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54話

「あっ。」

 気をつけて歩いていたつもりが、思わず木の枝につまずいてよろけた。

「隆博?」

 今度は僕の様子に気づいて悟が振り返った。僕の側まで戻って来て聞いた。

「大丈夫か?」

 寒さで身体の震えが止まらない僕の様子におかしいと気づき、一瞬困惑の色が浮かんだがすぐ気を取り直すように

「休もう。これ以上体力を消耗しないように。」

 そう言って、僕を休ませ、自分はツェルトを設営し始めた。雪崩や落石、滑落の心配がない場所を探す。樹林帯の中に入っていたことがラッキーだった。風もあまり強くない。僕は彼を手伝おうと思うのだが、身体がいうことをきかない。彼に任せてぼんやり見ていることしか出来ない。まさか風邪でこんな症状になるんだろうか。少し暖かいところで休めばなんとかなると、まだ僕はそんなふうに考えていた。

 ツェルトが設営出来ると中に断熱マットを引き、彼は僕をそこに引き入れた。雪がちらちらと舞いだし、風が弱まることはない。東の方の空がだんだんと暗くなっていく。雪のせいか目の前が真っ白になる。一瞬何も見えない。


「具合が悪いんだろ。」

「いつから?」

「何で俺に言わない。」

 矢継ぎ早に言葉を投げかけながら、ありったけの防寒着を僕に着せる。そして自分の着ていた上着まで脱いで、僕を抱きかかえるようにして着せた。

「自分だって言わない……。」

 寒さのせいか半分意識が朦朧としていた。ひどく頭が痛い。

「何が!」

 悟が怒ったように言い捨てる。

 僕の様子に気づかなかったこと、今朝もそれを見逃してしまったこと。行動が予定通り行かなかったこと。天気を見誤ったこと、アクシデントに見舞われたこと。そのすべてが彼をいらいらさせていた。そして、この状況をどう切り抜けるかで頭の中をフル回転させているだろう。さらにひとりで事に対処しなければいけないという不安にさいなまれていることが容易に想像できた。それに対してすまないという申し訳ない気持ちとは反対に、僕の口をついて出るのは彼を責めるような言葉だった。

「東京へ行く日…何故だまっている…。」

「……。」

 彼が言葉に詰まった。

「吾郎さんと話をしているのを聞いた。何故僕に言わない。黙っている…。」

「…すまない。」

 さっきの荒い口調とは反対に小さく呟く。

「…言い出しにくかったんだ。…でも、それより、今はそんなことを言っている場合じゃない。隆博こそ具合が悪いなら何故言わない。すぐに言えよって言ってたじゃないか。」

 語尾が又荒くなる。ツェルトを叩く風の音が強くなる。ツェルトの隙間から風が吹き込んでくる。ビュービューと、不気味な音がひどく耳障りに感じる。

「…だって言えば帰るんだろ。」

「そりゃそうだ。具合が悪いヤツを引っ張って無理させるわけにはいかないじゃないか。」

 その言葉を聞いて僕は言った。

「…それで最後だろ。もう…。」

 一瞬にして彼の表情が凍った。薄暗いツェルトの内でもその表情を読み取ることが出来た。

「帰りたくない。だから言わなかった。」

 彼が息をのんだのがわかった。自分の気持ちを言うことなどしてはならない。お互いの思っていることを話して確かめあうことなど。

(駄目だ。こんなことを言っては。)

 自分の心を抑制しようとした。でも自分の意思とは関係なく、まるで別の生き物みたいに口だけが動き、自分でも意識したことのない感情が吐露し始める。

「帰らない。」

「何を言っているんだ。」

「だってこの旅が終われば悟は行ってしまう。もう会えない。」

 僕の肩にかけられた彼の手に力が入るのがわかった。何か言いたそうに彼の口が動くのが薄っすらと見える。だけど悟が何を言っているのかよく聞き取れない。

 耳の奥から鈍い耳障りな音が聞こえる。


「みんなそうやって僕の元を去っていくんだ。いくら好きになったって一緒にいられない。」

 真っ白な視界の中で扶美が笑っていた。白い雪があの時の桜の花びらのように優しく僕の視界を埋め尽くす。それと同時に、白い棺に横たわった彼女の姿が見えた。白い蝋人形のような顔。青く変色した痣。おばさんが扶美の遺体に掛けた赤と金の花模様が入った振袖の柄が、目を刺すように激しい光を放って僕を困惑させた。

「どうしてだ。好きになった人はみんな僕の元から去っていく。僕は間に合ったのに。扶美が電話をかけてねっていったのに、かけなかった。電話をかけたら、あの時、バイクを貸さなかったら、扶美は死なずにすんだのに。僕は間に合わなかった。」

「隆博。何を言っているんだ。」

 彼の腕が身体を揺さぶるのがわかった。

「今度は間に合ったんだ。悟が好きだから、悟と一緒にいたいから。だから言ったのに。今度は間に合ったのに。なのに何故悟は僕から離れていくんだ。」

 あの日、交差点で見た悟。隣に幸せそうにお腹に手を当ててゆっくりと歩いているマタニティ姿の乃理子さん。彼女の足取りに合わせて歩調を緩め、目元にしわ寄せて優しい眼差しを向ける悟。

 あれが現実なんだ。僕の存在など最初から彼らの間にはなかったのに。

 その光景を思い浮かべると、気が変になりそうだった。

「そうだ。最初から僕など存在しなかったんだ。」

「どうした。しっかりしろ。」

 僕は自分が脈絡のないことを口走っていることがわかっていた。だけどついて出る言葉をセーブすることが出来ない。熱が出ているのか身体がひどくだるく、震えるほど寒いのに、身体のどこかが熱くてたまらなかった。

「言ったじゃないか。僕だけいればいいって。あの時そういったじゃないか。悟は嘘つきだ。最初っから乃理子さんがいるのに、何故僕に好きだなんて言ったんだ。悟はひどいことをしている。自分が何をしてるのかわかってんのか。」

 僕の腕を掴んだ悟の手が大きく震えるのを感じた。


(何を言っているんだ。僕は。)

 ハンドルに突っ伏して泣いていた悟。

(お前だけいればいい)

 そう言った。

 あの言葉を聞かなければ、僕はたぶんこんなふうに取り乱したりしない。悟の本音を知らなかったら、今までの僕のように、人を真剣に愛したりしなければ、いつまでも扶美の面影を追って、現実の世界で生きている人の血潮を感じたりしなければ、僕は悟にこんなひどいことを言ったりなんてしない。 欲しいから。どうしても悟が欲しくてたまらないから。それが消えてなくなることに耐え切れないから。

「隆博。ごめん。」

 次の瞬間、ものすごい力で抱きしめられた。胸が圧迫されて息が出来ないくらいの強さで。

「隆博。お前に対する気持ちは、嘘じゃない。一番大事にしたいものだ。嘘じゃない。」

 彼の声が震えていた。耳鳴りがしてツェルトを叩く風の音すら、ぼんやりとしか聞こえないのに、何故か耳元で響いた彼の言葉だけははっきりと聞こえた。

 悟は声を出さずに泣いていた。頬に冷たい何かが触れる。それが涙なのだと少し経ってから気づいた。

「だけど最後なんだろう。もう会えないんだろう。いくら僕への気持ちが本当のものだとしても悟はいってしまう。そうなんだろう。」

 寒さで歯の根が合わない。がたがたと震えながらも彼を責める言葉が次々と口をついて出た。言ってはいけないと思いながらも、自分の理性でもうコントロールが出来なかった。悟は何も言わず僕を抱きしめた。何か言って欲しかった。そうなのだと、もうさようならなのだと。そう彼の口から言って欲しかった。

 何故何も言わないのだろう。残酷な言葉でいいんだ。鋭いナイフで喉を抉り取るように僕の息の根を止めて欲しかった。そう、愛するものはすべて僕の前から去るのだと。それが現実だと。そう、わからせて欲しかった。だけど悟は何も言わなかった。ただ懇親の力を込めて僕の身体を強く抱きしめるだけで。


「悟!」

 僕は叫んだ。

 苦しい、苦しい!こんな胸が張り裂けそうな想いをするのは生まれて初めてだ。どうして得られないのだろう。すべてを失くしても悟がいればいいと思った。だけど、得られないようになっているのだ。この例えようもない飢餓感は僕が一生抱えて生きていくものなのか?

 吐きそうだった。胸が締めつけられるようで苦しくて咳き込んだ。胃から何かがせりあがってくるようでひどく気持ちが悪かった。冷や汗が出た。でも、何も吐くことが出来なかった。その間中、彼は小さな子供を抱くように僕を抱いて背中をさすってくれていた。

 どのくらいそんな時間が過ぎたんだろう。自分の中で時計は止まってしまったかのようだった。本当に言いたかったことは、悟を責めることではないはずなのに、伝えたいと思ったことが何なのかわからない。もどかしかった。もどかしくてどうにもならないのに、自分の身体が動かない。話そうと思うのに声が出てこない。解っていたのは悲しくて、つらくて、このままこの場で消えてなくなりたいと思ったことだけだった。今ここにこうして一緒にいるのに。過去になってしまうんだ。この手も、このぬくもりもすべて消えてなくなってしまうんだ。どこかで、本当にどこか遠い所で、ヒューヒューと、雪と風がうなるような音が聞こえていた。そしてその音がどんどん小さくなっていった。



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