55話
その次のことを覚えていない。その後の記憶が飛んでいた。自分が吐いたのか。どうなったのかわからなかった。気づくと耳元でぱちぱちという音が聞こえた。
(何の音だろう?)
ぼんやり考えていた。その音をどこかで聞いた。あれはどこだっただろう。ぱちぱちという音と一緒に波が浜へ押し寄せる音が聞こえた。
暗い海。真夜中の冬の海。焚き火が燃えている。砂に埋まったレガシー。小さなウィスキーのビン。
〝飲むか?〟
誰だろう?声をかけてくれるのは?その人の背中を見た。細いけれどがっしりとした肩が見えた。ああ、そうだ。ここは海だ。パチパチというこの音は焚き木の音だ。木が燃える音。焚き火…
ゆっくり目を開けてみる。背中が見えた。その背中が暖炉に薪をくべている。茶色いレンガ造りの暖炉に赤々とした火が燃えているのが目に入った。
ああ、この音か?誰?
細くて長い腕が薪をくべている。ぼぉっと音がして、焚き火がよりいっそう赤々と燃えさかる。
(ああ、彼だ。いてくれたのか。)
良かった。気を失っていたみたいだ。何故か気を失う直前に思った。このままもう会えないんじゃないか。気がついたらもうどこにも彼はいないんじゃないのかって。安堵してその背中に声をかけた。
「悟。」
背中が振り返った。
「気がついたか?」
心配そうに僕の顔を覗き込む。額に手をあてて熱をはかっている。
「大丈夫そうだな。寒いか?」
「いや。それより…」
「低体温症だよ。寒さのせいで急速に身体の熱が奪われる。疲れていて体力が落ちているとなりやすい。」
「ごめん。無理させた。」
彼がすまなさそうに呟いた。
「どうやって、ここに?」
聞くと、あの後、風と雪が収まるのを待って、林道の携帯がつながる地点まで僕を担いで下っていき、吾郎さんに電話をして迎えに来てもらったらしい。合流した吾郎さんに荷物だけ頼んで、自分は僕を担いで車が入れるビジターセンターまでたどり着き、そこで吾郎さんに乗ってきてもらったエクストレイルで病院へ。
「あんなところからビジターセンターまで?」
「だって、放かっておくと死んじまうよ。吐き気とめまいもそのせいだ。」
「…すまない。」
あの距離をよく僕を担いで、とびっくりしてしまった。申し訳ない思いで一杯だった。
「せっかくの山だったのに、台無しにしてしまった。ごめん。」
「謝ることないよ。俺が悪いんだ。よく気をつけていなかったから、無理させてつきあわせた。」
「いや、言わなかった僕が悪い。二日酔いを引きずっているか、そうでなければただの軽い風邪だと思っていた。」
確かに体調が悪かった。でも何とかなるとたかをくくっていた。低体温症なのか。あれが。
「何か食べれそう?」
「いや。何か飲みたい。」
起きようとすると、まだ寝ていた方がいいと彼が制した。
それで又横になって暖炉の燃える火を見ていた。ロフトでは寒いと思った彼が、暖炉のすぐ脇に布団を持ってきてくれ、自分は火を焚いて僕の様子を見てくれていたのだろう。
「吾郎さんは?」
「うん。病院までずっと付き添ってくれて、さっきも様子を見に来ていたんだけど。ずいぶん心配して。でも病院では暖めてゆっくり休めばさして大したことないって。」
「そう、吾郎さんにまで迷惑かけた。」
「ああ、気がついたって連絡しておくよ。隆博は何も気にせず休んでいればいい。」
彼はキッチンでお茶を沸かしてくれた。それを側まで持ってきて、酒はまだだめだ、とジョークを飛ばした。僕は笑いながらそのお茶をゆっくり飲んだ。ずいぶん長いこと何も口にしていないような気がした。それでふっと、時間のことが気になった。
「今日は何日?」
「24日」
「どれだけ寝ていた?」
「うん、気がついたと思って声をかけると、すぐにまた眠ったりしていたから、2日くらい。意識があったりなかったりで。」
「そんなに?」
そんなに気を失っていたのか?
「帰らないと。」
悟の顔を見た。彼は優しく笑って首を横に振った。
「いいんだ。」
「だって明日東京へ行く日。」
「いいんだ。伸ばしたんだ。」
「でも…。僕ならもう大丈夫だから。」
「いや、自分がそうしたかったから都合をつけたんだ。だから隆博は心配しなくていい。もう少し休んでいないとだめだ。」
「もう少し一緒にいよう。」
彼はそう言って、こちらに背を向けて焚き火に薪をくべた。僕はそれ以上何も言わず、また布団に包まってその様子をじっと見ていた。
「悟。聞いてくれ。」
「何?」
「僕はひどいことを言った。あんたを責めることを言った。どうにもならないことを言って責めてしまった。」
彼は首を振って、
「責められて当然だ。もう少し早く気持ちを伝えていたら違っていたのかと後悔した。隆博はあの時、間に合うとか、間に合わなかったとか言ってたけど、俺は間に合わなかったんだろうなって思った。自分の気持ちに正直になれずにいろんな人を振り回した。今だって振り回している。隆博が受け入れてくれるとは思いもしなかったから、気持ちを伝えることに躊躇していた間に時間が過ぎてしまった。だけど、伝えなかったらこうして一緒にいられなかった。」
少し間をおいて、
「いや、間に合ったんだよ。間に合ってよかった。」
悟は少し寂しそうに笑った。
「扶美っていうのか。好きだった子って。」
彼が扶美のことを聞いてきた。
「うん。間に合わなかったんだ。扶美に気持ちを伝えなかったから。伝えるべきだったと、ずっと後悔していた。だから、悟には伝えたかった。東京へ行ってしまうまでの間だとしても。」
悟はその言葉を聞いて、悲しそうに眉根に皺を寄せた。僕は構わず続けた。
「こうやってあんたと一緒にいる時、あんたの顔を見ている時、自分が現実にここに存在して、生きているんだなあと思うことがある。今もそう思っている。僕が悟を必要としている。支えてもらっているのは僕の方だ。本当に必要なのは、一緒にいたいのは悟だ。こんなこと言うつもりはなかった。表面上冷静に普通に何でもないような顔をして、だってしょうがないじゃないか、こうするしかないんだからって離れていこうって。自分の気持ちを言わないのは、YESかNOか、どちらかって言わないのは、答えをはっきりしてしまえば2人とも傷ついてしまう。YESにしたってNOにしたってどっちにしても傷ついてしまう。誰も傷つかなければいいと思っていた。波風たてずにそつなくいろんなことをこなして、穏やかに日々が過ぎていけばいいと思っていた。でもそれは反面自分が臆病だからだ。一番傷つきたくないのは自分だ。だから傷をつけることも、傷を受けることも嫌だと思っていた。冷静に自分の気持ちを抑えてきたつもりだった。」
「文さんにいろんなこと聞いたよ。悟の小さい時の話や、親父さんのこと。腹に残っている古い傷のこと。文さんは僕がいてやることが必要だと言った。あの人は知っている。知っていてそう言ったんだ。それを聞いた時、僕はもう気持ちが折れてしまったんだよ。あんたが東京へ行くのを冷静に送り出そうって思っていたけど。でも。」
僕は言いよどんだ。その先を言ったとしてもどうにもならないことくらいわかっていたから。本心。悟といたい。そう。それは叶えられない。