53話
彼が急に立ち止まり、スノーシューで何回か足を入れ替えしていたが諦めたようにそう言った。
「この先は無理だな。」
外見上はわからないが、斜面が凍っていて、これ以上上の方には進めないと彼は判断したらしかった。
「どうする?」
「下ろう。」
「行こうとしていた上の方にある池の周りは、きっと凍っていて危険だ。この下方にちょっと開けたところがあるからそこで飯にしよう。」
それで僕らはトラバースで斜面を横切るのやめにして、下方へ下ることにした。彼は地図とコンパスで位置を確認し、僕に方向を指示した。
「残念だね。」
「別にいいさ。」
登ったり横切ったりするより、下る方が楽なような気がした。傾斜は急だけど斜めに下れば斜度も落ちて楽に下れる。ただ傾斜がひどい所では真っ直ぐに下ると、そのまま滑っていきそうで恐い。
「スキーがあった方がいいかな。」
「ほんとだ。そのほうが楽だな。」
そう言いながらジグザクに方向を転換しながら下り始めた。斜面を横にして立つ。ストックでバランスを取り、谷側のスノーシューを下ろし、フレームの内側のサイドエッジでステップを切る。体重を徐々に乗せて、クランポンとトラクションデバイスをきかせる。これをきかせないと滑って体が安定しない。山側のスノーシューをおろし、フレームの外側のサイドエッジでステップを切る。その繰り返し。所々後ろ向きに下りたり、身体を横向きにして下ったりする。登りほど息は切れないが、それでも息が上がり、身体が熱くて汗が出る。やはり調子が悪いみたいだ。自分でも自覚してくる。が、もう少しだ。
何メートルくらいだろう、30分程かけて下ると、右横へ回り込むようにして方向を変えるよう言われた。その先には悟が言った通りに、少し開けた地点があって、そこからは360℃のパノラマとはいえないが、はるか前方に雪を被った山脈が見え、なかなかいい眺めだった。
「ここも結構眺めがいい。」
「本当だ。雪山が綺麗に見えるよ。」
だだっ広い平原だと風が吹くと寒い。この地点で標高2000メートル近い。気温が氷点下10℃から20℃になるときもある。風かあるときの体感温度は風速1メートルにつき1℃低くなる。今日は風がなく穏やかでありがたい。それにこの場所は、周りを大きな岩壁で囲まれたような形をしていて、風を避けるには最適な場所だった。
「よく知っているね。いろんな場所を。それにこんなに真っ白でよく道に迷わないね。」
僕は感心した。
「でも3月でこれだけ地面が凍っているとは思わなかった。本当はもう少し上の方まで行ってみたかったんだけど。」
悟は少し不服そうだった。僕はこの地点でも充分満足だった。本当は少し寒気がして早く下山したいのが本音だった。
時計を見るとちょうど計ったように昼の12時を指していた。早速ガスで火を起こし、コッヘルにお湯を沸かす。それは、寒冷地用の専用ガスカートリッジとバーナー部分を連結するだけでコンロになり、気温が低くても火力が落ちない。そのお湯でラーメンを作り、食べた後はまたお湯を沸かし、コーヒーを入れる。暖かい物を腹に入れて安堵した。天気は良いとはいえ、氷点下。身体が冷えている。
「温泉に入りたいな。」
僕はふと口ににした。
「温泉?」
「こんな雪が積もったすばらしい景色を見ながら、温泉につかれたら最高だろうなって。」
悟はにっと笑って、
「いい所があるよ。」
と、言った。
「何?」
聞くと、数年前にここへ来たときに、吾郎さんの家の付近で温泉が出たらしい。町を挙げて温泉を掘り、温泉施設を作ったそうだが、それを見て、吾郎さんと叔父さんの隆司さんがそれなら家の付近でも出るんじゃないかって。いろいろと調べて試行錯誤した挙句、家の裏山を少し入った所にある自分の土地を掘ったら、本当にお湯が出たらしい。それで何シーズンかの休暇を使って、ふたりで岩を積み、素人作りではあるが入れるように整備したということだ。
あほなことをしとると、文さんはあきれて見ていたらしいが、本当にお湯が出たことに驚いて、というか喜んで、それから何回かそのお湯につかりに行ったらしい。ただ、こないだはその話が出なかったし、今はどうなってるかはわからないらしいが。
その話を聞いて思ったんだけど、吾郎さんといい、叔父さんの隆司さんといい、どうも悟の周りの大人は子供っぽい人が多いみたいだ。でも、そんなふうに人生を楽しんでいるのはすごくいいことだと思うし、自由な風を感じる。そうだな、たぶん僕にはないところだろうな。そうゆう雰囲気は。
「じゃあ、入りに行く?」
「ああ、いいね。本当にまだちゃんとお湯が出るんなら。」
いくらかのお金を払って、土日になると人でごった返すような町の温泉施設に比べたら、そんな趣のある温泉の方がいい。そんな話をしながら休憩していると、どうも東の方の空の雲行きが怪しくなってきた。
悟が少し難しい顔をして、
「東の方から風が吹いている。」
「まずいの?」
「うん。天気崩れそうだ。」
そうならなるべく早めに下山した方がいいということで、僕らは早々に立ち去り、又来たルートを戻って帰ることにした。
「あんなに天気が良かったのにね。」
「ああ、予測できなかったな。天気が崩れる前にある程度のところまで下れるといいんだが。」
悟はちょっと不安そうだった。今来たルートを戻ると、さっきは白い雪の平原と青い空のコントラストが素晴らしいと思って見たあの景色が一変し、薄いダークグレーの雲が広がりつつあった。僕らは少し歩調を速めた。平原を横切るようにして歩き、さっきの雪庇のある場所まで出た。もう少しで稜線上を歩くのは終わり、林の中に入る。さっきから風が少しずつ強くなり、僕は身体に感じる寒さが先ほどよりも強くなってきたように感じた。風が身体を芯から冷やす。風が強くなる。
その時だ。ふわっと雪が舞ったかと思うと辺り一面が真っ白になり、全く視界が利かなくなってしまった。
(吹雪?)
かと思ったが違う。風のせいで粉雪が舞って雪面と空間の区別がつかなくなる。
「悟」
声をかけると、
「ホワイトアウトだ。」
落ち着いた声が返ってきた。
「大丈夫だ。すぐに収まる。」
少し開けた広い稜線上だったが、近くに岩場があったのでそこで風をよけることにした。しゃがむと自分たちの背丈くらいはある大きな岩場に身を寄せる。頭の上を風が吹き抜けていくのを感じる。僕らは身を寄せてこの状況が収まるのを待った。
「こんなことは?」
聞くと、
「初めてだ。」
先ほどかいた汗が乾ききらないうちに、吹きつける風のせいで気温が下がり体温が下がる。予測もしていない事態だ。背筋を悪寒が走る。彼はこの状況をどうしようかと考えている様子で僕の様子までは気づかないようだ。このままなんとか風が収まり、下山出来れば。それまで自分の体力がもつだろうか。
そんなことを考えていると、数分で風が収まり、視界が徐々に戻ってきた。彼はこのチャンスを逃さず、素早く地図とコンパス、高度計で方向を確認した。そして今のうちに林の中へ早く移動しようとした。林の中に入れば木々がある程度風をよけてくれる。
僕らは稜線上を離れ、ブナやナラが隣接する林の中まで移動することに成功した。林の中は、先程よりは体感的に風を感じることもなく安堵した。
なるべく先を急ごうと歩いていると、僕は徐々に身体が真っ直ぐに保てないことに気づいた。自分の身体がふわっと揺れて、真っ直ぐ歩いているつもりが斜めに移動していることに気づき、慌てて方向を修正する。それと同時に先ほどから感じていた寒さが急に増してくる。寒くて身体が震える。悟は天気が崩れる前に下山することに意識を集中しているので、僕の様子に気づかない。前をどんどん歩いていく。声をかけようとするのだが、歯の根が合わない。全身がひどくだるい。