52話
「大丈夫か?」
僕の様子を見て悟が声をかける。
「大丈夫だ。」
朝、食事の支度をしている時にもこんな感じで頭が痛み、めまいがした。引きずっている二日酔いでなければただの軽い風邪だ。心配をかけたくない。それよりも途中で行程を断念して戻ることが嫌だった。
「とりあえず休憩しようか。」
そう言って、僕らは樹氷の森で何度目かの休憩をとった。辺りを見回すと、何の足跡だろう?小さな足跡が点々と続いている。
「足跡がある。」
ザックからカロリーメイトを取り出して、彼に手渡しながら話しかけると、
「狐かテンだな。」
と、悟が答える。
「子供の頃はもっと足跡が多かったような気がする。動物の数が少なくなったんだろうな。」
「そうなんだろうね。」
「でも、どうやって足跡で見分けるんだ?」
尋ねると、
「狐の足跡は、連続して一直線につくのが特徴。指は4本だから犬に近いね。」
「テンは?」
「左右の足が横に並び、前足と後ろ足がほとんど同じ所につくのでわかりやすいよ。」
「おもしろい。」
それに興味を持った僕は、森の中についた足跡を追って、その足跡の持ち主を当てることにした。
「こっちはテンかな?」
「そうだな。」
足の指の形が5本ついている。
「狐より足の指が1本多いんだね。」
「もう少し上のほうに行くとカモシカがいるかもしれない。」
「へえ、カモシカ?」
カモシカか。どんな動物なんだろう。見たことがない。
「悟は見たことがあるの?」
「ああ、だいぶ前にな。」
「角があって意外とずんぐりとした感じの身体で茶色くて、山の上の方にいてじっと遠くからこちらの様子を伺っている。それをホント遠くから見たんだ。人間を観察しているんだよ。だからさ、俺らが動物を見てるんじゃなくて、動物が俺たちを観察しているんだよ。だってここは彼らのフィールドだからさ。俺たちはそのフィールドにお邪魔させてもらっているのに過ぎんからな。」
そんな話をしながら歩いていると、変わったものを見つけた。僕がそれを手に取り、
「これは何?」
差し出すと、
「あ、エビフライだ。」
悟が笑い出した。
僕が手に取ったものは、松ぼっくりの芯だけになっているものだった。これはリスが松の実を食べた跡。実の入っていない先端部分は、かじらずに残すので、ここをエビの尻尾に見立ててこの食跡を通称〝エビフライ〟というらしい。
「ほら。」
目の前に差し出された松ぼっくりの芯だけになった物をよく見ると、なるほど。エビフライだ。
「ほんとだ。美味しそうだ。」
僕も笑い出した。
こんな時間。何の変哲もない時間。たわいのない話、意味のない軽口の叩きあい。そんな時間。それがどうしてこんなに胸を締めつけるんだろう。過去のことも先のことも考えず、今この時間を過ごすこと。それがどうしてこんなに楽しいんだろう。そして自然の中に身を置いていると、ただそれだけで、何の特別なことがなくてもこんなに気持ちが満たされる。そしてひどく胸がわくわくする。こんな子供の頃のような気持ちになるのは何故だろう。
人が幸せだと思うのはこんな時間。自由で、何にも縛られずに、時間も止まったままで。そしてそれは彼がいるからだ。僕の側に。人はひとりではないと思うとき、どうしてこんなに満たされた気持ちになるのだろう。黒のニットキャップを目深に被り、無精ひげを生やした彼は目元をくしゃくしゃにして笑い、こちらを見た。
「こんなにある。」
子供みたいだ。〝エビフライ〟をあんなに集めて。
僕はまた胸を締めつけられる。ふと雪の斜面が傾いたような気がした。そしてある言葉が喉元のすぐそこまでせりあがってくる。
言ってしまいそうだ。言ってどうなる。文さんの顔が浮かんだ。(だめだよ。文さん。)僕は喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。そう、今までだって何回飲み込んだろう。それは言えない。
僕らは昼までにはその水晶平にある池(もちろん凍って雪を被ってるけど)の辺りまで歩いて、そこから景色を眺めて食事を済ませたら山を下るつもりでいた。15分歩いて5分休み、また15分歩いて5分休みを何回か繰り返すと、林を抜け稜線上にでた。
「足元に気をつけて。」
稜線に出ると所々に雪庇ができていた。
「雪庇の上を歩かないで。」
「雪庇って?」
「あれだよ。」
彼が、稜線上に出来ている雪が屋根上に張り出したものを指差した。
「ああ、あれ?」
「そう、踏み抜くと大変だ。」
「下は空洞ってこと?」
「そうだよ。」
僕らは慎重に雪庇を避けてその道を通過した。僕は急に雪崩のことを考え心配になった。そのことを彼に言うと、
「この付近では過去に雪崩が起きたことはないらしい。それにここ1週間ほどの間には大雪にはなっていないし。でも雪庇の崩壊が雪崩につながることもあるから、踏み抜かないように気をつけないと。」
そんなことを聞くと急に怖くなって、歩き方も急に大人しくなってしまう。
「まあ、そんなにびくびくすることはないよ。」
僕の様子をおかしそうに見ている。
「そりゃ、そっちは何回も経験があるからいいけど。」
「だから何回も来ている経験者がいるから大丈夫だって、言ってるじゃないか。」
僕らは顔を見合わせて笑った。お天気も良く、稜線から見る景色は雪と青空のコントラストが本当に美しかった。稜線上を少し歩くと、まるでスキー場のような平らな平原に出た。白い、本当に白い雪の斜面が平ぺったく広がり、その雪の地平線の向こうに青い空がぽっかりと出ていた。その先にはスギかカンバ類の木々の林が見える。
「この先だよ。もう少しだ。」
彼が指を刺した。その先を見ると白い雪の斜面に太陽の光が当たってきらきらと光っていた。まぶしいくらいだ。僕らは雪焼けをしないようにサングラスをし、鼻の下までネックカバーを引き上げてガードし、その斜面をトラバースで斜めに移動し始めた。平ぺったい斜めに回り込んだ雪の斜面を横切って歩く。これがなかなか簡単そうに見えて大変だ。左右のスノーシューをひっかけそうだ。
つまり斜めに雪の斜面を回り込むんだ。身体を山側に傾斜するようにして、足を左右に慎重に入れ替える。山側の方のストックを短めに持って、谷側を長くする。斜面に突き刺さすようにしてバランスを取る。が、ストックに体重をかけすぎると、反対にスリップしそうになって恐い。思ったより雪の斜面は傾度がある。
「練習しておけばよかったな。」
僕の様子を半分楽しんでいるように、悟がにやにやした。
「ほんとだ。」
彼の楽しそうな様子につき合っている余裕がない。僕は四苦八苦だ。
「ひっかけて転ばないようにしろよ。」
そういわれても足を入れ替えるときに、スノーシューをひっかけそうなる。そのまま滑って雪の斜面を滑落しそうだ。
「しっかり踏み込んで、山側からな。」
「滑らないようにクランポンとトラクションデバイスをきかせて。」
「なんだっけそのトラクションデバイスって?」
用語まで覚えきらないよ。まったく。
それでも少しずつコツを得て、斜面を横切って歩く。少し歩いて、休憩する。それを何回か繰り返す。たぶんせっかちな悟はもっと早く行きたいんだろうなと推測する。でもこの速さが精一杯だ。僕の四苦八苦している様子を楽しんでいる割には、それでも心配そうに何回も何回も肩越しに振り返る。〝大丈夫か〟って。朝から何回その台詞を聞いただろう。
「ちょっと待って。この先凍ってるわ。」
「え?」
「だって爪が刺さらんわ。」