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56話

 悟はだまって、僕の話にじっと耳を傾けて、時折火掻き棒で灰を掻いた。彼の中ではもう結論は出ているのだろう。そんな冷静な悟の様子が寂しくて、切なくてたまらなかった。彼がひどく遠いところへ行ってしまったような気がした。自分だけ先に、すべて何もかもわかってしまった様に僕を置いて。そんなことを思いながらじっとだまって彼の様子を伺っていると、少し経って彼が口を開いた。

「横へ行ってもいいか。」

 僕が寝ている横へ添い寝するような格好で寝そべり、話し始めた。

「暖炉に薪をくべて、火の加減を見ながら隆博が気がつくのを待っていた。その間にな、妹のことを思い出していたんだ。」

「妹さんのこと?」

「ああ。」

「お前な、俺の腹の傷を見たって言ってたな。文さんにそのことを聞いたのも。そうなんだ、親父は何故か俺のことが気に食わんみたいで、俺も親父の強制的に子供にいろんなことを押しつけるやり方が嫌で反抗ばかりしていた。何でも親父の言うとおりにする弟と比べると何かしら俺のやることなすことが目について気に入らんのだろうな。反抗するとよく殴られた。」

(生傷の絶えない子)

 文さんの言葉が思い出された。

「それで子供の頃、親父に殴られて、その殴られた所が痛くて、なかなか眠れなくて。そうすると妹が部屋にやってくるんだ。妹はいつも側にきて、「お兄ちゃん。眠れないの?」って聞くんだ。俺は痛みで機嫌が悪いのと、妹みたいなちびに心配されることが気恥ずかしくて答えずにいると、自分の部屋から本を持ってきて俺の枕元に座り込んで、それを読んで聞かせるんだ。子供が眠れないときに母親が本を読んだり、話を聞かせたりするだろう。ああいう感じなんだろうな。あれ何年生くらいの時のことだろう。ずいぶん妹は小さかったような気がした。歳が結構離れているからな。どんな話かっていうと、桃太郎とか、花咲か爺さんとか、人魚姫とか。ほんと何度も読んだり聞かされたりして知ってるような童話ばっかりなんだけど。」

 あの海に行った時にも妹さんの話を彼はした。その時も思ったんだけど、妹のことを悟はずいぶん好きみたいだ。彼女の話をする時は、懐かしそうに嬉しそうにやっぱりゆっくりとした口調になる。嬉しい時や楽しい時は彼のしゃべり方のトーンがワンランク下がることはわかっていた。

「小さな鈴の鳴るような声で、妹なりに一生懸命で、それが嬉しくて痛みも和らいだ。そしてほんとに知らないうちに眠ってしまうんだ。その中でもひとつだけひどく覚えている話があって、雪の女王っていう童話なんだけど。知っているか?」

 僕は黙ってうなずいた。

「雪の女王に連れ去られて心を失くしたカイを、ゲルダがいろんな困難を乗り越えて助けに行く話、最後はハッピーエンド。こうやって雪がひどく降る日になると時々それを思い出す。幼い時の自分はカイで心を閉ざしていた。きっとゲルダが助けに来て自分の凍った心を溶かしてくれるんだろうって…そんなことを夢見ていた。今から思うとばかみたいだけどね。」

 彼は小さく笑った。


 文さんが言っていた。子供の頃の悟。きつい目をして人を信用しない。強がって精一杯自分をガードしていた幼い日の悟。そんな彼が目の前に浮かんだ。そして自分の目の前で横たわり、懐かしそうに子供の頃の話をする彼を見た。穏やかで優しい目をした彼と、幼い日の誰も信用しないときつい目をした彼を思い浮かべた。それを思って何故か不意に涙が出てきた。

 悟はびっくりして、手を伸ばした。僕の髪の毛に触れ、

「何もお前が泣くことないよ。」

 そして話を続けた。

「妹だけは俺の気持ちがわかってくれていたような気がした。変な話、隆博と一緒にいる時の感覚っていうのが、その痛みで眠れない夜に、妹が側に来て話をしてくれた、その時の感覚に似ている。だからかな、ずっと出来れば、出来る限り一緒にいたかった。」

(ずっと出来れば、出来る限り一緒にいたかった。)

 自分の胸の中でその言葉を反復した。

(過去形か、なんで過去形にするんだよ。)

 悲しかった。それなのに何故か悟は落ち着いている。

「俺はあんまり人に本心を話さないかもしれない。親を信用せずに育ってきた人間ってそんなもんかもしれんが。」

 僕は首を振った。

「僕にはいつも本音で話をしていると思っていたよ。」

「うん、そうだな。」

「それでも、本当にごまかさずに自分の胸の内を話すことはあまりなかったかもしれない。言えなかったんだ。今の今までね。」

「森下さんの会社へ原稿を置きに行った時、あっただろう。」

「ああ、僕が自棄になっていて原稿なんか出来ないって、もう辞めるって言った時だ。」

「あの時かなりまいっていて。東京とお前の所との往復でかなり疲れていた。そんな時、お前が自棄になって原稿が出来ないって、理由は、本当は薄っすらわかっていたけど、それを口にすることも出来ず。お前にあの仕事をとてもやって欲しかったんだ。その自分の欲もあったんだろうな。それがエゴといえばエゴなんだろうって思うんだけど。だからあの時も無理やり引っ張ってやらせた。殴ったりして。乃理子と一緒にいたところを見られたよな。あの日。ばつが悪いっていうか、一番見られたない姿をお前に見られたって思って。それとあの時、お前が一緒にいた女の子。それも気になって。自分はこんなんで人のこと責められるわけなんてないのに、あの彼女。誰なんだろうって。嫉妬かな。馬鹿みたいだよな。タイミングが悪かったんだよな。落ち込むことが重なっちゃって。」


「あの子とは別れたよ。」

 悟はそこで顔をあげて僕を見た。僕はばつの悪い思いで、

「付き合っているっていうか、悟が東京へ行ったり来たりだろ。乃理子さんのこととか、いろんなことを考えると苦しくて、あの子に逃げた。こんなこと言っては何だけど、一時あの子と真剣に付き合おうかと思ったときもあった。」

 悟は複雑そうな表情をした。

「だけど、それは逃げだ。あの子の事が真剣に好きなのではなく、自分が置かれているつらい状況から逃げたいだけのことだ。だから、悟とここへ来る前に正直な気持ちを彼女に伝えたんだ。」

「そうか。」

 短く答えた悟は疲れた様子に見えた。

 起き出して、暖炉の前で所在無げに火掻き棒で灰を突きながら、

「俺は卑怯でいい加減でどうしようもない人間なんだって、いつも思う。だいぶ前に、お前に〝東京へ来ないか。〟って言っただろ。」

 覚えている。僕が寝ていると思って彼は言ったのかと思っていたが。

「ひとりでいろんなことを抱えているのがしんどくて、先のことを考えると押しつぶされそうになった。見知らぬ土地へ行って、就職して、今まで妹の葉月と時々連絡を取るぐらいで、殆ど家族と一緒にいたことなんてなかったのに、いきなり乃理子と赤ん坊と3人で生活を始める。考えただけで気持ちが重くなって。」

 悟は途切れ途切れになる言葉を、一生懸命繋げているように話を続けた。

「お前がいてくれたら、どんなにか心強いかと。俺はそんなに強い人間じゃない。今までひとりでいた。今までならひとりでもいられた。だけど、お前に会って、ひとりでいられるほど強い人間じゃないんだって思った。お前が学校を卒業して、東京で就職してくれたら、なんて夢みたいなことを思った。お前が近くにいてくれると思うだけでも、俺は何とかやっていけるんじゃないかって。」

 あの言葉にはそういった意味があったのか。

「無責任だな。お前の人生も考えないで、自分の都合のいいことばかり考えて。」

 だけど、側にいたい。一緒にいたいと思うのは当たり前のことだ。僕だってそうなのに。

 

 悟は暖炉に視線を向けて、炎の燃える様をじっと凝視した。

「乃理子はたぶん知っている。」

「僕たちのこと?」

 彼は黙って首を縦に振る。

 水銀灯の下で見た彼女の表情を必死で思い浮かべる。あの時、やはり見られていたのか。暗くてわからなかった。でも僕との間を行ったりきたりしている悟を見れば、もしかしたら大体のことは察しがつくのかもしれない。

 身を縮めて布団の中で、彼の次の言葉を待つ。

「一緒にいると何となく気づかれているのかなって思うんだ。だけどあいつは何も言わない。それが余計に苦しくて。まだ責められた方がましだ。心の中で、乃理子と別れて、赤ん坊を引き取ることも考えた。無責任なことを。だけど、言わないことによってあいつは赤ん坊の事を守っているんだってわかったんだ。」

 赤ん坊。産まれてくる悟の子供。その存在を僕たちは殆ど意識下に置いたことはなかったのかもしれない。どこか遠くの自分たちには関係のないことだと思っていたのかもしれない。それともその存在を意識することが怖くて、遠ざけたいと無意識に思っていたのかもしれない。

「そうだよね。」

 僕は短く答えた。でも、そのとおりだと思った。僕たちのことは、その生まれてくる子には何の関係もないこと。祝福されて待ち望まれて生まれてくるべきなのだ。

 これから産まれてくる命。消えてしまった命。また、扶美のことを思った。扶美はもっと生きたかったに違いない。いつか、みんなで扶美の家に遊びに行ったときに、小さい時のアルバムを見せてもらったことを思い出した。


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