社にはなかなか入社出来るものではない。僕が好待遇で迎え入れてもらえたのは、その会社の重要な取引先であるF商社の重役が悟の父親だったからだ。僕は、入社後、森下さんにそのことを聞いた。

「水木くんはF商社の専務さんの息子さんなんだってね。全然知らなくてびっくりしたよ。そういうこと、話をするような子じゃなかったからね。」

 彼の父親が僕の就職に口添えをしてくれたらしい。ということは、悟が…。嫌っている父親に頭を下げてまで、僕のことを心配してくれていたのかと、思ったら胸が痛くなった。確かにコネではあるが、僕はそれを感謝して素直に受け入れさせてもらうことにした。そこへの就職は僕の希望だったからだ。いろんな出版物の下訳をやったり、森下さんのようなコーディネーターの仕事、営業に出ることもある。3年目でやっと会社にも慣れたが、まだまだ勉強することは一杯ある。


「パパ、本屋さん行こう。」

 和可が僕の手を引っ張った。

「わかった。こないだから言っているマイメロディの絵本が欲しいんだろ?」

 和可はにやっと笑って、

「だって、ママ買ってくれないもん。」

 和可は僕が自分に甘いことを知っている。

「いいよ。」

 僕も和可の顔を見て笑う。

「やった。」


 家への道筋にある本屋に入る。街でも一番の大型書店であるその本屋は、いろんな種類の本があり専門書も多い。僕はよく和可を連れて仕事関係の本などを探しに来ることがあり、和可もそれを覚えていて欲しい本があると僕について来る。ちゃっかりしていてチャーミングで、憎めないところは本当に母親に似ているといつも感心する。

 本を手に取ったりして、店内をぶらぶらしていると、雨が降り出した。天気予報では雨は降らないはずだった。陽光がきらきらと差し、ガラス窓から光が降り注いでいる。

「お天気雨だね。」

 和可が言う。

「すぐ、あがるよ。」

 和可にお気に入りの絵本を買い与え、パパもちょっと見たい本があるからと、本を読むことの出来るスペースへ和可を連れて行く。和可はそこのベンチに腰掛け、買ってもらった絵本を熱心に読み出した。その間に、自分の本を探しに店内をうろつく。

 店内を一通りうろつき、数冊の雑誌を買う。そして、こないだから読みたいと思っていた洋書を探しに専門のコーナーへ行く。僕は平積みされた書物や、ABC順に作家別に並んでいる棚を眺める。その平積みされた書物の中に、目を引く表紙があった。

 本当に偶然だった。青い空に白い雪の山並みが並んでいる。そのタイトルはなんだっただろう。あまりよく覚えていない。ただ、その美しい風景が気になって手に取って見た。そして、その訳者を見て、僕は心臓が止まるかと思うくらいびっくりした。

(悟。)

 その表紙には、作者の下に〝訳:水木悟〟とあった。


 僕の脳裏に浮かんだ。

(お前が翻訳家になって、お前が訳を手掛けた書籍が書店に並んでいるんだ。しかも平積みでね。それを買って読む。それが俺の夢だ。)

 別れ際に彼が僕に言ったこと。そして自分の夢を押しつけて悪かったと、そして自分もやってみると笑った。

(きっと、望めば手に入るものだ。)

 ああ、僕は懐かしさと共に心臓がどきどきして、その場に崩れ落ちてしまいそうなくらい、動揺していた。

 でも、幸せなんだ。きっと、うまくいっているんだ。そう思ったら、次の瞬間には不思議に胸が軽くなった。それでも忘れるわけなんかない。彼の事を。俺の夢だといいながら、自分の方が先にやってのける、それも軽々とね。さすが彼らしい。

 あの後、東京へ行ってしまってから数ヶ月経って、1枚のポストカードが届いた。東京の住所と、裏面には可愛らしい赤ちゃんの写真。ひとこと〝絵梨香〟とだけ。

 満足だった。悟の子供は女の子がいいと勝手に思っていた。その赤ちゃんの目元や口元なんか、彼にそっくりだった。僕はそれに返事を出さなかったが、それは、その子に〝絵梨香〟と名づけたのだと、お互いの生活を守って大事にしていこう、という彼からの暗黙のメッセージなのだと僕は受け取ったからだ。

 あれから日々の忙しさに忙殺されて、1日1日を過ごすことでやっとだったけど、内心心の中はひどくひどく苦しい日が続いた。でもそんな時、和可の顔を見ると心がやすらいだ。産まれてみて、初めて自分の子供がこんなにも慈しむべき、愛らしい存在なのだと初めて知った。自分の中にこんな感情があるとは思いもしなかった。あの笑顔、無邪気な問いかけ、ふっくらとした頬や小さな手。

「パパ!」

 和可が飛んできた。

「まだ、帰らないの?」

「うん、ごめん。そろそろ行こうか。」

 僕は和可の手を引いて本屋を出る。悟が訳した本を僕は買わなかった。


 本屋を出るとすっかり雨はあがっていた。陽光に当たってきらきらと水滴が光る歩道。もうそこまで本格的な夏が来ているのだと思わせるように、木々の葉が青々と輝き、むせるほどの樹木の匂いがした。

 車が行き交う道路。信号を待つために横断歩道に立つ。道の向こう側を見ると、バックパッカーとみられる外人の若い男が親指を立てヒッチハイクを試みている風景が目に飛び込んでくる。僕はそれを視線の脇に留めながら青に信号が変わったことを確認し、和可の手を引いて横断歩道を渡る。

 状況は変化する。和可と一緒に歩いて家路を急ぐ。和可のしゃべることに、うん、うん、とあいづちをうちながら、あの男は車をとめることが出来ただろうかと考える。

 いつまでも降っている雨はなく、いつまでも天気が安定するとは限らない。あの外人の男も数分後、もしくは1時間程待つことになるかもしれないが、それでも車を捕まえて自分の目的地へと移動しているだろう。昨日と同じ1日はなく、見慣れた街も少しずつ変化していく。悲しい思いも苦しい思いも、胸の奥深くに積もる砂のような重苦しい思いも、ふるいにかけられるように少しずつ、それが目にみえない程の微量でも、本当に少しずつでも軽くなっていくのだろうか。

 また、和可が僕の手を引っ張った。

「パパ、お家まで競争しよう。」

 そう言うが早いか、僕のおてんばさんは駆け出した。


 人には一生涯忘れられない場所がある。誰も足を踏み入れることは出来ない。実際、その場所へもう2度と戻らない、行くことはないとしても、それは胸の中にあって、何時でもその場所へ帰ることが出来る。僕にとって、その場所はあの雪の平原だ。

 その時の自分の心境、置かれた立場を考えて、僕は何度も泣きそうになった。そんな僕に気がつくと、彼は伏し目がちで優しげな視線を僕の方に向けた。僕を振り返り、振り返り、先を歩く彼の姿が今でも目に浮かぶ。

 いつも思い出すのは、そう、そして胸を締めつけられるのは、あの眼差しだ。先輩面していつもえらそうなことを言って、強気で、弱いところなんて見せない。でも、時折、気弱な子供のように、今にも泣き出しそうな素直な目で僕を見た。思い出すのはそんなシーンばかりだ。

 毎日同じことを繰り返す。俗世にまみれて、いろんな垢を身につけて、毎日の生活の営みに没頭する。そんな毎日の中で自分を見失いそうになる時、心だけはあの場所へ帰っていく。そんな場所があるから人は何とか生きていけるのだろうか。僕があの場所へ想いを馳せる時、彼も同じことを考えていてくれたら。僕らはいつもあの雪の原で再会することが出来るだろう。そしてまた同じ時間を共有することが出来る。


 人はいつも正しい思いを持ち、心が清々しく、晴れ晴れとした状態で生きているのではない。叶えられなかった思いや、解決できなくてくすぶった気持ちや、そんなものをいつも心の片隅に抱えて生きている。それは心の中にあって、ある時ふっと出てきては自分を苦しめる。だけど、それはある意味、甘美で、胸を締めつけられる程の愛おしい想いだ。そしてその想いは、まるで歌のように僕の胸の中で何度も何度もリフレインする。

 そう、それは一生涯、永遠に消えない。誰も知らない、誰も知ることの出来ない、僕の唯一の宝物だ。


このお話で完結です。

長い間おつきあいくださいましてありがとうございます。

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