57話
〝私にね、お父さん似だってよく言われるのよ。〟
扶美の手元には、身体を洗ってもらっていたのか、ベビーバスの中で泡だらけで気持ち良さそうに笑っている赤ん坊の頃の扶美の写真があった。
〝目元の辺が特に似てるって。〟
確かにおじさんに似ていた。柔らかい目元の感じがそっくりだった。
〝女の子ってお父さんに似るってよく言うよね。〟
僕はその時、そう答えたような気がした。
父親似の赤ちゃん。僕はふと、悟の子供は女の子だったらいいなと思った。
「乃理子さんが正しいと思うよ。」
僕の言葉に彼が頷いた。
「俺は赤ん坊に責任があるんだ。親として。もう、自分ひとりで勝手に生き方を決めてはいけないんだ。そう思ったよ。」
彼はどこか吹っ切れたような表情を見せた。
布団から起き上がり、彼の顔を真正面から見据えた。
「悟はもう答えを出している。」
悲しかった。悟ともう会えないのだと思うたび、身がちぎれて粉々に砕けるくらい体中が痛み、身体の細胞のの一つ一つが軋むような感じを覚えた。
「1年の時から知っていた。ずっと見ていた。やっと人を好きになれたと思った。離れたいわけじゃない。」
彼が僕の顔をじっと覗き込んだ。彼の目を見た。日本人なのに黒目の部分が少し茶色くてガラスビンを想像させた。その目に自分が映っているのを見た。胸が締めつけられるようだった。
「つらいよ。そんなこと言われると。」
軽い調子で僕はそう言い、彼の顔から視線を逸らした。本当は泣きたい気持ちでいっぱいだった。
「でも、伝えたいんだ。何度でも。これだけはホントだから。」
彼は笑って、僕の顔を包み込むように手を触れた。
その笑顔が今にも消えてなくなりそうにはかなく思えて、僕は思わず彼の首にしがみついた。
「おい、おい。なんや。子供みたいやな。」
笑って僕の腕を放そうとした彼の手を振り払い、思いっきり懇親の力を込めて彼の首にかじりついた。僕の様子を見て諦めたように彼も自分の腕を僕の肩に回してくれた。そのままの格好でじっとしていると、窓がカタカタとなる音が聞こえた。
「こうしてじっとしていると雪が降る音が聞こえないか?」
「雪の降る音?」
外ではさっきから雪が降り続いている。もう夕方で早々と日は暮れ始めて夜の闇がすぐそこまで近づいている。真っ白な雪の平原に薄っすらとした夜の闇が、まるでカーテンのように落ちてくる様を想像した。雪に覆われた林の木々たちもその吐息をじっと静めて、闇に包まれるのを待っている。風も静かになり、まるで何もかも死に絶えてしまったかのような静寂が訪れる。そして雪もいつの間にか降ることをやめ、あたり一面は真っ白な銀世界、誰も足を踏み入れることのない静寂の地。その中に僕たちはぽつんとたった2人でいるような気がした。誰もいない世界。誰にも干渉されることのない忘れ去られた世界。
「何を考えている?」
「雪の降る音をじっと聞いている。」
「わかるか?」
わかるような気がした。それがどんな音なのかって聞かれると答え様子もないけど。
しばらくそうしてじっとしている間に日が暮れてしまい、灯りをつけるために彼は立ち上がった。僕の腕をはずして。
灯りをつけて、窓の外を見た。まだ雪は降っている。
「吾郎さんにさっき連絡したら、何か持って又やってくるとは言っていたけど、こんだけ降っていると無理だな。」
「危ないよ。連絡した方がいい。」
「そうだな。」
そう言って彼はキッチンへ行き、携帯から彼に電話をした。
「電話したよ。」
「うん。」
それから外の様子を伺い、窓や戸がきちんと閉めてあるか確認すると、また僕の側に来てタバコに火をつけた。その紫煙の流れを僕は目で追っていた。ぼんやりした遠い目で彼はどこかの景色をながめていた。彼の目に映っている景色はどんな景色なんだろう?
そしてゆっくりこう話始めた。
「その時の楽しかった、嬉しかった一瞬一瞬は本当に現実に存在したのだけれど、時はあっというまに過ぎる。すべての現実はすべてはかない。こうして一緒にいる時間さえ、窓の外に降る雪のようにすぐに溶けて消えてしまう。雪の結晶を手に取ると、本当にあっという間に溶けて失くなってしまう。そんな感じなんだよな。そのはかなさを思う時、その思いにしがみつきたくなる。苦しくて、切なくて、だからこそ胸にいつまでも残る。楽しかったとか、嬉しかったとか、でもそれは人生の中でほんの一瞬の出来事であとは苦しくてつらいことの方が多い。人生ってそういうものなんだろうなって思うよ。」
「本当はつらくてひとりで不安で、どうしようもなくて、そんな時の方が今までの生活の中では多かったよ。その原因は自分で作り出しているのかもしれないけど。だからこうして心が通じ合えると感じるやつと一緒にいれる時間が嬉しくて、はかなくて。その思いにこの時間にしがみつきたくなる。でもすぐに消えてなくなってしまう。現実にこうしている間にも時間は過ぎて、すべて過去になっていく。そんなことを考えるとむなしくてたまらなくなる。でも実際、その時間は絶対その時、ちゃんと現実として存在したのだから、それだけでいいんだ。そう思うしかない。でないと苦しいからね。そういう思いを人はいくつも胸の中に抱えていて、それに大事に鍵をかけてしまっておくんだ。つらい時に、そいつのことを思いたい時に取り出して思い返すようにするために。それが本当はつらい作業なのかもしれないけど、人はそうせざるを得ないようになっているんだろうな。」
僕はそれをじっと聞いていた。雪の降る音がやはり聞こえていた。ランタンの灯りを見た。ゆっくりと夜が忍び寄っていた。寂しいと思う反面、何故か心は波が静まって、ただそこにひたすらたたずんでいるような湖を連想させるように落ち着いていた。
本当にこれが最後か。僕はまだ気持ちの整理がつかなかった。思い切って聞いてみた。聞けばこれが本当に最後だと確認することになると思ったけれど。
「もう会えないのか?」
彼は暗い窓の外をじっと見ていた。一呼吸置いた後、ゆっくり言葉をひとつずつ選びながら答えた。
「いや、会えるさ。お互いが自分を確立して、社会の中でちゃんと社会人として責任を果たし、独り立ちできた時、又会うことが出来るさ。」
「時間がなさ過ぎた。あまりにも悟のこと、知らなさ過ぎたよ。」
「いや、知っているよ。その人がどんな服を着て、身長はどれだけで、どんな仕事をして、どんな趣味を持っているかとか、そんなことはその人のほんの側面だよ。大事なことはそういうことじゃない。お前は俺を知っている。本当の俺を知っている。」
「そうかな。」
「そうだよ。」
「どんどんいろんなことは変化する。人の気持ちもね。でもそれは怖いことではない。当然のことなんだ。それを怖れてはいけない。」
「変わらないよ。」
自分が変わらないと思ったのはこの悟に対する気持ちのことだった。
それは彼にもわかったらしく、ゆっくり頷いてこう言った。
「わかっている。根本的なその人にとっての重大な要素や心は何も変わらないよ。」
それから2、3日の間。僕らは2人きりで過ごした。例の吾郎さんたちが作った温泉に行ってみるかと尋ねられたが、僕は行かないと答えた。これ以上思い出を作ることが自分にはつらいことなのかもしれないと、ふと胸を過ぎったからだ。いや、そうではない。どこにも行きたくなかったのだ。身体の調子はずいぶん戻って、良くはなっていたが、こうやって雪がちらほらと舞う様子を、窓際で眺めながら暖炉の火にあたる。そして2人で、それに薪をくべながら、いろんな話をする。いろんなことについて自分が思っていることや、今まで誰にも話すことが出来なかったことや。そんな諸々としたこと。そんな時間が楽しかったんだ。
ここには電話もテレビも、ラジオすらない。携帯は持って来ているけど、電源は切ったままだ。誰からも、世間からも隔離された世界。僕はずっとそんな所で休暇を取ることを夢見ていた。いつか、好きな人と一緒に、雪で真っ白になった山にある別荘で、誰にも邪魔されることなく過ごす日々を。
男の癖にロマンチストだな、と悟は笑ったけど、僕は男の方がロマンチストだと思っている。女の子の方が現実的だ。
〝逃げてるかな?〟
と、尋ねると
〝今だけは、逃げよう〟
彼は答えた。そう、現実からだ。